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声かけられても笑顔で躱した
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姉さんの踊りが終わり、私たちは楽器をひとまず置いてから、お客さんたちにお酌をはじめた。
この辺りは前世でのキャバクラでさんざんキャストの先輩たちに叩き込まれたこともあって、楽器の稽古よりもよっぽど様になっていた。
「いやあ、素敵な演奏でしたね。芸妓になりたてで大変でしょうが、頑張ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
しおんは早速お客さんたちに声をかけられ、笑顔で対応していた。それでもお酒の酌には慣れていないようでまごつくのを、姉さんがすかさずフォローを入れるからボロが出ていない。
私も前世でさんざん先輩たちのお世話になったもんなあと、しみじみと思い返していたところで、私はよく知っている人にお酌をせねばと「お隣失礼しますね」と座って、お猪口に銚子でお酒を注いだ。
ふわんと香り立つ日本酒の香り。多分高い奴だろうなと想像がつくけれど、それを幸哉さんはひと口喉を鳴らして飲んだ。
「……ありがとうございます」
「いえ。おかわりはいりますか?」
「食事をいただいてからで」
「はい」
そこで会話は止まってしまう。
キャバクラ時代でだったら、もうちょっと話を繋ぐことができたけれど、幸哉さんの前でだったら駄目だった。
登紀子のもじもじとしたのがまろび出てしまうし、そもそも登紀子はそんなに口数の多い子じゃないから、変に思われてしまったら困ると、「お仕事はなにされてるんですか?」とか「ここには初めてですか?」みたいな初めての客の定番のセリフが喉から出てこない。
丁寧な箸使いで、食事をいただく幸哉さんを眺めながら、ここでずっと座っていても不自然だからと、他のお客さんの面倒を見ようとしたとき。
「ああ……」
幸哉さんがお猪口をひっくり返してしまった。ほとんどお酒は入っていなかったとはいえど、畳が少し濡れてしまう。
私は慌てて懐の手拭いで畳を拭いてから、「代わりのお猪口をいただいてきますね」と立ち上がって廊下に出た。
台所に新しいお猪口を取りに行こうとパタパタと歩いている中。
「登紀子さん」
呼ばれて立ち止まるべきか、無視するべきかを迷ってしまった。
聞きたいことはいくらでもあったけれど、それを聞いてしまっていいものかも、答えが出ない。
あなたは今どこでなにをしているのか、とか。
一見さんお断りなのに、どうやってここに来たのか、とか。
もう新しく所帯は持ったんだろうか、とか。
聞きたいことが溢れてきても、それを口にしてしまったら、まだ座敷に上がったばかりで稼いでもいないのに駄目だと、喉にすっぽりと蓋をした。
幸哉さんはしばらくはなにも言わなかったけれど、またひと言投げかけてきた。
「芸妓さん」
そう声をかけられてしまったら、答えるしかなくなった。
「はい」
「すみません、僕のせいでご迷惑をおかけして。着物は濡れませんでしたか?」
「いいえ。少し畳が濡れただけで、すぐ拭いたので無事でしたから。お客様はお召し物を汚したりしませんでしたか?」
「僕は食事をしていただけで、特になにも……いい旅館ですね」
そう言って、廊下から中庭を眺めた。
わびさびを取り入れたそこは、太い苔むした松の下に石と砂利が敷き詰められて、砂利は波を描いている。典型的な枯山水の庭だった。
灯りで夜も見えるようにしているところがまた、粋な心遣いだ。
「そうですね」
「……今日、初めて座敷に上がったと伺いましたけど、いつから芸妓として修業なさっていたんですか?」
その言葉に、私は答えを探して考えあぐねる。
幸哉さんは優しい人だ。少なくとも私の記憶だけでなく、登紀子の中でも相当根を張っているくらいには。
でも、再会するまでに時間が経ち過ぎている。
『華族ロマネスク』では、時間経過と共に、変化というよりも変質と言ったほうがいいくらいに性格が豹変してしまう人が少なくなくて、彼が私や登紀子の知っていた彼のままだという保証がどこにもなかった。
少なくとも婚約を破談した幸哉さんのお父様は、登紀子の実家が借金まみれになったと知った途端に破談する程度には損切りが早い。これは次男が悲惨な目に合わないようにという配慮というよりも、おたくの息子さん預かってますからたかりに行きますという火の粉が飛んでくるのを防ぐためもあったのだろう。
そんな損切りの早いお父様の影響を、幸哉さんが受けていないとは考えにくいのだ。
一瞬ゴクリと唾を飲み下してから、私は笑顔をつくる。
前世からの専売特許だ。どんなときにも、笑顔を忘れずに。
「新しいお猪口をすぐに用意しますから、ひとまず先にお座敷にお戻りくださいませ。すぐに戻りますから」
「芸妓さん……自分は、早乙女幸哉と申します。あなたは、なんとお呼びしたらよろしいですか?」
そう尋ねられてしまった。
笑顔が解けそうになるのを必死で堪えて、私はなんとか喉から声を振り絞った。
「……ときをとお呼びくださいませ」
「ときをさん」
「それでは、お座敷でごゆるりとお寛ぎあそばせ」
そうしゃなりと礼をしてから、私はそそくさと廊下を歩いて行った。
目尻から涙が溢れそうになるのを、私は必死で堪えていた。
名前で呼んでくれた。呼んで欲しかった。あの人は誠実そうなままだった。でも。
私の中で、死んだと思っていた登紀子がわんわんと声を上げて泣き出すのを感じながら、必死で堪えた。
『華族ロマネスク』では、いい人から順番に退場していく。残ったのは実父も含めて、ろくでもない人物ばかりだ。
もし私が幸哉さんに泣きついたら……攻略対象たちを刺激しそうで怖い。
そもそもこの辺り一帯の不審者事件が全く解決していないんだ。これが攻略対象という証拠もないのに、攻略対象じゃないという保証もない。
死ぬかもしれないところに、幸哉さんを巻き込める訳ないじゃない。
「お願いだから冷静になってよ……あなただって幸哉さんが死ぬのは嫌じゃない。私たち、まだなんにも稼いじゃいないんだから、ここを五体満足に出られる保証だってないのよ? あなただってしばらく心を閉ざして死んだふりするくらいに、ひどい目に遭ったんでしょう? 同じ目に幸哉さんに遭って欲しいの? 少なくとも私は嫌だよ」
私は登紀子にそう呼びかける。私の中の登紀子のぐずり声が止まった。よし。
お金を稼いで、遊郭を出よう。攻略対象たちが手出しできない場所まで行かなくちゃ。
そう心に強く決めたんだ。
****
「幸哉、柳田家のご息女との婚姻、諦めてもらう」
父に呼び出しを受けたと思ったら、開口一番にそう切り出された。
それに思わず僕は噛みついた。
「……どうしてですか? 父さんも彼女のことを気に入っていたではないですか」
「ああ、今時女学校に入ったら、すっかりと俗っぽくなる娘が多い中、彼女は華族としての振る舞いを忘れない、いい娘さんだと思っているよ。だが、柳田家はもう駄目だ……彼女のことは残念だが、諦めなさい」
「説明になっていません。どういうことかお教え願えますか?」
「最近、柳田家が傾いているということは知っていたかね?」
華族は基本的に俗世に疎い。
商売っ気のある華族は面汚しだとそしりを受けるが、見栄ばかり張る張りぼて状態を続けた結果、どんどん資産を食い潰していく者が後を絶たないとは聞いていた。
「知っていますが……柳田家が傾きかけているのであれば、建て直せばよいではありませんか。僕はそのために養子に入るつもりだったのですから」
「辞めておけ。借金が問題ではないのだ」
「では……いったいなにがそんなに問題なんですか?」
「金勘定ができない。それだけならば、我が家が援助をすれば済む問題ではあったが……よりによって借金する先をあそこは間違えた」
カポン、とししおどしが鳴った。父の声は硬かった。
「よりによって、成金の鬼龍院家の援助を受けるとは……あそこと関わってはならん。火の粉が飛んでくる前に、養子縁組の話を白紙に戻してもらう」
「……鬼龍院と、ですか?」
父は頷いた。
最近やけに界隈を賑わせている富豪であり、わずか一代で巨万の富を得たとは言われているが、その商売には薄暗いところが多い。
裏であくどい者たちと手を組んでいるとか、謀略で社交界の人心掌握をしているとか。
既に没落しかかっている柳田家では、抵抗なんてできないだろう。
父の言うことは正しいが。
「登紀子さんだけでも助けたいなんて、青臭いことを言うんじゃない」
「……っ!」
「彼女のことは、諦めなさい」
父のひと言に、僕はとうとう最後まで逆らい続けることができなかった。
今でも後悔している。どうしてあのとき、なにがなんでも彼女を助けると言い切ることができなかったのかを。
家を出たのは、それから一年経った頃だった。
この辺りは前世でのキャバクラでさんざんキャストの先輩たちに叩き込まれたこともあって、楽器の稽古よりもよっぽど様になっていた。
「いやあ、素敵な演奏でしたね。芸妓になりたてで大変でしょうが、頑張ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
しおんは早速お客さんたちに声をかけられ、笑顔で対応していた。それでもお酒の酌には慣れていないようでまごつくのを、姉さんがすかさずフォローを入れるからボロが出ていない。
私も前世でさんざん先輩たちのお世話になったもんなあと、しみじみと思い返していたところで、私はよく知っている人にお酌をせねばと「お隣失礼しますね」と座って、お猪口に銚子でお酒を注いだ。
ふわんと香り立つ日本酒の香り。多分高い奴だろうなと想像がつくけれど、それを幸哉さんはひと口喉を鳴らして飲んだ。
「……ありがとうございます」
「いえ。おかわりはいりますか?」
「食事をいただいてからで」
「はい」
そこで会話は止まってしまう。
キャバクラ時代でだったら、もうちょっと話を繋ぐことができたけれど、幸哉さんの前でだったら駄目だった。
登紀子のもじもじとしたのがまろび出てしまうし、そもそも登紀子はそんなに口数の多い子じゃないから、変に思われてしまったら困ると、「お仕事はなにされてるんですか?」とか「ここには初めてですか?」みたいな初めての客の定番のセリフが喉から出てこない。
丁寧な箸使いで、食事をいただく幸哉さんを眺めながら、ここでずっと座っていても不自然だからと、他のお客さんの面倒を見ようとしたとき。
「ああ……」
幸哉さんがお猪口をひっくり返してしまった。ほとんどお酒は入っていなかったとはいえど、畳が少し濡れてしまう。
私は慌てて懐の手拭いで畳を拭いてから、「代わりのお猪口をいただいてきますね」と立ち上がって廊下に出た。
台所に新しいお猪口を取りに行こうとパタパタと歩いている中。
「登紀子さん」
呼ばれて立ち止まるべきか、無視するべきかを迷ってしまった。
聞きたいことはいくらでもあったけれど、それを聞いてしまっていいものかも、答えが出ない。
あなたは今どこでなにをしているのか、とか。
一見さんお断りなのに、どうやってここに来たのか、とか。
もう新しく所帯は持ったんだろうか、とか。
聞きたいことが溢れてきても、それを口にしてしまったら、まだ座敷に上がったばかりで稼いでもいないのに駄目だと、喉にすっぽりと蓋をした。
幸哉さんはしばらくはなにも言わなかったけれど、またひと言投げかけてきた。
「芸妓さん」
そう声をかけられてしまったら、答えるしかなくなった。
「はい」
「すみません、僕のせいでご迷惑をおかけして。着物は濡れませんでしたか?」
「いいえ。少し畳が濡れただけで、すぐ拭いたので無事でしたから。お客様はお召し物を汚したりしませんでしたか?」
「僕は食事をしていただけで、特になにも……いい旅館ですね」
そう言って、廊下から中庭を眺めた。
わびさびを取り入れたそこは、太い苔むした松の下に石と砂利が敷き詰められて、砂利は波を描いている。典型的な枯山水の庭だった。
灯りで夜も見えるようにしているところがまた、粋な心遣いだ。
「そうですね」
「……今日、初めて座敷に上がったと伺いましたけど、いつから芸妓として修業なさっていたんですか?」
その言葉に、私は答えを探して考えあぐねる。
幸哉さんは優しい人だ。少なくとも私の記憶だけでなく、登紀子の中でも相当根を張っているくらいには。
でも、再会するまでに時間が経ち過ぎている。
『華族ロマネスク』では、時間経過と共に、変化というよりも変質と言ったほうがいいくらいに性格が豹変してしまう人が少なくなくて、彼が私や登紀子の知っていた彼のままだという保証がどこにもなかった。
少なくとも婚約を破談した幸哉さんのお父様は、登紀子の実家が借金まみれになったと知った途端に破談する程度には損切りが早い。これは次男が悲惨な目に合わないようにという配慮というよりも、おたくの息子さん預かってますからたかりに行きますという火の粉が飛んでくるのを防ぐためもあったのだろう。
そんな損切りの早いお父様の影響を、幸哉さんが受けていないとは考えにくいのだ。
一瞬ゴクリと唾を飲み下してから、私は笑顔をつくる。
前世からの専売特許だ。どんなときにも、笑顔を忘れずに。
「新しいお猪口をすぐに用意しますから、ひとまず先にお座敷にお戻りくださいませ。すぐに戻りますから」
「芸妓さん……自分は、早乙女幸哉と申します。あなたは、なんとお呼びしたらよろしいですか?」
そう尋ねられてしまった。
笑顔が解けそうになるのを必死で堪えて、私はなんとか喉から声を振り絞った。
「……ときをとお呼びくださいませ」
「ときをさん」
「それでは、お座敷でごゆるりとお寛ぎあそばせ」
そうしゃなりと礼をしてから、私はそそくさと廊下を歩いて行った。
目尻から涙が溢れそうになるのを、私は必死で堪えていた。
名前で呼んでくれた。呼んで欲しかった。あの人は誠実そうなままだった。でも。
私の中で、死んだと思っていた登紀子がわんわんと声を上げて泣き出すのを感じながら、必死で堪えた。
『華族ロマネスク』では、いい人から順番に退場していく。残ったのは実父も含めて、ろくでもない人物ばかりだ。
もし私が幸哉さんに泣きついたら……攻略対象たちを刺激しそうで怖い。
そもそもこの辺り一帯の不審者事件が全く解決していないんだ。これが攻略対象という証拠もないのに、攻略対象じゃないという保証もない。
死ぬかもしれないところに、幸哉さんを巻き込める訳ないじゃない。
「お願いだから冷静になってよ……あなただって幸哉さんが死ぬのは嫌じゃない。私たち、まだなんにも稼いじゃいないんだから、ここを五体満足に出られる保証だってないのよ? あなただってしばらく心を閉ざして死んだふりするくらいに、ひどい目に遭ったんでしょう? 同じ目に幸哉さんに遭って欲しいの? 少なくとも私は嫌だよ」
私は登紀子にそう呼びかける。私の中の登紀子のぐずり声が止まった。よし。
お金を稼いで、遊郭を出よう。攻略対象たちが手出しできない場所まで行かなくちゃ。
そう心に強く決めたんだ。
****
「幸哉、柳田家のご息女との婚姻、諦めてもらう」
父に呼び出しを受けたと思ったら、開口一番にそう切り出された。
それに思わず僕は噛みついた。
「……どうしてですか? 父さんも彼女のことを気に入っていたではないですか」
「ああ、今時女学校に入ったら、すっかりと俗っぽくなる娘が多い中、彼女は華族としての振る舞いを忘れない、いい娘さんだと思っているよ。だが、柳田家はもう駄目だ……彼女のことは残念だが、諦めなさい」
「説明になっていません。どういうことかお教え願えますか?」
「最近、柳田家が傾いているということは知っていたかね?」
華族は基本的に俗世に疎い。
商売っ気のある華族は面汚しだとそしりを受けるが、見栄ばかり張る張りぼて状態を続けた結果、どんどん資産を食い潰していく者が後を絶たないとは聞いていた。
「知っていますが……柳田家が傾きかけているのであれば、建て直せばよいではありませんか。僕はそのために養子に入るつもりだったのですから」
「辞めておけ。借金が問題ではないのだ」
「では……いったいなにがそんなに問題なんですか?」
「金勘定ができない。それだけならば、我が家が援助をすれば済む問題ではあったが……よりによって借金する先をあそこは間違えた」
カポン、とししおどしが鳴った。父の声は硬かった。
「よりによって、成金の鬼龍院家の援助を受けるとは……あそこと関わってはならん。火の粉が飛んでくる前に、養子縁組の話を白紙に戻してもらう」
「……鬼龍院と、ですか?」
父は頷いた。
最近やけに界隈を賑わせている富豪であり、わずか一代で巨万の富を得たとは言われているが、その商売には薄暗いところが多い。
裏であくどい者たちと手を組んでいるとか、謀略で社交界の人心掌握をしているとか。
既に没落しかかっている柳田家では、抵抗なんてできないだろう。
父の言うことは正しいが。
「登紀子さんだけでも助けたいなんて、青臭いことを言うんじゃない」
「……っ!」
「彼女のことは、諦めなさい」
父のひと言に、僕はとうとう最後まで逆らい続けることができなかった。
今でも後悔している。どうしてあのとき、なにがなんでも彼女を助けると言い切ることができなかったのかを。
家を出たのは、それから一年経った頃だった。
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