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【本編】
08
しおりを挟む何なんだ?
一体どうなってるんだ?
「だ、出し、出して……」
取り返そうと池田に詰め寄り胸に手を伸ばしたが、ポケットの中身を探り「契約書?」を取り返すよりも先に手の上に池田のギプスが重なった。
怪我した左手を乱暴に振り払うわけにもいかず、がっちりと硬直。
でも内心は冷や汗。
何か変だ。
取り返さないと危険という気がする。
にじにじ近付きながら、固い唾を飲み込む。
頭の中でまたピンチピンチの警鐘が瞬き始めた。
押さえられたギプスの下で、怪我を気にしつつもかさかさ指を動かす。
爪がかりかりシャツのポケットを引っ掻くが、中にある「契約書?」には指が届かない。
全神経を指先に集中、「契約書?」奪還に躍起になっていると、池田の指が唇に触ってきた。
「敬語禁止」
「へ?」
喋るな、とばかりに唇を押さえてきた指に視線を上げてみれば、池田がにこりと笑う。
何を考えているのかがさっぱりと分からない正体不明の笑みだ。
「まずは普通に喋ること。ですます調はなしな。それから、思ったことは何でも口に出すこと。ストレスは身体に悪い。苦情その他はいつでも受付可能……まあ受け入れるかどうかはさて置き、な」
「……」
つらつらと語る池田の言葉は、その顔面に貼りついた笑み以上に意味が分からないものだった。
この人、何言ってんの?
唇を押さえられたまま、瞬きすら忘れる。
そんな俺を、池田が気にする様子は全く無い。
「次に、「池田さん」も禁止」
「……」
なら、一体何と呼べば……
魔王な兄貴の友達だから、同じように魔王様とでも呼べというのか?
凍り付いたまま反応を見失っていると、池田はすうと目を細めた。
上睫毛と下睫毛の隙間から、ガラス球みたいな灰色の目が面白がる様子を隠すことなく向けられている。
「池田さま、玖朗さま、玖朗、ご主人さま、ダーリン、ハニー、どれで呼びたい?」
「……」
どれも嫌だ。
あまりに理想の選択肢のない呼びかけに、あんぐりと口が開くのが分かった。
池田の思考が分からない。
一体何を思って、池田はこんなことを言い出しているんだろう。
池田という名前なんだから、「池田さん」と呼んで何が悪いというのだ。
別に田中さんに向かって鈴木くんと呼んでいたわけでもないのに……
「どれが良い?」
二度目の問いかけ。
反応の無い俺の態度に焦れたのか、池田はまた同じ質問を繰り返した。
だが、おいそれと返事が出来るわけがない。
一体何を選べば正解をもらえるのかがさっぱりわからない。
そもそも、正解を貰う必要があるのかも。
「い、池田……さん……」
「そうか、ご主人さまが良いのか」
「っや、やっぱなし!」
ふむ、と頷きかけた池田に慌ててストップ、放心している暇は無いと思考を巡らせる。
「えーッと、えー……」
何が候補に挙がっていたっけな?
池田さまと玖朗さまと玖朗と……
ヤンキー崩れを様付けで呼ぶほど俺は落ちぶれていない……と思う。
かといって、年上の人を呼び捨てに出来るほどご立派な人間というわけでもない。
ご主人さまなんてもっての外だし、ダーリンハニーなんてアホ臭い呼び方なんて論外もいいところだ。
「玖朗……さん……?」
「奇遇だな、オレも何となくダーリンと呼ばれたい気分だった。じゃあオレはハニーとでも呼ぶか?」
「く、くろッ、玖朗!」
頭の中で風船が弾けた。
この男、全く会話が通じない。
兄貴と一緒で、意思の疎通というものを図ろうとしない。
殆ど泣き出しそうになりながらも自棄になって叫ぶと、池田は真面目腐った顔をしてまた「ふむ」と頷いた。
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