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第伍章 引き金、弦の章

第七十一節 使命を果たすべきとき

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織田信長の愛娘・いとは、尊敬する父がおのれに重大な使命を課していることを知っていた。

「戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したい」
と。

「今こそ、その『使命を果たすべきとき』では?」
こう言って父の背中を押し始める。

ただし。
自分のこの一言が、父の人生を大きく変えてしまうことなど……
今の彼女には知るよしもない。

 ◇

いとよ。
『なぜ』、今だと思うのか?」

「先程。
お母上[自分を育ててくれた信長の妻・帰蝶きちょうのこと]と、明智光秀様という御方にお会いして……
確信したからです」

「明智光秀?
帰蝶が『味方』にすべき男だと申していた者だな」

「はい」
「光秀は今、幕府の家臣となっているはず。
幕府の使者として来たのであれば……
盟友の徳川家康と共に尾張国おわりのくに三河国みかわのくに[合わせて現在の愛知県]と、制圧したばかりの美濃国みののくに[現在の岐阜県]から兵を集め、三ヶ国の大軍を率いて三好みよし一族から京の都を奪還せよとの話であろう?」

「その通りです。
足利義昭あしかがよしあき公を将軍に据える手伝いをして頂きたいと」

「足利義昭は……
実の兄である将軍・足利義輝あしかがよしてる公が三好みよし一族に殺されて以来、各地を流浪るろうしていたとか。
わしが美濃国みののくにの制圧に成功したことをどこかで聞き付けたのだろうな」

「恐らく、そうでしょう」
いとよ。
わしは足利義昭あしかがよしあきという人物を『徹底的』に調べた結果、一つの結論に至っている」

「どんな結論に?」


「どうしてそう思うのです?」
「『行き当たりばったり』だからじゃ」

「……」
「実際。
行き当たりばったりの義昭に協力する大名や国衆くにしゅう[独立した領主のこと]など誰もおらんではないか。
むしろ。
皆、義昭からの要請にあきれ返っているわ」

「なるほど。
お父上の力で将軍になったところで、周囲に振り回されて『何の役にも立たない』に決まっていると?」

「その通りよ。
あいつと比べれば、第13代将軍であった兄の義輝よしてる公の方がはるかに立派なこころざしを持つ御方であった。
大名や国衆くにしゅう同士のいくさを止めさせようと盛んに働きかけておられたからのう。
そのせいで武器商人どもから激しい憎悪を買い、無残な最期に終わったが……」

こころざしを持つことは立派だと思います。
ただし。
志を貫くのに『こだわって』しまうと、かえって争いの元となって悲劇的な結末を迎えるかもしれません」

「……」
「義輝公のこころざしはご立派でしたが、その志を貫くのにこだわったことで……
?」

「そういう考え方もあるな」

 ◇

いとは、父の背中を強く押し始める。

「今、最もすべきことは何かをお考えください。
お父上様」

「最もすべきこと?」
「お父上は、こう教えてくださいました。
『戦国乱世となった原因は……
おのれの、しかも目先の利益ばかりを追求して争いや分断を招き、その結果として秩序を崩壊させてしまったからではないか。

と」

「よく覚えているのう」
「逆に考えれば。
日ノ本ひのもと中の人々がおのれの目先の利益よりも秩序を優先すれば、戦国乱世に終止符を打てるということです」

「確かに、そうなるだろう」
「ただし。
お父上一人の力で、日ノ本中にこのことを知らしめることはできません」

「『味方』が必要だと申したいのか?」
「はい。


「……」
「お父上ならばよくお分かりのはず。
『欲』でつながった味方ほど、当てにならないものはないと」

「ああ。
欲でつながった味方ほど、弱くて、役に立たない存在はない。
些細ささいな疑いを吹き込まれた程度で疑心暗鬼ぎしんあんきに陥り、みにくい身内争いを起こして勝手に自滅する連中よ。
そんな邪魔でしかない味方こそ真っ先に斬り捨てるべきであろう!
いくさとは大抵、相手が強くて敗北するのではなく……
弱くて、役に立たない味方が『足を引っ張った』せいで敗北するものだからな」

「はい。
正直なところ……
人の上に立つ器ではない足利義昭あしかがよしあき公を将軍に据えたところで、お父上の足を引っ張る存在となるだけでしょう」

「……」
「そうだとしても!
三好みよし一族から京の都を奪還して義昭よしあき公を将軍に据え、崩壊した秩序を回復させるべきです」

いとよ。
なぜ……
そこまで、はっきりと言い切れる?」

「お考えください。
おのれの目先の利益よりも誰かの役に立つ生き方をしたいと願う清廉潔白せいれんけっぱく[心が清くて私欲がない人のことを指す]な人々は、お父上の振る舞いを見てどう感じるでしょうか?」

「わしに、『共感』してくれると?」
「はい」

「なるほど」
「今こそ!
銭[お金]を持ちながら、あるいは武力を持ちながら……
利益がないからと何もせず、大勢の人々が苦しむ姿に見て見ぬ振りをし、ただただおのれの私腹を肥やすことばかりに励む無能な者たちとの『違い』を示されては如何いかがです?」

「ははは!
いとよ。
すべて、そなたの申す通りじゃ。
それにしても……
そなたの育ての母である帰蝶きちょう、そしてそなたは……
わしにとって掛け替えのない味方だな」

やがて。
愛娘に背中を押されるままに行動を起こした織田信長は、明智光秀という貴重な味方を得る。

加えて。
将軍に据えた足利義昭あしかがよしあきに人の上に立つ器などなく、常に周囲に流されて行き当たりばったりな行動を続けて信長の足を引っ張り続け、そのせいで何度も窮地に陥ったが……
盟友の徳川家康、家臣の柴田勝家しばたかついえ丹羽長秀にわながひで滝川一益たきがわかずます森可成もりよしなり木下秀吉きのしたひでよしなどは窮地に陥った信長を決して見捨てなかった。
むしろ命懸けで信長に尽くし、そのおかげで信長は何度も窮地を乗り切れたのである。

すべて、愛娘の言う通りとなった。



愛娘に強く背中を押された信長も、大きな心配事を抱えていたようだ。

いとよ。
わしには、大きな心配事がある」

「どんな心配を?」
「武田信玄」

「武田信玄公!
甲斐国かいのくに[現在の山梨県]のとらとも呼ばれている御方ですね」

「わしは、あれほどまでに優れた『手腕』を持つ男を見たことがない」
「……」


終わりではないか?」

「その心配なら、『ない』と存じます」
「ない!?
それはまことか?」

「わたくしの故郷の恵那郡えなぐん[現在の岐阜県恵那市付近]は、信玄公の領地である信濃国しなののくに[現在の長野県]の隣に位置しています。
信玄公の話はよく入って来ていました」

「信玄の話を聞いて……
いとよ、そなたはどう感じたのじゃ?」

「お父上に、よく『似た』御方かと」
「わしに似ている?」

「協調性に欠け、非常識で、不器用ですが……
並外れた『純粋』さをお持ちです」

「純粋さ、か」
「信玄公ならば、お父上と同じこころざしを持つ味方となるはず」

「そうかもしれないが……
それだけで信玄を信用するのも難しかろう」

心配をぬぐえない父に対し、いとは強く言い切ってみせた。
「わたくしをお信じください。
お父上。
信玄公に背後を襲われる心配はありません。
安心して『全軍』を京の都へと進め、使命を果たされませ」

一方の父は、愛娘の言葉を鵜呑みにできない。
「そなたは鋭い。
わしは、その鋭さを誰よりも理解しているつもりじゃ。
ただ……
並外れて純粋なだけで信用できるだろうか?」

「……」
「仮に。
信玄にわしの背後を襲う気がないとしても、武田家の他の者たちが同じように考るとは限らんぞ?
『織田信長と徳川家康が領地を留守にした今こそ!
尾張国おわりのくに三河国みかわのくに[合わせて現在の愛知県]、そして美濃国みののくに[現在の岐阜県]を我が物とする千載一遇せんさいいちぐうの好機ではないか!』
こう考える欲深い者どもが必ずいる」


お父上」

「行く!?
どこへ?」

「『政略結婚の道具』として、わたくしを武田家へ送り込んでくださいませ」
「なっ!?
何を馬鹿な!
そなたを武田家へ送り込めだと?」

「はい」
「そんなの駄目に決まっているではないか!
あまりにも危険過ぎる……
織田家と武田家には、何の『えん』もないのだぞ!」
 
「それはよく分かっています」
「そなた……
よく分かっていて、無茶なことを……
わしを困らせたいのか?」

「そうではありません。
お父上。
わたくしを、お父上にとって掛け替えのない『味方』だと思って頂いているのであれば……
このこともよくお分かりなのではありませんか?


「そ、それは」
「わたくしもまた……
『使命を果たすべきとき』なのです」


【次節予告 第七十二節 信長と信玄が憧れた天才】
弦は……
ある若者の話を始めます。
その若者は、史上最も多くの幕府軍の兵を葬り去った戦争の『天才』でした。
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