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第伍章 引き金、弦の章

第六十八節 正義と悪の境目とは

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1573年4月3日夜。
現在の京都市二条通より北側に当たる上京かみぎょうを、未曾有みぞう惨劇さんげきが襲った。

この惨劇を目撃した宣教師のルイス・フロイスは、こう語っている。
「恐るべき戦慄せんりつ的な情景が展開された。
上京のすべての神社、寺、家屋もろとも焼失し、それらを焼き尽くす轟々ごうごうたる炎は最後の審判の日さながらであった。
加えて織田軍の兵士たちによる凄まじい略奪が始まった。
所持品や衣服を奪われたのみならず、虐待と拷問によって隠した財産の場所を白状させられた者たちもいた。
こんな光景を見るのは、あまりにも嘆かわしい……」
と。

比叡山ひえいざんの焼き討ちでの犠牲者は数千人規模であったが、この『上京かみぎょうの焼き討ち』によって焼失した家屋は6,000~7,000軒にも及び、数万人規模の犠牲者を出した。
ところが!
不思議なことに……
犠牲者の規模がはるかに少ない、比叡山の焼き討ちの方が抜群の知名度を誇っているのだ。



 ◇

「織田信長の行為は『正義』か、それとも『悪』か?」

歴史研究家たちは長年にわたってこの議論を続けてきた。
人々が見聞きする小説、演説、メディア、SNSのほとんどが、正義と悪の対立という『手法』を用いて内容を分かりやすくしている以上……


ただし。
実際のところ正義と悪の対立は、ただの犯罪者と、それを追う警察官の設定くらいにしか存在しない。
それ以外はすべて、『こちら側』の正義と、『あちら側』の正義との対立である。

「織田信長の行為は正義か、それとも悪か?」
こんな議論は時間の無駄でしかないのだ。

あの比叡山ひえいざんの焼き討ちも、この上京かみぎょうの焼き討ちも……
信長の立場になって考えれば純粋な『正義』そのものなのだから。

 ◇

「まだ次がある」

千ほどの哀れなむくろの前で、ひたすら強がっていた山城やましろ屋は……
すぐ後ろに控えている男に話し掛けた。

下山平兵衛しもやまへいべえ
「はっ」

「我ら上京かみぎょうの5人衆は長年にわたって、そちたち伊賀者いがもの伊賀国いがのくに、現在の三重県伊賀上野市付近に住む人々のこと]に莫大な銭[お金]を払ってきた」
「はっ」

「代は替わっても、『飼い主』が誰かを忘れてはいないだろうな?」
勿論もちろんです」

「わしが何を望んでいるか、分かるか?」
「それがしに……
配下の伊賀者いがものを率いて織田信長を討てと?」

「うむ。
そちの率いる伊賀者いがものは数百人程度ではあるが、忍びの術を極めた精鋭ぞろいであろう?
同じ数の敵を討つなど容易たやすいはず」

「そうかもしれませんが」
「信長を討つ千載一遇せんさいいちぐうの好機ぞ?」

「あれがまことに信長の本陣であれば、ですが……
全軍の総大将がこんな危険な最前線に出てくるなど聞いたことがありません。
安全な後方にいるのが『常識』では?」

「奴に常識など、ない。
虐殺や略奪を直に見るために前線に出たのであろう」

「果たして……
そうでしょうか?
他人ばかりを危険な場所に置かず、自ら陣頭に立っておのれの身を危険にさらすことを心掛けている将のようにも思えますが」

山城やましろ屋は平兵衛へいべえの質問に答えず、別の話を始める。
「そういえば。
そちの故郷、伊賀国いがのくにについて……
ある話を聞いたぞ」

「どんな話を?」
伊賀国いがのくにの隣にある、伊勢国いせのくに[現在の三重県]が信長に乗っ取られたことは知っていよう?」

伊勢国いせのくにの名族、北畠きたばたけ神戸かんべ長野ながのなどへ次々と養子を送り込んでいる話なら知っております」
「うむ。
それらの名族の中でも、幕府から伊勢国の支配者に任命されていた北畠一族の養子に送り込まれた信長の息子が……
ある『計画』を立てているらしい」

「どんな計画を?」
「養父である北畠具教きたばたけとものりら一族を皆殺しにして、伊勢国いせのくにを完全に掌握しょうあくすることをな」

「何と!?」
「要するに。
もうすぐ伊勢国いせのくにが、信長の元に『一つになる』ということよ」

「……」
「元々、伊勢国いせのくには一つではなかった。
北畠きたばたけ神戸かんべ長野ながのなどが相争っていたからのう。
ただし!
そのおかげで、隣の伊賀国いがのくににまで手を出す『余裕』がなかったのじゃ」

「信長の息子が伊勢国いせのくにを完全に掌握すれば……
?」

「うむ」
「……」

「故郷の国の平和を脅かす『悪人』を討て、平兵衛へいべえ
どんな犠牲を払おうとな」

「はっ」
あるじから命令を受けた武器商人の飼い犬・下山平兵衛しもやまへいべえは配下の伊賀者いがものに集結を命じた。

 ◇

「皆の者。
信長の本陣が、我らの目と鼻の先にある。
信長の首を取れば……
どうなるか想像してみよ」

「褒美の銭[お金]がたんまりもらえると?」
「ああ。
今、上京かみぎょうの人々は未曾有みぞうの虐殺と略奪の餌食になろうとしている。
彼らを救えばどうなるか分かるであろう?」

「おお!
これは……
計り知れない銭[お金]をもらえる機会ではないか!」

「そうじゃ!
わしはやるぞ!
信長の首を取れ!」

配下の伊賀者いがものの戦意が十分に高まったのを見た平兵衛へいべえは、攻撃の命令を発する。
「信長の本陣には2百人ほどの精鋭の鉄砲隊がいる。
竹束たけたば[鉄砲を弾くことができる盾のこと]を構えて前進せよ。
敵の目と鼻の先まで接近してから、斬り込むのだ。
良いな」

おうっ!」
数百人の伊賀者いがものが盾を構えて前進を始めた。

 ◇

「撃ち方、始めっ!」
敵陣の鉄砲隊が射撃を開始したが、そのすべてが竹束たけたばに弾かれていく。

「これは……
いけるぞ!
あと、もう少しじゃ」
盾を構えながら進む伊賀者いがものたちから勝利を確信した声が上がり始めた。

「よし!
敵を切り刻めっ!」

盾を投げ付けて敵へ一気に肉薄した瞬間!


「ぎゃあっ!」
「何じゃこれは!」
「奴ら、落とし穴を掘っていたのか!
いつの間に!?」

落とし穴の中には、念入りに無数の竹や刀を配置していたようだ。
数十人の伊賀者いがものが一瞬で身体を貫かれた。

それでも、まだ……
悲劇は終わらない。

「今だ!
一斉に射てっ!」

大地を揺らさんばかりの射撃音がとどろく。
敵はさらに後方へ多数の鉄砲隊をひそませていたらしい。
至近距離から一斉射撃を食らい、伊賀者たちの大半が射殺された。

「何と!?
信長め、更に新手の鉄砲隊を隠していたのか!
まんまとしてやられた!」

慌てて配下の伊賀者に退却を命じた平兵衛へいべえはあることに気付く。
「ん?
なぜ、ここに!?」

山城やましろ屋とその一族が、自分のすぐ背後にいたのである。

 ◇

平兵衛へいべえはすべてを察したようだ。

「我らを『おとり』にして……
逃げる算段でしたか」

「う……」
沈黙するあるじを見て、続く平兵衛へいべえの行動は一瞬であった。

「ぐはっ!」
山城やましろ屋は……
自分の身体を一本の刀が貫いたことに、やや遅れて気付く。

「この不忠者め!
!」

断末魔の絶叫を上げて死んでいくあるじを見て、側にいた伊賀者いがものの一人が平兵衛へいべえに声を掛ける。
「平兵衛殿。
これは一体?」

「わしは……
仕えるあるじを間違えたようだ」

「銭[お金]をくれる者こそ主では?」
「わしも最初はそう思っていたが……
疑問を感じるようになっていた」

「どんな疑問を?」
「『我らは犬ではなく、人ではないか』
と」

「……」
「加えて。
この一連の出来事を見て……
考えていたことがある」

「何を考えていたのです?」
「戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したいとのこころざしつらぬくためならば……
無関係な人々もいる上京かみぎょうを焼き討ちにして未曾有みぞうの虐殺と略奪を行うことができる、目的のためなら手段を選ばない織田信長。
一方で。
努力ではなく相続そうぞくによって権力や富を得、世のためでも人のためでもなく、ただおのれの銭[お金]を増やすことばかりを優先する上京かみぎょうの武器商人。

と」

「どちらが正義で、どちらが悪……
難しいですな」

「わしには正義と悪の『境目』がどこにあるかは分からん。
ただし!
一つだけ、はっきりしていることはある」

「何をです?」
「わしはな……
おのればかりを安全な場所に置き、他人ばかりを危険な場所に送り込むような恥知らずをあるじあおぎたくはない!
反吐へどが出るわ!
それよりは、陣頭に立って己の身を危険にさらすような将こそ主に仰ぎたい」

「信長に仕えたいと?」
「わしも、伊賀国いがのくにの人々も。
今こそ……


「何と!」
伊勢国いせのくにへ行こう。
信長の息子に、こう願い出るのだ。
伊賀国いがのくにを治めて頂きたい』
とな。
一緒に来てくれ」

「はっ。
その前に、残された一族をどうします?」

「一族には恩がある。
安全な場所まで送り届けてやろう」

平兵衛へいべえたちは、一族を抱えて風のように消えていった。


【次節予告 第六十九節 焼き討ちの真の目的】
主はこう言います。
「これで。
『愛娘』を抹殺した4人の屑どものうち、丹波屋を除く3人を始末できたな」
と。
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