大罪人の娘・前編

いずもカリーシ

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第壱章 前夜、凛の章

第四節 桶狭間の戦い

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凛の侍女頭じじょがしら阿国おくに

加賀国かがのくに[現在の石川県]で生まれたが、幼い頃に戦争で家を焼かれ、両親も殺されて戦災孤児となる。
たった一人、全財産の入ったかごを背負い……
親戚を頼って隣の越前国えちぜんのくに[現在の福井県]へと歩く。
何日もかかってようやく辿たどり着き、保護を受けることはできた。

しかし。
『保護』とは名ばかりであった。

毎日のように受ける暴力までも伴っていたからだ。
身体的にも、精神的にも、性的にも。

立場の弱い人、あるいは女性や子供などへの虐待。
人間がどれだけ科学や技術を進歩させても、終わりがない。

むしろ……
人間の中身は、一歩も進歩していないのかもしれない。

 ◇

およそ15年前の1560年。
阿国おくに越前国えちぜんのくにに来てしばらく経った頃のこと。

凛の父・明智光秀もそこにいた。
明智家は美濃国みののくに明智郷あけちきょう[現在の岐阜県恵那市]の領主であったが、国の支配者を巡る争いに巻き込まれて領地を奪われ、家族を伴って亡命していたのである。

亡命先での扱いは、決して良いものではなかった。
このような陰口を言われるからだ。

「敗者に味方したらしいのう」
「勝者を見極められなかったということか?」
「要するに、愚か者なのよ」

敗北した人が、多くの人々から持たれる印象。
『愚か者』と決め付けられる屈辱に光秀は苦しんだ。


多くの人々が、いくさを、こう単純なものだと思っている。
素人しろうと』のくせに、又聞き程度で戦を分かった気でいる。
これは大きな間違いぞ!
戦は、そんなに単純なものではない。
人が相手である以上、全てを想定することなどできないのだから」

「人はなぜ……
真摯しんしに学ばず、又聞き程度で何もかも分かった気になるのだろうか。
大人が駄目ダメなら『子供』という次の世代に期待しよう」

こうして。
光秀は私塾しじゅくを開くことを決意する。
当時は子供が学べる場所が少ないのもあって、生徒はすぐに埋まった。
その生徒の中に阿国おくにがいた。


読み書きに加えて『歴史』も教え始めた。

人間の歴史のほとんどは戦争の歴史である。
なぜ戦争は起き、何が勝敗を分けたのか?
生徒たちに人間の歴史から大事なことを学び取らせようとしたのだ。

 ◇

ちょうどその頃。

織田信長が今川義元いまがわよしもとに対して歴史的勝利を上げた有名な戦い……
『桶狭間の戦い』が起こる。

光秀は詳細な情報を集めた。
生徒たちに戦いの経過を地図を使って説明し、最後にこう問いた。

「信長は、なぜ勝ったのか?」
と。

「義元が油断していた」
「信長が奇襲した」
生徒たちの答えを要約すると、こんな感じである。

ほとんどの歴史書においても……
桶狭間の戦いについて書かれている内容は、これとほぼ同じだ。

 ◇

さて。

生徒たちの中で、一人だけ何も答えない少女がいた。
光秀はそれを見逃さない。

阿国おくによ。
どうした?
そなたの考えを申してみよ」

少女は一言こう答えた。


たちまち他の生徒たちから笑いが巻き起こる。
「ははは!
何を当たり前のことを。
そんなの地図を見れば分かることじゃないか」

しかし、光秀だけは笑わない。
「阿国は……
!」

笑い声が一斉に消えた。

 ◇

「阿国よ。
今川軍は、なぜ分散していた?
織田軍は、なぜ一つになっていた?」

「今川軍は目的が『曖昧あいまい』でした。
窮地きゅうちおちいった味方を救い、敵の重要拠点を奪い、駆け付けて来る援軍を撃破するなど……
一方の織田軍は目的を『明確』にしていたと思われます」

「どんな目的を明確に?」
「今川軍の本隊のみを撃破すること。
その目的以外のことは、一切しませんでした。
窮地に陥った味方を平然と『見捨て』、敵の重要拠点も『無視』したのです」

「しかし、織田軍を発見した今川軍は分散した兵を一気に集結させるぞ?
これでは駆け付けてきた兵に包囲ほういされて殲滅せんめつされるではないか。
『愚かな』行為では?」

「織田軍が、今川軍の想定を超える程の圧倒的な『早さ』を持っていれば……
愚かな行為にはなりません」

「なるほど。
織田軍が圧倒的な早さを持っていたから、分散した兵が駆け付ける前に今川軍の本隊を撃破できたと?」

「はい。
ただし、大きな疑問が残ります」

「それは?」


「ほう!」
「突撃の命令を受けたとき……
織田軍の兵たちは、『見た』はずなのです」

「何を見たと?」
「周りの山や丘が今川軍の旗だらけであることを」

「それは、そうだ。
今川軍は周辺の山や丘をことごとく押さえていたからな」

「信長様は、数ある旗の中の一つに向かって全軍突撃を命じたことになります。
家臣や兵たちは激しく反対したことでしょう。
敵の真っ只中へ突撃するなど、どう考えても愚かで無謀な行為だからです。
尋常じんじょうではない恐怖を感じたに違いありません」

「それでも、なぜ全軍で突撃できた?」


他の生徒たちは、少女の話にただただ圧倒されている。

 ◇

阿国おくによ。
見事だ……
続きは、わしが補足しよう。
包囲殲滅戦法ほういせんめつせんぽう』。
これが今川軍の使った戦法となる。
兵を左右などに分散して配置し、側面や背後に回りこんで敵を取り囲む」

分かりやすいように、光秀は一枚の紙に簡単な絵を描く。
左右に置かれた部隊を『つばさ』に似せた。

入り込んできた敵を、翼を広げておおってしまう。
そして。
翼を閉じ、全てを『すりつぶす』のだ。

生徒の誰もが、一人も生きて帰れないだろうと感じた。
あまりのことに息をのむ。
包囲殲滅戦法、恐るべき威力である。

「ただし。
この戦法には一つだけ『弱点』がある」

「弱点!?」
「翼を広げたときに兵力が分散してしまうことだ。
その瞬間に一点を集中攻撃されると……」

次に、光秀は小さい石を取った。
紙の真ん中にそれを置くと、力を込めて押す。
石は紙を突き破った。

「『各個撃破戦法かっこげきはせんぽう』。
これが織田軍の使った戦法となる。
翼に包み込まれる前に、一点を集中攻撃して突破する。
ただし!
この戦法は致命的な弱点を持つ。
石が紙を突き破る前に、翼の中に閉じ込められたらどうなる?
すり潰されるのは石の方ではないか。
突破できれば良いが、できなければ確実な死ぞ!」

「……」
「そなたたちが戦場いくさばに出るようになったとして……
この翼の中へ突撃するよう命令されたらどうする?
命令に従って一か八かの突撃ができるのか?
どうだ?
戦場いくさばは、地獄なのだ!」

子供たちは恐怖に震えた。

 ◇

光秀は、桶狭間の戦いを『じゃんけん』に例えていた。
包囲殲滅戦法ほういせんめつせんぽうはパーで、各個撃破戦法かっこげきはせんぽうはグーである。

じゃんけんでは必ずパーが勝つが……
なぜだろうか?

それはパーを意味する紙が、グーを意味する石を包み込むから勝つ。
当たり前のことだ。


包み込む前に、どこかを突き破られる可能性もゼロではない。
このわずかな可能性に信長は挑んだことになる。

ただし。
包囲される前に突破しなければならない。
相手の想定をはるかに超える凄まじい早さで。
少しでも遅れれば翼の中に閉じ込められ、すり潰されて殲滅され、確実に死ぬ運命しかない。

誰もが死ぬのは怖い。
信長の家臣たちは、激しく反対したと言われている。

「信長様!
敵に包囲されている、この状況で……
全軍突撃ですと?
あまりにも愚かで無謀な行為ですぞ。
周りをよくご覧ください。
今川軍の旗だらけではありませんか!
我らに死ねとおっしゃるのですか?」

「そちたちは何も気付かんのか。
だからこそ……
我らにとって千載一遇せんさいいちぐうの好機なのじゃ!」

「これのどこが好機なのです?」
「敵が、兵力を分散させているということではないか。
各個撃破かっこげきはの好機であろう」

そして。
信長は、軍勢の前で声を張り上げる。

「我が織田軍の兵たちよ!
どの軍勢よりも早くするために……
そちたちをひたすら歩かせ、ひたすら走らせてきた。
厳しい訓練を乗り越えたそちたちは、圧倒的な早さを身に着けたのじゃ!
周りが敵の旗だらけであっても恐れることはない。
敵が我らに追い付くことなど、絶対にないのだからな!
そして。
敵の本隊は、あそこにいる!
全軍突撃!」

兵士たちは信長の言葉を信じた。
走って、走って、ひたすら走って、今川軍の本隊にたどり着いた。
そして突き破った。

グーが、パーに勝った瞬間であった。


【次節予告 第五節 戦争に巻き込まれる日】
明智光秀は子供たちにこう言います。
「人の歴史は、戦を完全に無くすことができないことを『証明』してもいるのだ。
いずれ、そなたたちにも、戦に巻き込まれる日が必ず来るだろう」
と。
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