星渦のエンコーダー

山森むむむ

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君に逢いたかった、ありがとうを言いたかった

眩しい君、だけど、太陽じゃない。君は

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眩しい君、だけど、太陽じゃない。君は
 深く、時を超えて刻まれた痕。その線は遠い過去の出来事から生まれ、静かにその存在を主張する。

 見る者には解釈を委ねられるこの背中は、外科的手術によって取り除くことが難しいものである。言葉にならない物語の一部。内なる世界に深く根差した、誰にも語られることのない、秘密。魂の深淵に沈んだ重たい過去の証として、静かに心を苛んできた。

「僕は、今までずっと隠していた」
 声が震える。瞳は涙で潤んでおり、長年抱え込んできた秘密の重さが込められていた。そして、深く息を吸い込む。その目には無数の思考が交錯していた。クリスは身構える。
「死神とか、ヒーローとか言われるたび……自分との隔たりに、がっかりした」
 静かで、しかしその声の奥には複雑な感情が渦巻いている。

「どれだけ強くなっても、勉強をしても、君を守ることができない。プロになっても、僕はあの頃と何も変わらないままだ……」
 表情には途方に暮れるような影が見え隠れする。その姿は、かつての無力感と絶望を思い起こさせた。独りぼっちのように、ぽつんと片隅で虚空を見上げていた、事件後間もない柳。

 そして彼はもう一度、重い言葉を紡ぎ出す。
「一体これから何をすれば、クリスのことを守れるのか、僕はずっと怖い……」
 これまでずっと自分の弱さと戦い、クリスを守るという使命感に柳は追われてきた。しかし、その重圧は彼を内側から少しずつ蝕んでいるらしい。
 柳がこれまでに築き上げてきた精神的な仮面は彼自身にさえも重くのしかかり、本当の自分を隠すことでしか、周りを守る方法を見出せないでいる。心は深い愛情と熱い決意に満ちているが疲れ果て、何をしても完全には守りきれないという無力感に苛まれている。
 葛藤の中で自分自身と向き合い、真の強さとは何か、守るということの真の意味、その双方を模索し続けている。
 
 電脳空間内の広大な領域に二人きり。柳は立ち尽くす。クリスの前に、彼の全てをさらけ出した後の沈黙は、何千言もの言葉より重く深かった。

 クリスは柳の手を取ったまま。不意に離したかと思えば、その体を優しく、しかし確かな力で抱きしめる。
「……え……?」
 柳の身体に微細な震えが走る。これまで抱え込んできた感情の重さが、彼女の温もりを通じて、少しずつ溶け始めた。
「柳は、偉いよ」
 クリスは、柳の頭を静かに撫でる。この行為は言葉にならない慰めと理解を柳に伝えていた。撫でる手の温かさに、柳は真の自己と向き合う勇気を得た。自分自身の脆弱性と直面する。その場に崩れ落ち、膝をつく。
「っ、きゃ!」
 クリスは柳の体重を支えきれず、彼に押し潰されるような形でフロアに倒れた。

 乱反射する海のオブジェクトは動きを受けて処理を止め、視覚的には水面に寝そべっているかのような、奇妙な形をつくった。柳は力が入らず、クリスに全てを委ねてしまう。
「ご、め……なんか、力抜けて……」
「……あはは、お、っも!」
 細い手が、柳の心の扉を静かに叩く。優しい触れ合い。柳にとって長い間感じることのなかった安らぎをもたらした。彼女は柳の重みを苦にせず、代わりにその温もりを感じながら、優しく撫で続ける。クリスは柳の抱えていた重荷の大きさと、長い間隠し続けてきた弱さを感じ取りながら、それを受け入れる決意を新たにしたようだった。
 柳は、クリスという光を見つめながら、この存在がどれほど大切なものであるかを改めて認識していた。優しい指は髪を通しながら、心に穏やかな波紋を広げ、深い裂け目を静かに癒し始めていた。

「よし、よし」
 クリスタルの声は優しく、柳を安心させるような響きを孕む。
「やっと会えたね……」
 柳は自分の弱さ、恐怖、そしてクリスへの深い愛情を、この一瞬に認める。彼女の優しさは、奥深くに眠っていた希望の火を再び灯す。二人の間に流れる沈黙は、過去の苦痛を超えた深い絆を物語るようだった。待っていたのだ。クリスタルは、弱い柳とまた出会える日を。
 行動は変わらない。優しい撫でる手の動きは、心の傷に対する最も純粋な形の癒し。長い間閉ざしていた、心の扉を開く鍵。クリスの言葉は、二人が共に歩んできた道のりの全てを包み込むように、柳の耳に届いた。

 クリスは、柳が恋人になろうが、友人のままであろうが、日向貴将を恨んだだろう。
 海の上に二人きり、世界から切り取られたかのような感覚を得る。クリスタルは、柳の背に片手を滑らせた。柔らかく、優しく、慈しむように。背骨が僅かに引っかかり、柳は瞬いた。
「許せなかった。私の大切な男の子を、高いところから落として知らんぷりしようとしたあいつを」
 海は眼下にあった。光を受けてきらめくコースティクスが、ふたりの目の色に眩しい。
「君たちが、怒ってくれて……本当に僕は救われてた」
 クリスタルは、幾度となく抱いてきた。日向への怒り、スポーツクラブの姿勢への不信感、クラスメイトたちの無遠慮への苛立ち。それらすべては自分勝手な感情ではなかったのだ。柳は、クリスの中に自分の感情すらも見えていた気がしている、そう言うと上を見て、そこに優しい光の玉をみとめた。二人で目を閉じ、海の上で揺蕩う。
 
「クリス、本当にありがとう。君はいつも僕に、鮮明な感情を向けようとしてくれるね」
「……本当に全部が、ホンモノだったかはわからないよ」
 もしかして、良い子ぶってしまった瞬間もあったかも。そんな心配が今更に浮かんでは、クリスを悩ませる。それすらも、柳は受け入れた。
「いいんだ、僕なんかもっとだよ。比べ物にならない。だから……気にしないでほしいな」

 穏やかな波だ。ごく僅かに水が揺れる音。ゆらゆらと揺れ、二人は夢の中にいるような心地だった。現実に帰れば、夢ではなくなる。電脳世界ここで起きたことを真実であると、確かめることができる。
「君はずっと僕のここを、見ようとしてくれていた」
 彼は指し示さない。それでも間違いなく、ここというのは心臓を指していた。柳の心の穴には、既に新しいものがはめ込まれている。
「そうか、わかったよ。クリス、君は……空なんだ」
 クリスは柳の胸元を見、次に顔を見た。
「僕は、太陽が欲しかった。だけどそれはきっと手が届かないところにあって、人間が近づいてはいけないものだったのかも、知れない……」
「……え、なに……それ」
「わからないよ、だって……人間だから」

 得られないものを欲しがっていたわけではない。欲しい物が何なのか、それを見間違えてしまっただけだったのかもしれなかった。東雲柳は、太陽が欲しかった。それは、しかして太陽ではなく。
「クリスはずっと、そばにいてくれるんだ、僕と同じ、人間として」
 涙が、落ちる。
「青空だよ」
 遠くにいるようでも、ずっと交わっている。太陽ではなく青空だった。そう、柳は言った。
「そんな……でも、私……柳みたいに大きくない……!」
「君は強いよ。僕のそばにいてくれた」
 クリスはそっと柳に触れた。柳の胸のそこにあるのは、白く霞んだ、しかし美しい意思。石は電脳世界上の心の情報を処理し、象徴するグラフィックオブジェクトである。色調の酷似したクリスのそれも、柳の宝石と共に喜んでいた。心臓の鼓動はここにない。電脳世界の心臓は、固く動くことのない宝の石だ。クリスは今、心でそれを知った。
「だって、僕が海なら君は空でいてほしいんだ。ずっと隣にいてくれたクリスに」
 クリスの涙は次々と落ち、ここで組まれている独自の処理が施された。足元まで粒が落下し、海に溶けていく。クリスタルがうまく息をできず、言葉を返せないでいるあいだ、柳はずっと気持ちを伝えようとしていた。
「……ッ、ぅく……」
 
「全然違う人間でも、遠いところにいても、同じ色をしている」
 クリスは、ただ頷いて聞いた。囁きは沁み入り、今までのすべての痛みが、まるで過去のささくれのように些細なことのように思えた。幸せを願った相手が、今ここで幸せを手にしている。柳は救われるのだ。受け入れられなかった自己を、今ここで受け入れられた。
「クリスは、大きいよ。僕を放っておかない」
 クリスの代替していたすべての感情を是として、彼自身の、回復の人生が始まった。
「光の屈折とか種類とか、反射とか……そんな理屈をいくらでも僕らは知ることができるけど、本当に欲しかったのはそうじゃないんだ」

 クリスタルは笑った。
「……ん……!……うん、……うん……ッ!」
 細められた双眸は鮮やかに波面を跳ね返し、薄い金色が流れて、柳の頬を擽った。柳は、彼は。後ろに結い上げられたアクセサリーに、髪を通し直してやる。瞬間、水面と水晶のエフェクトからチカチカとした乱反射を受けた。まるで冠を被せられているようで、クリスの頬は紅潮していく。まるで、あの日に翼のヘアアクセサリーを贈られたときのよう。
「眩しいなあ、君は……」
 柳の胸に空いた穴には、新しい宝石がはめ込まれていた。
 
 宝石の名は、月長石ムーンストーン
 クリスタルの愛が今、東雲柳に齎された。背中に入った傷さえも、その心を怯えさせることはなくなるだろう。
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