星渦のエンコーダー

山森むむむ

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君に逢いたかった、ありがとうを言いたかった

頼みの綱か、蜘蛛の糸か

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「……あれ?」
 姿は、見えなくなっている。しかし、不思議と不安はない。

 電脳世界、その色彩に包まれた空間の中で、クリスは中学校時代のバスケ部のユニフォームを身に纏っていた。足元は絵の具が撒かれたように、混ざりあった黒が硝子の砂利を濡らしていた。上からはカラフルな絵の具と光が溢れている。
「うわ、すごい……」
 混ざり合いながら打ち消し合い、まるで彼が描いた心象風景であるかのようだった。迷い、惑い、痛みに苦しみ続けても優しさを捨てられない、愛する人の内面そのものと見える。
 周囲の色彩は徐々に、見知った風景へと輪郭を変えていく。
「柳……?」
 クリスの呼びかけに応じるように、柳が再び姿を表した。その姿は、随分と小さい。まだ彼が成長期を迎える前の、中学1年生頃の姿だった。
「……ふふ、かわいい……」
 中学校の制服がまだ大きく、かわいらしかった大きな目は、今は眠たげに開いている。まだ、柳自身の意思が戻り切っていないのかも知れない。眼の前に小さな彼が現れたことで、目線が随分と下にあることに気づいた。どうやら自分自身も中学1年生の頃に戻っており、成長期が早かったクリスの背丈は、今は柳よりも高かった。
「クリス……」
 バスケットボール部の練習に使われていた、未来ノ島中学校校舎に付随する体育館。女子バスケットボール部は共用体育館に部室が連結され、柳は部活が終わった頃に迎えに来てくれていた。コートの向こう側、昇降口に柳の姿がある。不鮮明な油彩画のような重いタッチが二人の背後に広がっていき、クリス自身にとってはこの記憶の重さが反映されたかのようだった。
 クリスタルの頬には、競技に没頭していた日々の名残りがほのかな笑みとして浮かび上がる。中学ではボールが一回り小さい。その手に馴染んだ感触を懐かしみながら、過去を振り返る。
「……ねえ柳。あの頃のバスケ、私はすごく楽しかった。でも、それが私の……逃げ場でもあったんだよ」
 声は穏やかになっていく。徐々に、しかし深い自省と複雑な感情が織り交ぜられ、呼応した色彩が周囲の色を変えていった。一時の情熱を注いだコートを思い出しながら、それがどれほど自分を支えたか、支えなかったかを語ろうと考えた。

 包み隠さずに伝えるために、避けられない事実を共有したい。
「来て……」
 過去を開示する。それがどれだけ大変なことであるかを、きっと柳は知っているのだろう。彼自身は今まで、何度も話そうとしてくれた。その度に、傷の痛みに苦しめられたことを知っている。
 そうしているうちに傷の治りが繰り返され、かさぶたのように固まって動けなくなってしまったのが、今の彼の被る、多重の仮面の構造だった。
「柳」
 いつのまにか、すぐ近くに彼がいた。戸惑うことなく語りかける。
「……クリス……」
「…………よかった……まだ寝起きみたいだけど、話すね」
 表情の抜け落ちた彼。

 この頃の彼はもう、精巧な表情を『作る』ことができるようになっていたはずだ。今より随分と練度は低かったと思うが、ここまで表情を取り去られたような顔でいたことは、記憶にある限りなかった。
 小さな彼が、少しずつ仮面を形成していく過程。その中での大きなターニングポイントとなった時期だ。きっと、その幼少期の柳の象徴として、彼は現れたのだろう。表情は当時よりも幾分幼く、怯えと悲しみを内包した潤みが瞳の中に揺蕩う。
「柳がネオトラバースの世界で、ジュニアクラスを飛び越えてどんどん先へ進んでいくのを見て……私、嬉しかった。けど、それが同時に私たちの距離を開かせた気がして……」
 クリスの瞳には昔の光景が映り、柳が幼年ルール『スターライトチェイス』から成年ルールの『ネオトラバース』クラスに格上げされ、広い戦場を駆ける姿が重なる。

「あんたの心の傷が深いのは知ってた。だから、何とかしてあげたいと思ってた。でも……私、うまくそばにいることができなかったんだよね…………」
 罪悪感と深い悔恨。柳の傷に寄り添い、支えてあげるべきだった。

 今ならもう少しうまく寄り添えたと思うのに、あの頃の自分は、この心の中に何があるのかすらも把握できていなかったのだ。ただ柳に近づきたいという、その純粋な恋心だけではない。彼を救いたいという切実な願望も混在している。
 その点において自分のほうが柳より、他者から受けた傷が小さく障害が少ないのに、という罪悪感すらも抱いた。
 柳は静かに佇み、クリスの話を聞いている。ここは彼自身がイニシアチブを取る空間である。それなのにクリスの話題に合った背景が形成されているのは、柳がクリスの話を聞こうとしてくれていることを意味する。

「でもね、今はちょっと違う。重いと思うかもしれないけど、私たちはこんな風にお互いの心を感じ合えてる。これが私たちの距離を縮める方法だったんだ」
 まだ、柳は発言しない。何かを考え込むように、ほんの少しだけ首を傾げていた。
「こんな方法があったなんてね……」
 ここはクリスタルではなく、柳の心の中を表しているのだと確信した。

 クリスの言葉を聞いた柳が顔を上げ、瞳と瞳が交わった瞬間のことだ。に呼応するように色が溢れ、透明な水が溢れて黒色を取り去ったのが見えた。一部の色のハーモニーが、空間を変化させている。きっとこの心の開示が、柳に届いて影響を与えている。
「ありがとう、柳……」
 素直な言葉だ。今の願いは、柳が無事に現実世界に帰り、共に生きるという望みを叶えることが第一にある。

「一緒にいてくれる……?」
 彼は離れない。眠たげでありながら、確固たる否定の意志は示さない。
「帰れない……と思う……」
 小さな肩を掴む。
「帰れても、帰れなくても、いいんだよ」
「……?」
「私は、柳と一緒にいられるならいいの。どこでも」
 クリスは、柳の表情をじっと見つめた。電脳世界での一人で迎える死という、ある意味での救済を否定したのだ。この一言を言うことが怖くて、長い間苦しんだ。強くなりたいと願っても、強くなれたかはいつまでもわからない。
 いくら柳のことを思っても、クリスは柳自身にはなることができない。柳の決断に影響を与えることの責任を感じていたが、自分の存在に答えてくれたことに感謝を感じていた。
 クリスはもはや逃げ場を求める少女ではなく、柳の苦しみを共有し、支え合うパートナーとして自らを位置づけていた。

「柳、私たち……」
 手を握った。柳が、体育館倉庫で酷く殴られたあの時。怖くて鉄の扉の前で立ちすくんだ、あの最低の瞬間。柳は顔が腫れ、足元の階段を踏み外しそうになった。彼が転んでしまうのが嫌だった。だからあの頃、クリスたちは思春期特有のからかいを嫌って手を繋がなかったが、クリスのほうから手を繋いで歩いたのだった。
「もう一度、一緒に前を向いて歩こうよ……」
 傷跡は消すことができない。それなら、私がその傷をずっと手当してあげる。今までのたくさんの努力と思いが、今の強い柳を形成している。治らない傷を否定はしない。全て受け入れ、一緒に歩いて未来を切り開くことこそが答えだ。
「……ね。柳」
 いつのまにか、クリスは競技用の装甲に身を包んでいた。それは、現在のクリスを象徴する硬質なアバター。
 柳を競技の世界に繋ぎ止め、いつか彼の大好きなネオトラバースの舞台に返してやりたかった。決意の象徴が進む意思を補強し、彼に向かって一歩を踏み出す勇気になっていく。両手でそっと頬を包み込み、その存在を確認する。以前から知るものより、幾分か緩やかになった輪郭。
「……あんたがいないと、みんなつまんないって、言ってた」
 涙声になってしまった。柳はそっとこちらを見つめ返す。その瞳は冷たさを失い、何かを訴えかけるように揺れていた。しかし、吸い込まれた息は答えにならず、その口から意味は出てこなかった。

「お願い……」
 クリスの声はさらに弱く、切実さが増していく。両手で柳の頬を撫で体温を感じながら、現実に引き戻そうと全てを吐き出す決心をしていた。
 背後は体育館の風景ではなくなっており、ネオトラバースライセンス取得用のノーマルフィールドへと切り替えられていた。白い空間に再び色彩が広がり、先程よりも幾分か淡い水彩のようなハーモニーに変質している。
「私はあんたを全部許す。だから……見ないふりはもうやめて……」
 クリスの言葉には、自身の心が柳に対して完全に開かれていることの証が含まれていた。柳の瞳は、深く眠っていた意識が微かに揺れ動く波紋を感じさせる。しかしなかなか彼自身の言葉がない。

 クリスは焦れ、涙が溢れた。感情の粒は地面に落ちずに空間に広がり、その硝子に透明性を増し加えていく。涙に応じて光が差し込んでくる。
「起きてよ……起きてよぉ……!」
 願いはますます熱を帯び、声には焦燥と希望が混じる。柳の目が徐々に焦点を取り戻し始めるが、ゆらゆらと揺れて定まらなかった。その色が寂しい。柳の一生懸命さが好きで、その瞳の奥に事件前の彼がいるような気がしていた。

「勉強教えてくれるって言った……! 部活も一緒に出てよぉ……一緒に帰りたい。朝も一緒に学校行きたい!」
 体が動かせない人形のように、ただ柳はこちらを見ていた。いつのまにか背丈が伸び、中学校三年生ほどの姿に変化している。その表情は未だ変わらず、本当にクリスの言葉を理解できているのかが確信できない。不安が折り重なっていく。
「……ばか……!」
 愛おしさと苛立ちが交じり合う。

「はやく……起きて…………」
 柳はその言葉を聞いて、弱く微笑を浮かべた。その表情には、長い間抑えていた感情が滲み出ていた。
「……クリス」
 クリスは顔を上げた。目には涙が滲み、柳の優しい声音に心を動かされる。感情の籠もった呼びかけ。久しぶりに聞いた気がした。
「……! ……やなぎぃ……!」
 声は震えていたが、その中には安堵と喜びが含まれていた。柳が自分をしっかりと見ていることを感じ、その事実に深い安心感を得た。すぐ近くに、生きた彼自身の体がある。それを感じたくて、クリスは夢中で柳に抱きついた。
 電脳世界上での感覚なのに、それはまるで現実世界で感じる熱のように心を熱くした。足元に広がる黒い絵の具が溶け、ゆるりと滝のように洗い落とされていった。
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