星渦のエンコーダー

山森むむむ

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巨星落つ闇の中

崖の上にいるのか、海の底にいるのか

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 知覚が曖昧になっていくのを感じ取っていた。海の底に、行ったことはまだない。きっと、これからもない。

 そこには過去がある。日向貴将がいる。何世代も前から構想され、ついに打ち立てられた人類の、未来への希望。その象徴となった島に生まれ、生きてきた。
 大切な人々に囲まれ、そして彼らは柳を大切にしてくれた。しかしある日突然その中の一人が、鉄の柵から追い出すように柳を地に打ち落とし、消えない傷を残した。
 地上で目を覚ますと音は聞こえて来ず虚無のうちに天を見上げていると、自分を突き落としたはずの相手が、まるで英雄のように自分を看護しようとするのがわかった。何が起きたか、全て理解するには長い時間をかける必要があった。そこで、はたと気づく。

「……しん……だ」
 そうだった。忘れていたが、日向貴将は死んだのだった。自分の目の前で。きっとそれも仕組まれたこと。日向は自分の役に立ちたかったなどと言っていたが、もうその言葉の意味を考える気力もない。
「…………ああ、苦しいな……」
 早く消えたいと願っていたのに、なかなか虚響音と呼ばれる触媒は柳のデータを吸い上げることができないようだった。技術的なハードルが高いことは知っていたが、放っておかれれば余計なことを考えてしまう。自分が死にたくないなどと思い始めたらどうするつもりなのだろう。もう考えても仕方のないことだが。

 世界に蔓延したネットワーク障害という病、いわば柳はそのワクチンとして機能することを目的として、彼らの取引に応じたと見せかけ、内部にエラーとして残るよう自らを使うつもりだった。その時、たしかに自分の生体データを全て奪われ体は衰弱死するだろうが、それで隠蔽者の企みを全て無に帰すことができる。
 長期に渡って虚響音は機能不全に陥るだろう。その間に各企業や国、自治体は対策を打つことができる。彼らによってプログラム自体が停止・消失するなら、それが最も望ましい。再び電脳世界は、美しく便利で明るいもうひとつの世界になる。

 ただ、今は心の中を探られるような感覚から逃れたい。腕にまとわりつく黒い影が、鼓動のように揺れながら吸い付いてくる。
「……きもち、わるい…………」
 暫くのあいだ、思考を手放してみた。こうすると心が休まる。何かを問われ、口から言葉が出ていった。ただ機械的に言葉を発する。何かが触れてくる。
「……あ……」
 目の前に柱。なぜだか、それはガラスのように多層的な光と彩りを纏い、目の前で見知った形をとり始めた。
「柳!」
「シノ!」
「……シノ」
 ああ、思い出してしまう。きっと揺らいでしまうから、どうか遠ざかってほしいと願ったのに。

「……大丈夫? ねえ……」
 鮮烈な感覚をもたらすのは、昔から最も近くにいてくれたまばゆい光。
「帰ってきて……」

 言葉が染み込んでくる。眼の前にいたのは、かつていつまでも隣にいてほしいと願った人。
 他者とのコミュニケーションに必要なものは、言葉による意思の伝達、そして感覚を与え合うことだ。それが実感という形を作ってしまう。戻りたくなってしまう、だからもう、やめてほしい。彼女の背後には長年の親友と、新しい仲間が立っていた。
 認めたくなかった。それなのに知覚してしまえば、彼らの存在は無常にも現実を突きつける。3人は今、柳を取り戻すためにここまで来てしまった。様々な手段でその行動を妨害するよう、プログラムや環境を整えたはずだ。きっと現実世界ではかなりの時間がかかるはずである。外部から協力者が? となれば、きっと学校、おそらく会社や公的機関までが絡んでいる。
 そこまでして連れ戻すような価値は、自分にはない。
「僕なんて…………どうなっても、構わないって、言った……」
 精一杯の心情の言語化がそれだった。深い眠りから引き上げられたかのような、ぼんやりとした発声しかできない。それよりも気がかりなのは、彼らをどうやって現実世界に帰らせるか。
 3人が帰らなければ、柳は自分の情報を隠蔽者のプログラムデータベースに結合させる処理を行えない。それは情報の健全性を保持するためだ。東雲柳というひとつの存在は隠蔽者自身のロジックとなって残り、隠蔽者の目的を遂行させる。柳は、隠蔽者のもたらす悪逆の妨害を最終目標に据え、その一部となって人の命を摘み取る行為を止めることに、全存在を使い尽くすと決めたのだ。それが彼らを守ることに繋がるのに。
「……俺たちはシノを連れ戻しに来たんだ」
 不鮮明な、ノイズまみれの音声が届く。聞こえているよ、流磨。だけど帰るわけにはいかない。君たちのために命を使えることを、誇りに思いさえする。しかし、口から言葉が出ていかない。
「シノ、おれはお前と分かり合えるかもしれないと思ったんだ」
 ユエン、君とはもっと深い話がしたいと思っていた。残念だけど、仕方がない。
「隠蔽者への対応を話し合った夜、お前は本当におれたちのことを思っていた」
 その日のことは、すまなかったと思う。その殆どの内容は、自分がこうすることを決めていなければと仮定すれば、本当のことだ。しかし知ってしまっていた。結果、君には嘘をつくことになってしまったんだ。
「駄目だ、消えたら駄目だ……」
 知覚できる音声がクリアになっていく。不純物が取り除かれ、力強い声が悲しみに揺らぐように、不規則になっていくのがわかった。流磨、君のその声が何度、僕の励みになったことか。
「お前はやらなきゃならないことが山ほどあるだろ!」
 何が……? 僕は君たちの幸せを願っていた。その手伝いをしたかった。様々な努力をしてきた。それでも君たちの邪魔をするだけの存在だった。
 だからもう何もすることなんてない。ないんだよ、ユエン。
「お前はネオトラバースで上を目指すんだろ!」
 あったね、流磨、そんなことを語り合った。だけど、もうそれは無しだよ。そんなものは僕の、ただの欲望に過ぎない。価値のない人間の価値のない目標。そんなものは、忘れ去られることが相応しい。
「……は、………が……」
 突然、音声が途切れる。
「お前はクリスタルを愛してるんだろうが!」
 再度届いてきた言葉に戸惑う。
「……なぎ、」
 眩い光を孕む暖かな体が、接触してきた。
「帰ろうよ……」
 目の前が開けたように、鮮明に広がった。光と闇の狭間、水のように流れる様々なデータと白い枝。硝子と水が混じり合ったような奇妙な空間。その真ん中に自分は、まるで硝子に溶け合ったかのように手足を覆われ、囚われていた。
「柳……起き、た…………?」
 頬を撫でられた。指は細く、この腕が自由に動くなら、今すぐに握ってやりたかった。水と硝子が混じって砕けるような音が続き、耳障りだ。大切な人の言葉を取りこぼしてしまう。
「痛くない? ……腕のやつ、なんか動いてない?」
 彼女の背後に立つ流磨とユエンも、こちらを心配そうに見ていた。
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