星渦のエンコーダー

山森むむむ

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清濁併せ呑む

最後のお別れを言おう

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 電脳世界の空間は、静寂に包まれていた。

 待ち望んだ世界だ。自分一人だけ。死への恐怖は、ない。心残りはあるが、どれも既に計画の通りだった。できる限りのことはしてある。

 死後の世界を、信じてはいない。ただ土に帰る。
 現実世界に残された肉体は、自分の生体データを読み取らなくなった生体識別チップが死亡したことを告げれば、肉体的な死亡をもって正式に処理がなされる。
 電脳空間での死亡認定はごく少なくはあるが、過去に事例はある。
 残された者たちに極力手を煩わせないよう、生体データの死亡処理が始まったら即座に身体を固定したシートが排出されるよう、デバイスに処理をしてから繭に入った。

 人間は意思を永遠に喪失することが死ぬことであると、柳は思っていた。
 肉体の限界ではなく、まず自分自身の意思が身体から喪失すること。次に周囲の人間が忘れるか、同じように死ぬかで、人間は本当の意味で意思を失い、死ぬのだ。

 隠蔽者が日向貴将を通して柳に与えた情報は、一見すると組織だった存在である隠蔽者の、ただの内部情報であるかのように見受けられた。
 しかし、それを噛み砕くうち、この組織が巨大であり、しかも自らの存在を中心に周囲に害をもたらしていることに気づいた。勿論、手間暇をかけて情報を確かめて回った。重大な決定は、その決定を導くまでのプロセスで、いかに正確な情報を組み入れられるかが肝要だ。

 縋るような思いだった。
 大嫌いな自分に、生きている意味を与えてくれる存在。そんな彼らに害を為すのが他ならぬ自分自身だという確信が、正確であるはずの物理書物を捲るたび、確認を繰り返すたびに色濃くなってゆく。

 自己受容ができず、おぞましい自分への嫌悪に苦しみ生きてきた。

 整っていると言われる顔も、鏡で見ると汚らしいものとしか感じられない。瞳が綺麗であるとクリスタルは言うが、柳自身は薄気味悪いと考えていた。
 髪型を工夫して訝しがられない程度に隠し、コンプレックスなどありはしないという表情で自己演出を続けてきた。顔、瞳、髪、筋肉のついていかない身体、細い体格、頼りない腰つき、日に当たりすぎると赤くなる皮膚、そして死神の翼と、トラウマのトリガーである背中。
 気づかれないよう全てを利用して、他人の目に映る自分の姿を完全にコントロールできた。

 しかし、クリスタルの言葉は確かに救いだったのだ。彼女と、両親、親友が、心の中の柱だ。
 せめて、彼らの役に立ちたい。少しでもその幸せを助けたい。そのために人生を費やしてきた。
 ネオトラバースと学生生活を両立しながら、優しく爽やかで強かな少年を形作ることで、周囲に心配されることのない人格プログラムを自分に施した。
 大抵の人間にそれは通じた。もう世間は柳の本当の姿を知らない。
 傷を背負った後に出会ったから、それは流磨でさえもそうだ。彼は仮面の形成途中で起きたイレギュラーによる、できるはずのない心からの友だった。

 残された確かなものは、これと競技への情熱しかない。
 自分自身がわからない。真の理解者もいない。作ろうとしてすらいない。濁らせたくないから。ただ、笑っていて欲しい。
 大切な存在には、こんな酷い苦しみを知らないでいて欲しかった。その片鱗でも覗き込んでしまえば、瞬く間に黒くまとわりつく記憶に苛まれるだろう。

 定刻まで、後少しだった。しかし思ったより処理には時間がかかるようだ。喪失するはずの意識も未だに保たれている。
 静かだった空間に亀裂が入るように、柳は光を見た。
「……?」

 こんな光景は予定にない。

「……ねえ!本当にこ……」
「あ!!」
 慌ただしく現れたのは、今まさに考えていた二人だった。

 ネオトラバースアバターに身を包んだクリスの身体が光からこぼれ落ち、柳の眼の前に降り立った。
 その彼女が着地するまでを見届けた後、流磨もガシャンと音を立てて飛び降りてくる。
 その姿は、数年前に彼と遊びながら作ったセキュリティ特化型のアバターだった。心臓部には宝石が見えず、彼のアバターは背中側に宝石が露出した風変わりな仕様だ。間違いなく、自分が改変に携わった彼の電脳世界での身体だ。
 彼がここにいるということは、ユエンに彼がライセンスを持っていることを知られたらしい。余計なことを。

「柳、帰るよ」
 クリスは、いつも学校から帰るときのように言った。この場にふさわしくないクリアな声。
 今しがた、暗く沈んだ海の底のようにゆらゆらと揺蕩うままにしていた自身の構成要素が、途端に体温を取り戻していく。
 太陽の光を浴びて、手先から解けていくような感覚。

 柳は彼女たちを見て困惑し、何も言わずにただ立っていた。ノイズが空間を揺らし、隠蔽者が処理を終える前兆を告げる。
 柳は感情を押し殺して二人を見返し、できる限りの冷たい言葉で追い返そうとする。

「……邪魔」
 クリスがわずかに眉間に皺を寄せた。まだ、足りないのか。ここにいてはいけない。
「何のつもり。邪魔だって言ってる。早くこの場から消えろ」
 二人は動かない。どうする。使い慣れない強い言葉を必死に寄せ集めるが、言語化できなかった。

 そのうちに流磨が一歩進み出て、沈黙を破った。
「精一杯悪ぶっても、全然怖くねーんだよ。お前は」
「…………」
 彼なりの冗談かもしれなかった。真意を掴むまでは発言を控えた方が良いと判断し、じっと様子を伺う。

「俺らのことが心配なんだろ?泣けるよな。突き放すために手を尽くしたってのに、ここまで追いかけてこられちゃったモンだから。……俺らを追い払うのに今は必死になるしかないってわけだ。ここは安全じゃない。つまりユエンの分析はドンピシャで座標も合ってる」

 柳は、彼らが自分の計画に少なからず気づいていることをその発言から知る。
 証拠は残さなかったはずだ。消し去った履歴と物理アーカイブの在処も、誰にも知られていない。いや、その前提を覆すことのできる存在が、一人だけいたことに気づいた。
「……その結論まで導いたのも、ユエンか」
「……今はユエンが中心になって、皆を動かしてる。あんたを、必ず連れ帰るために」

 クリスの声を受けて、柳は瞼を数度動かした。それが短い制限時間の間に、彼が思考をまとめるプロセスだった。
「最後に相談したのは、失敗だった」
「ユエンに今後の相談をするふりをして、今後ユエンがとれる手段を探ったんだね」
 無言は肯定だった。知られてしまった以上は、強硬手段に出ることも考えなくては。

 きっと関係を断ち切るために取ったクリスへの言動から、ユエンの思考能力を通じて完全に自分の行動をなぞることができる材料を与えてしまったのだ。
 完全に、自分の落ち度だ。追わせてしまうなら、自分に関わる危険に全員を巻き込む。

「……無理にでもここから引きずって帰るよ、流磨。現実世界で洗いざらい吐かせて、二度とこんなバカなことしないように約束させるからね」
「ふん……年貢の納め時だぜ、シノ」
「それ悪役のセリフ」

 柳は顔を背け、今この空間から二人を無事に返す方法を模索していた。
 彼らをこの座標近辺から遠ざける手段を検討しつつ、同時に再び冷たく振る舞おうとしたその瞬間、足元のデータの裂け目が彼の動きを妨げた。

「…………!」
 裂け目が直線的に広がり、クリスの近辺の空間が不自然に歪む。
 それは次の瞬間、パックリと口をあけて急激に彼女を飲み込もうとした。それが視界に入っていなかったらしいクリスは、その歪みに足を踏み外しそうになる。

「……あ…………?!」
「────クリス!!」
 柳は反射的に叫び、彼女を優しく、強く抱き抱えた。
 クリスは突然の出来事に硬直していた。
 飛翔し、地に足がつかないうちに、大切なものを失いそうになった必死さをもってきつくクリスタルを抱きしめてしまう。
 そして気付き、力を緩めた。

「…………ねえ」
 彼女を安全な地面に置いた後、柳は後悔の表情を浮かべる。
「……ッ、今のは…………違う……」
 その行動は、深い感情の表れに他ならない。
 残るのは強い後悔。ああ、また失敗してしまった。クリスを守ろうと固く誓ったのに。今のは流磨に任せておけばよかった。
「てめぇ……」
 流磨が柳を睨みつける。その目は悲しみと怒りを湛え、揺れ動いていた。

 柳は顔を逸らしてしまう。何を言おうと、今の行動を誤魔化せるとは思えなかった。悔しさに口元が歪んでゆく。
 その顔を見たクリスは涙声で言った。
「……なんなの…………? ……変な意地悪しないで……」
 
 柳は戸惑いながら、かろうじて答える。
「……意地悪って」
「おい、シノ。いいかげんにしろよ、お前……」
 クリスは激しく言い放った。
「…………やだやだやだやだ! あんただけなんて嫌だ! 許さないから! あんたが嫌だって言っても、絶対絶対、絶対に連れて帰る!」

 柳クリスはの元に迫り、身体を掴んで離すまいとする。
 外套をぎゅっと握りしめた細い手を握ってやりたいのを堪え、柳は無言で離れようと一歩下がるが、なおもクリスは追い縋る。

 嫌だ、駄目だ。僕を求めないで。

 その時、流磨が間に入った。
「シノ、やっぱりお前は何か企んでるんだな。返答によってはお前を……」
「どうする気だって? 流磨……もう遅いんだ」
 流磨は、声を荒らげる。
「本当のことを言え!」
「────僕なんかどうなっても構わない!!」
 固い決意を刃にし、突きつける。その言葉にクリスは泣き崩れた。
「……い、嫌……! そんなこと言わないで……」
 柳は更に重ねて、独り言のようにつぶやく。
「あの時、本当に死んでいれば……」

 死を見たのだ。命を失いはしなかった。それでも、死ぬほどの苦しみだった。
 言葉の先を予想したのか、クリスはかぶりを振った。
「いやだ……柳……やだ……」

「もっと楽だったのかも」
 無常にも唇から紡がれた呪音。こんな言葉はさらりと出てくる。

 クリスは細かく震えながら柳を見上げ、尚も同じ言葉を繰り返していた。大きな目からは次々に涙が滴るが、それは地に落ちることなく電子的な処理が施され、虚空に散って消えた。
「……いや……いやだぁ……! なんでそんなこと言うの……!」

 クリスの泣き顔を見たときの柳は、悲しげに微笑んで謝ることが常だった。流磨はいつも通りを期待しているかのように、こちらを見た。

 柳はそれを裏切り、シニカルな笑みを浮かべた。
「お前、そんな顔ができたのか」
 流磨は信じられないような顔で、目を見開いている。
「あは……なんて薄情なんだ、僕は……クリスがこんなに泣いているのに、もう心が揺らがない」

「……何する気だ」
「……わ……私たちに嫌われようといくら頑張ったって無駄だよ! 私にキスしようとしたことだって、もうみんな柳の真意なんかわかってる! あんたが何のためにそんなことをあえてやったのかも、なんでキスしなかったのかも、私の体を触らなかったのかも!」
「……そう」

「……ねえ、本当になんなの?! 何も言わないで、勝手に変なことばっかりして! 背中の傷のことを理由にして、流磨にも嫌われようとして!」
「誤解だよ。僕は本当は君たちのことなんか」
「クリスなんて赤ん坊の頃からお前のこと知ってんだ。お前が泣き虫柳くんだった頃から。俺だって小学生の頃からの付き合いだ! 全部嘘だなんてありえねえ!」
「バカ! 人たらし! 向いてないことしようとするから、全部裏目に出てんのよ!」
「……うるさいなあ」
「その程度かよ? お前の悪態は!」
「私に嫌われたいって言うのなら、腰触るのに躊躇とかしてる場合なの?! 私のほっぺたの一回くらい、引っ叩いてみなさいよ!」
「……クリス!!」

 流磨が叫んだ。
 それは、それだけはダメだ。暴力なんて振るえない。それは柳の根源的な憎悪の、その対象だった。
 しかし、これから自分は死にゆく人間だ。もう、何をしたって結果に苦しむ未来さえない。

「……っ!」
 柳は唇を薄く開け息を吸った。
 利き手が高く掲げられ、それを振り下ろす。思い切り。
「シノ!!」
 しかし、柳の右手を凝視していた流磨は、見開いた目を柳の顔に動かした。
 乾いた音が鳴り響くことはなく、ただ挙げた手をそのままに、柳は俯くしかない。
 クリスが一瞬怯えるように縮こまった後、すぐに目を開いて、そして。
 柳を、その透明な心を映すようなスカイブルーが、射抜き貫いていた。

「……ほら、ね」
 微笑み、クリスは柳の顔を覗き込んだ。
 その手が降りるべき地点を変えることはできず、力を込めて動かそうとアバターの部品たちが軋む音を立て続けている。
 表さないでいた心情を、その耳障りな音の数々が代弁しているかのようだった。

「……こっ……の……!」
 涙が両眼から溢れ出している。止まらない。止められない。今は全ての感情を押し殺して、彼らを遠ざけなければならないのに。なのに。
「シノ……」

 クリスは懐かしむように暖かく見守り、首を傾げて柳に語りかけた。
「柳は、何も変わってない。……優しくて、……泣き虫な……ずっと私の知ってる柳」
「……くっ……!」
 幾度も、幾度も振り下ろそうとして肘を動かすが、頬を叩くことができない。

 やがてクリスに決定打を与えることなどできないことを悟り、疲れ切った右腕を脱力させた。
 その動作を皮切りに膝から崩れ落ち、深く項垂れてしまった。身体中が震える。

「……で……、きな、い」
「……できない……。どうして……」
「一度、叩いてしまえば」
「僕は……最低の、男になれるのに」
「なにも……」

「ねえ……やっぱり、向いてないよ。あんたに悪役なんて」
「……え……?」
「そうでしょ?向いてないことなんて、やらなくていいよ」
「……あ……」
「嫌でしょ? 苦しそう。みんな、わかってるんだよ。柳がみんなのこと大好きだから、向いてないことしてどこかに行こうとしたってさ」
「……そ、か……」
「帰ろうよ……」
「……」

 柳は立ち上がる。何も言わずに。
 クリスの体を軽く押し、流磨に託して数歩離れた。

「……帰れないんだ」

 空間の裂け目が干渉し、仮想ファブリック装甲が大きく翻る。

 その下に現れた柳の体を二人は視界に入れたが、それは看過できない変化を遂げていた。
 柳の体をベースとしたアバターは、現実の肉体で心臓があるはずの箇所に、黒い穴が空いていた。その光景に、クリスと流磨は息を呑んでいる。
「……そ、れ」

 見間違えるはずのないほどに黒く沈んだ空間が、あり得ない箇所に広がる光景。
 柳は一瞬だけそれを隠そうと外套を指で摘みかけたが、そっと手を下ろした。自然な流れで薄い布が体を滑り降り、虚空の象徴を覆う。

「今、見えたからわかったと思うけど……僕は僕ではなくなる。君たちとの日々も、思い出も、心の拠り所だったすべてや競技も、きれいに消えてなくなるから」
「もう、遅いっていうのは」
「そうだよ。このことだ……ここを僕は既に、取引の材料として手渡している。前払いとしてね」

 柳の声は虚しく、この言葉が空気をさらに重くした。
 クリスと流磨は震え、現在柳が間違いなく異常な事態に陥っていることを強く実感していた。
「もう僕は死んだのと同じだ」
 柳は微かに目を伏せた。

「……来ないほうが良かったと思うよ」
 その言葉を最後に、体が不穏な変化を遂げ始める。周囲の空間が歪み、黒く淀んだ影がアバターの体を侵食していく。
 その影は隠蔽ヒドゥンハンズの象徴であるヴォイドエコー──柳を取り巻く環境を完全に変えてしまう力を持っていた。
 クリスはその光景に息を呑み、流磨もまた、何か言いたげながら言葉を失っていた。

 二人の目の前で、柳の存在が徐々に消えかけていく。クリスは弾かれたように駆け出した。
「待って!!」

 柳が遠くなるのを認識し、流磨も走り出す。
 アバターは現実のトレーニングを反映し、スムーズな動きだ。しかし、足をいくら動かしても柳に触れられないだろう。リアルタイムに仮想物理は書き換えられていく。綺麗な青い瞳から涙が溢れる。黒く強い瞳が苦痛に細められた。
「待てよシノ! シノ!! ダメだ! お前が必要なんだ、お前は生きなきゃいけないんだよ!」

「……嫌! 嫌だ! 止まって……柳! 柳! 帰るの! あんたは帰るんだ、私たちと一緒に、これから……!」

 その瞬間、柳は最後の力を振り絞り、クリスと流磨に向けて淡く笑みを浮かべた。
 それは、彼らに対する最後の別れのサインであり、自身が選んだ道へと進む決意の表れでもあった。体は、完全に暗闇に包まれる。

「……ごめんね、酷いことをして」

 電脳世界の隅々まで、黒い影が広がっていった。
 残されたクリスは喉が破れるほどに悲鳴をあげたが、ただ流磨のみがそれを聞いた。彼女の願いを叶えられる存在は、今ここにない。
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