星渦のエンコーダー

山森むむむ

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泡沫夢幻

さよならなんて言わせない!

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 流磨は日課のうち最低限のトレーニングを終え、自宅の玄関で靴を脱ごうとしているところだった。リビングから玲緒菜の声が聞こえてくる。

「お兄ちゃん、お風呂次入れるよ!」
 いつもの声かけに「おう」と気だるく返したとき、手首のデバイスが通話応対を求めて光る。
 よく通知を見ると、ランニング中に何度か同様の通知だあったことがわかった。柳のことについて考え事をしながら走っていたため、感覚が鈍化していたらしい。

 相手はクリスだ。空中で手を滑らせると、その顔が表示される。通話対応ができなかったことを詫び、何か進展があったのかを問おうとした。

「……クリス?」
 彼女の顔色はいつもと違って青ざめており、目には不安が明らかに宿っていた。
『流磨……』
 クリスの声は震えており、その透き通るような声が今は濁って聞こえる。明確に、何か大きな問題があることを示唆していた。

「どうした? 大丈夫か?」
 流磨の問いにクリスは何度か口を開いたが、言葉が出てこない。表情も苦悩で曇っている。明らかに何かを伝えるのに躊躇している様子だった。やっとのことでクリスが、新しく言葉を紡ぎ出した。
『……や、柳が……』
 言葉は途切れがちで、重大な事実を告げるのが辛いようだ。息が詰まり、嗚咽になりかける。
「……シノが?」
 流磨はすぐに察した。柳に何かあったのだという直感が、心を突き動かす。

「何があった?」
 声を落ち着かせようと努めたが、心の中は既に荒れ狂う波のように乱れている。
 クリスは深呼吸を一つしてから、やっとのことで本題に触れた。
『柳が……自分から繭に入って、どこかに行こうとしてる……!』
 その事実は彼女自身にも信じがたいものであることが感じ取れた。

 柳は、繭に入ることが恐怖の対象になってしまっていることが復帰への足かせになっていると言っていた。
 ネオトラバース競技者として重大かつ不可避な繭に入るという行為を忌避してしまう現状は、それだけ彼が繭で起きた競技中の体験と、その後の医師の拷問が壮絶であったかを示している。

 その一報に流磨は硬直した。周囲が一瞬にして静まり返ったように感じ、深く息を吸い込む。
「わかった、今向かう。クリス、場所は?」
 流磨の声は決断を下すための冷静さを取り戻しつつあった。

『高専のネオトラ部用大型電脳体験室だよ。お願い……今すぐ行きたいの、早く……!』
 彼女の最後の言葉は、切実な願いとして流磨に届いた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「お兄ちゃんてば、お風呂!」
 玲緒菜が明るい声で呼びかけたが、流磨の表情は緊張で引き締まっていた。
 彼は返事をする代わりに急ぎ足でソファーへと向かい、そこに放ってあった自分のジャケットを彼女の肩に投げかけた。
「……え、何?お兄ちゃん、どうしたの……?」
 玲緒菜の声には混乱が滲み出ていた。まだ状況が掴めず、ただ流磨の異常な行動に戸惑いを隠せない。

「れお、悪いが後で話す。とりあえず早く」
 流磨はそのまま玄関に戻り、スニーカーの踵を潰しながら無理に履いた。彼の動作には焦燥が見て取れ、どうにかして早く現場に駆けつけたい一心だ。

 玲緒菜は兄の慌ただしさに、異常な事態を直感した。ジャケットを羽織りつつ、慌ててサンダルを足に通す。まだ濡れた髪をタオルで押さえながら、流磨の後を追うように家を飛び出した。

 外の空気は冷たく、玲緒菜の心を更にざわつかせてゆく。二人は夜の街を駆け抜ける。流磨は一切言葉を交わさず、ただ前だけを見て走り続ける。
 その背中は、これから向かう先の重大さを物語っているかのようだった。
 玲緒菜は心配でたまらず、しかしこの状況で何か言うこともできずにただ兄を追いかけるしかなかった。彼女の足取りは重く、それでも兄の速度に必死でついていく姿勢を崩さなかった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 夜のネオトラバース部専用電脳体験室は薄暗く、壁に掛かる薄緑色の非常灯がかすかに揺れている。壁や床を走る硬質な照明が、椅子に沈み込むクリスのうなだれた姿を浮かび上がらせていた。
 家や教師たちへの説明を終えたところのようで、職員室の方面からは、未だ慌ただしくやり取りする教師の声が漏れ聞こえた。ユエンは壁に寄りかかり、疲労を隠せない様子で座るクリスを見つめていた。

 流磨と玲緒菜が扉を押し開けると、空気が一瞬、重くなった。

「悪い、遅くなって」
 流磨はそう切り出した。
 玲緒菜が転ばないようにギリギリの速度で走ってきたが、流磨本人の速度からすればかなり遅く、体感的にもそう詫びたくなっての一言だった。
 しかしそれは現状重大な要素ではない。わかっているのか、ユエンもクリスもそのことについては触れない。

「……来たか」
 ユエンは顔をしかめながら応じた。
「ユエン……」
 流磨に続いて入ってきた玲緒菜が、クリスに駆け寄って声をかけた。
「……クリスちゃん?」

 心配そうに視線を合わせるが、クリスはただ静かにうつむいている。
「……れおちゃん……」
 クリスの声は微かで、その表情からは明確な不安が伝わってきた。
「どうしたの……? 何があったの……? シノくんは……?」
 玲緒菜の声が震えている。彼女の目には怯えが宿っており、答えを求めるまなざしがクリスに注がれていた。
「そこの繭にシノがいる」

 ユエンは顎でその位置を示した。続いて現状を説明する。
「……まず、校内の電子掲示板やデジタルサイネージは全て停止する措置を取ったらしい。だからまあ、校内だけなら背中の件は一応対策されたと言っていい。そしておれらが連絡して、教師陣はこの事態に対応している。シノの両親にも連絡済。あとで情報学の教師三人と大学の講師が一緒に機材を担いでやってくる。クリスの母さんにも連絡したら、クリスの父さんに連絡して警備会社から人員を割くと言ってきた。おそらくシノの父さんの会社のほうもだ。そんなことを言っていた。とにかく急にかかってきたから通話が慌ただしくてはっきりと言えない。ごめん」

「……おいおい、思ったよりかなりデカい話になってきてんじゃねーか」
 兄妹は心臓の鼓動が大きくなっていくのを感じる。現実感のない規模で、想像すらまともにできない。
「それだけ相手もヤバいってことだ。それと……シノも、もう捨て身って感じらしい」

 柳が入っているという繭のそばには、工具が数点転がっていた。金属バッド程の長さの大型工具さえある。
 教師陣を含め、彼らがここに一度寄り集まった際、高額の医療機器である繭を壊すことになってでも柳を出そうとしたことが見て取れる。
 教師たちのスーツのジャケットが数点、そばにある椅子にひっかかったままにされていた。
 しかしその試みは失敗に終わったらしい。打ち捨てられた数種類の重そうな工具が物語っていた。クリスのそばにも、長い工具が転がっている。よく見るとユエンの寄りかかっていた壁にも同じようなものがあった。

「シノは、おそらくおれらのデバイスに脅迫文を送ってきた奴らに誘導されている。警察にも通報したが、対応は追いついていない。サイバー犯罪対策課よりもおれらのほうが詳しいくらいだ。おれたちの身に危険が及ばないように必死になって、自分自身を組織に引き渡すために動いている。全て先手を打っていたぶんだけ、いくら読みやすいといってもシノのほうが先を行ける」

「……それは……?いや、シノに危険が及ぶのを避けるために俺ら」
「シノのほうが一枚上手だった。おれらはシノの全てに干渉できるわけじゃないし、クリスや流磨を断ち切ったと思っているのなら、なおさらシノを縛り付けるものはなにもない」

 ユエンは考える。
 柳は脅迫文のことも、背中の傷を全世界に公表されたことも知っている。その上で、自分たちが柳を守るためと言っても取れる行動が限られていることを計算に入れていた。
 そこで放課後に設備の整った部室に侵入し、自らの身柄を引き渡すため繭に入っていったのだ。

「この状況は、彼を狙っている組織の仕業だ。彼らはシノを自分たちの支配下に置こうとしている。おれたちはシノが本当に自分の身柄を……多分、その取引は電脳世界上で完結するものだろう。本当に組織に引き渡す前に阻止しないといけないんだ。もしも組織のもとに行くことを許してしまったら、最低限精神の要素は彼の現実の肉体から抜け出て、生体識別チップを通して電脳世界上に巣食う組織の一部にされてしまうだろう。そうなってしまったらもう、彼の精神を取り戻すにはその組織を暴き出し、計画を阻止するしかない。それでも取り戻せるかの確証はないけど」

 ユエンの言葉は、未来に待ち受ける厳しい戦いへの覚悟を感じさせるものだった。解説が終わると、流磨は彼の胸ぐらを掴み、怒りと不信感を露わにした。
「……なんなんだ、お前……!」

 明らかに違う。自分たちとは。ユエンは何かを知っていて隠している。出会いの瞬間から膨らんでいた疑念が、今目の前で確信にかわった。
 それが柳の今瀕している危機に関連したものであれば、容赦はできない。
 ユエンは流磨の野生の勘とも言うべき嗅覚に内心で舌を巻いた。もし彼が刑事ならきっと優秀に違いない。彼が関心を向ければ、これは刑事の勘というものになるだろう。

 ユエンは深く息を吸い、静かに言葉を紡いだ。
「流磨、お前がシノと仲がいいのは知ってる。これはおれの責任でもある。気に入らなければ、殴ればいい」

 流磨は困惑し、ユエンから手を離した。
「……あ……?!何言って……」

 その時、ユエンはさらに重大な事実を明かした。
「……おれはお前たちの敵じゃない。おれは、アメリカから非公式にエージェントとして来た。目的は……別にある。でもそれは個人的なものだ。親友を、取り戻すためだった」

 黙って見守っていた玲緒菜が小さく口を開けた。
「……エージェント……?」

 彼女の声は震えており、理解が追いつかない様子だった。
「……ユエンさん、それってスパイってこと?」
 ユエンは薄く笑い、彼女に答えた。
「……その説明はおれの意図とは違うものになる。最初はシノを利用しようと近づいたのは事実だけど」

 この暴露によって、部屋には重い沈黙が流れた。それぞれの心中は複雑で、クリスと玲緒菜は不安に包まれていたが、ユエンの語る「親友を取り戻す」という目的が何を意味するのか、彼らにはまだ理解できていなかった。
 しかし、一つ確かなことは、彼らの前に広がる戦いがこれまでにないほど過酷なものになるだろうということだった。

「……『最初は』?」
 部室の空気はぴんと張り詰め、その緊張が空間全体を支配していた。ユエンは再び壁にもたれ、疲れ切った様子で流磨の問いに答える。

「ああ。二年生の春、進級と同時におれは転校してきた。そしてFBIの手引で、シノと同じクラスになった」
「俺にテラス席で話しかけてきた頃か?」

「そうだな。正式名称はFederal Bureau of Integration。日本語では連邦統合局かな。ここでのIntegrationは、技術と社会の融合を意味する。様々な先進技術が日常生活に統合された社会での調和と安全を保つために設立された機関だ。電脳技術、バイオエンジニアリング、人工知能の統合による複雑な事件に対処する」

「……何言ってるか全然わかんねえ」
「アメリカで親友を取り戻そうと電脳世界を探っていたときに、FBIからエージェントとして協力してほしいと打診があった」

「…おい」

「おれは親友を取り戻すために承諾し、そのまま未来ノ島に来た。任務だった。シノの」

「俺の質問に答えろ」
「………何だ」
「最初はってことは、お前は心変わりがあったって話か」

「……そうだね。シノにはすっかり毒気を抜かれた。おれの任務は主に、同い年のネオトラバース選手であることを利用した行動の監視と調査。なかなか心を開いてくれないから、流磨を随分怒らせた」

 このやり取りの中で、流磨の感情は一気に高まり、彼の目には怒りと不信感、そして柳への心配が入り混じる。ユエンの告白によって明らかになった事実は、流磨にとって驚きであり、裏切りにも感じられた。
 しかし、その話を聞くうちに、ユエンが何を求めていたのか、そして彼がどれほどの責任感を持って行動していたのかも理解し始めていた。

 一方、クリスはその場の重苦しい雰囲気に押しつぶされそうになりながらも、玲緒菜の支えで何とか持ちこたえている。
 彼女自身も柳を心から心配しており、ユエンの話が真実であることを願いつつも、そのすべてが真実であるとは受け入れがたい感情に葛藤していた。

「なんでシノが?」
「……東雲柳はある意味で特別なんだ。それが背中の写真とともに全世界に公表されてしまった。おれもあの背中のことは知らなかったが、こうなれば彼のことを狙う奴は組織以外にも現れるだろう」
「……お前はなんのために」
「おれはシノを守る側に回ることにしたんだ。そして君たちもシノも」

「……じゃあなんでだよ!!」
 数瞬の後、流磨の怒りが噴出し、その声が部室の静寂を引き裂いた。押し付けた身体が出入り口の扉を外し、廊下に二人共が転げる。
 ひどい破壊音が校舎に響いた。階下から誰かが騒ぐ声が聞こえた。
 玲緒菜が急いで駆け寄り、兄の腕を引く。
「お兄ちゃん、やめて!」
 彼女の声には恐怖が混じっていた。

「……ならなんでこんなことになった! FBIとか、エージェントとか! そんなのがそばにいながらなんで!」

 ユエンは深く息を吸い、流磨の怒りを受け止める。彼の表情は苦痛に満ちており、言葉を選びながら答える。

「おれがシノに対して、長期間情報を提供しなかったからかもしれない」
「……情報?!」
「おれは親友のための調査で、一つだけ確かな情報をFBIに提供することができた。その功績で、おれは今ある程度自由に動けている。世界中の警察や捜査機関が手をこまねいてる、全人類、電脳世界に根を下ろす国際的犯罪シンジケートの名称だ」

 流磨の瞳には疑念が光り、その声には緊迫が混じる。
「……ユエン、お前は」

 ユエンは一瞬、沈黙した後、重い声で告げる。

「──────『ヒドゥンハンズ』だ」

「ヒドゥンハンズ……?」
「……それが、九歳のあの事件から東雲柳を繰り返し付け狙う、世界的犯罪組織の名前だよ。……この名称を最近になって伝えたことが、シノの中でなにかの情報と繋がってしまったのかもしれない」

 一同を包む静寂は、深い憂慮と不安でさらに重くなる。玲緒菜は顔を青ざめさせ、クリスはゆっくりと頭を上げ、ユエンの顔を見つめた。

 クリスの瞳には涙が滲み、彼女の声が震えながらも強く問う。
「……それで、どうするの? 柳をどうやって取り戻すの? ……物理的な手段は無駄ってわかった」
「おれがモニタリングを担当する。クリス、それから……」
 ユエンは少し逡巡した後、しっかりと流磨の目を見据えた。

「流磨、クリスと一緒にシノの移動先に座標を合わせて、学園ネットワーク経由で……ああいや、島のネットワーク経由でシノを説得してくれ」

「俺?!……いや俺は……お前のほうがよくないか?」
「まあ、多分シノの行き先はろくな場所じゃない。危険もあるから、経験豊富なアバターが行った方がいいのは確かだ。平常時なら」
 その言葉は、より彼の心に近づける人間が求められていることを示している。
 ユエンは春に転校してきた新しい友人である。
 彼自身、柳の感情表現を掴みきれていないと思っており、その点においては流磨に信頼をおいていた。クリスの次に。

「……確かにライセンスはあるけど」
「アバターはシノの特別性なんだろ? 最低限自分の身は守れるんじゃないか。あとは運と、ここから打てる手はすべて打つ。玲緒菜ちゃん、今回はモニタリングのほうを手伝ってほしい」
「……はい、ユエンさん」

「お前は?ライセンスないのか」
「アメリカから来た目的はネオトラじゃなかったんだ。だから日本のライセンスはない。申請は出してるけど、シノは申請してから許可までに数日を要することを知って今日のうちを狙った。許可が下りないまま選手でもないおれが電脳世界でネオトラ用スポーツアバターを着用して動き回れば、それは違法行為だ」

「……データ呼び出す、少し待ってくれ」
 
「頼むよ。おれはシノのデバイスと繭の記録からシノの行き先を探ってみる。多分時間はかかるけど絶対に見つける」
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