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泡沫夢幻
暗闇に堕ちる星の記憶 日向貴将という男
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教室に響き渡る子供たちの歓声と笑い声の中、日向貴将は温かく微笑を浮かべながらスターライトチェイスの世界を指導していた。
小学生のこのクラスは、貴将の担当だ。
彼らは7歳から10歳までのクラスで、その笑顔の輝きに呼応するように、貴将は笑ってみせる。
『スターライトチェイス』は、『ネオトラバース』のルールを子供たちに向けた内容に調整した、電脳スポーツだ。
彼の目は、プレイヤーたちがバーチャル空間を駆け巡る姿を優しく追っている。
特に、若き才能を持つ小さな東雲柳には、特別な注意を払っていた。当初、ここにはただ純粋に子供たちの成長を楽しむコーチの姿があった。
「柳、素晴らしい!でも次はもう少し周りを見て、チームメイトとの連携を大切にしようね」
貴将の声は、励ましとアドバイスを絶妙に混ざり合わせたものだ。
指導にも慣れてきている。子供の心は繊細だ。最初は泣いてばかりいた柳も、今ではその才能とゲームの楽しさが伝わったことで、すっかり貴将と共に楽しんでくれている。嬉しかった。
柳は貴将に応えるように頷き、再びゲームに集中する。
東雲柳。ヴィジョンデジタルテックス代表取締役兼社長である東雲柊の一人息子。
出生とほぼ同時に米国から未来ノ島に引っ越してきた東雲家で、大切に育てられている虎の子。
柳は9歳にして、このジュニアクラスの試合でキャプテンを務める逸材だった。彼の才能の芽を育てることにやりがいを見出している。貴将は元ネオトラバースプロ選手である。最初はこの道で大丈夫なのかと悩んだが、彼の存在は貴将に自信を与えてもくれている。
後ろ暗い動機を知りもせずに、また柳は純粋な笑みを向けた。
他の子供たちも貴将の指導を受けながら、自分たちのプレイを次第に改善していった。
ここは未来ノ島のスポーツクラブ。
貴将は各プレイヤーの強みを見極め、それを最大限に活かす方法を提案する。
教室では個々の才能が尊重され、チームとしての協力が何よりも重視される。
ネオトラバースは単純明快なレースでありながら、裏側で展開される数々のトリックや駆け引きが勝敗を左右することもあるスポーツだ。
やりようによればいくらでも複雑なものになっていく。
適正な年齢と頭脳、体力に達するまで、幼年ルールのスターライトチェイスで親しみ、試験に合格することでネオトラバースジュニアクラスにランクアップすることができる。
教室の隅では、貴将が準備したカスタマイズセッションが行われており、子供たちは自分だけのアバターや装備を選ぶことに夢中になっている。
貴将はそれぞれの選択を丁寧に見守りながら、時折アドバイスを加える。
その瞬間、彼はただのコーチではなく、子供たちの想像力を育む大切な存在になっていた。
「みんな、今日の練習で学んだことを忘れずにな。最も大切なのは、楽しむこと。そして、友達を思いやる心だぞ~」
練習の終わりに貴将がそう言うと、子供たちは大きく頷き、満足そうに笑った。
貴将の教室は新しい世界を探求し、友情を深める場所なのだ。
この日も貴将は悪意を隠し、優しく頼れるコーチとしての役割を果たす。心に秘めた感情や過去の影は、子供たちの前では最後まで見せることはなかった。
彼の目的はあくまで復讐を果たすことにあるが、その時間だけは貴将もまた、スターライトチェイスの純粋な楽しさに身を委ねていたのかもしれない。
◇
貴将はいつものように子供たちの指導にあたっていたが、その目は特に柳の動きを追っていた。
柳は他の子供たちとは一線を画す才能を持っており、貴将はその才能を見極めどのように指導すればよいかを常に考えていた。
柳は新たなチャレンジに挑んでいた。
バーチャル空間での難関コースを、チームメイトと協力してクリアするというものだ。
柳が指揮をとり、チームは難題に立ち向かっていった。貴将は柳がどのように難題を解決するか、興味津々で見守っていた。
ところが柳のパフォーマンスは、貴将の予想をはるかに超えるものだった。
単に問題を解決するだけでなく、その過程で見せた洞察力と判断力、そしてチームメイトへの気遣いは、まるでプロの選手のよう。
柳の動き一つ一つがバーチャル空間の中で輝きを放ち、周囲の子供たちもそれに引き込まれていった。
貴将の心は喜ぶどころか、恐怖で凍りついた。
彼が見たのは幼いながらも圧倒的な才能を持つ柳の姿だけではなかった。
貴将には、その才能がいかに自分の復讐計画に利用できるか、その可能性が見えていたのだ。
柳が示した才能の片鱗は、貴将にとって、東雲柊への復讐を遂げるための鍵となり得ると感じられた。
しかし同時に、自分が柳のような純粋な才能を持つ子供を巻き込むことへの罪悪感に苛まれる。
その葛藤は心を深く揺さぶり、柳への指導を続けるたびに感情はより複雑なものへと変わっていった。
柳の才能に恐れを感じながらも、深く考え込む。
教室での日々を通じて、自らが練り上げた復讐計画に冷静さを保とうと心がけていた。
柳に対してはコーチとしての優しさと配慮をもって接し、その天賦の才を育てることに専念する姿勢を見せている。
心の奥底では、復讐の火がくすぶっていることを誰にも悟られないようにと、自分に言い聞かせていた。
しかし時間が経つにつれ、貴将の心情に微妙な変化が生じ始める。
柳が見せる才能の輝き、純粋にスポーツに打ち込む姿勢、そして何よりも彼が持つ無邪気な笑顔に、貴将は自然と心を引かれていく。
その存在がただの復讐の対象ではなく、貴将自身の日々に新たな意味を与えていることに、徐々に気づき始めていた。
復讐の計画を思い描くことにかつてはある種の満足感を感じていたはずが、今では柳の笑顔を見ることが何よりの喜びとなっていた。
しかし、もう終わりにしなければならない。
復讐は必ず果たされなければならない。以前からの計画を実行に移す決心をし、帰路についた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜の帳が下りた時、貴将は自宅の書斎に閉じこもっていた。
部屋にはただ彼の息遣いと、パソコンの静かな作動音だけが響いている。
画面に映し出されたのはこれまで指導してきた子どもたちのデータ――柳を含む未来の星たちの輝きだった。
柳への執着が、もう彼自身を恐怖させるようになっていた。
その感情がいつの間にか理性を超えたものへと変わっていくことに、貴将は深い不安を覚えていた。
その恐れを認めたくないが、自分が一線を越えかねない狂気の淵に立っていることを、どこかで理解している。
何かが決壊した。
未来の選手たちのデータを、電脳世界の裏社会に売却する決断を下す。
この行為は一瞬の衝動に駆られたものではなく、長い時間をかけて練られた計画の結果だ。貴将はこの選択が自身を更なる暗闇へと導くことを知りながらも、進む道を選んだ。
取引は暗号化された通信を介して行われた。
画面上で指を滑らせるたびに、子どもたちの未来が、光が、見えない手によって売り渡されていく。
貴将の心には、これまで築き上げてきたコーチとしての信念、柳への淡い思いやり、それら全てが消え失せていくような虚無感が広がっていった。
取引完了のサインが画面に表示された時、貴将はやはり深い絶望の中で自らの行いを呪う。
選んだ道は、柳をはじめとする無垢な子どもたちへの最大の裏切り行為だった。
その夜の貴将は自らが築いてきたすべてを背負い、その重さに押し潰されそうになりながらも、これが自身の選んだ未来であることを静かに受け入れざるを得なかった。
この行為がやがて運命を大きく変えることになるとは、その時の貴将にはまだ想像もつかないことだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
運命の悪戯を呪った。
裏社会の協力者と、秘密裏にデバイスを使って通話していた。
場所はスポーツクラブの裏庭、普段子供たちの足があまり及ばない静かな場所だ。
静寂を破る足音を聞いた。振り向くと、柳が立っていた。
心臓が一瞬で冷え切る。
今この瞬間をどれほど恐れ、避けようとしていたことか。目は驚愕で見開かれた柳と合った。柳の視線は、何千の言葉よりも多くを語る。
「ああ、柳くん……どうしたの?」
貴将は必死に言葉を紡ぐ。
しかし柳はその場を動かない。柳の目には失望や怒りではなく、深い悲しみが宿っていた。その瞳はただただ、日向貴将を見つめていた。
貴将はさりげなさを装ってそのままいつも通りの声がけをしたが、内心で行おうとしたものよりはうまくいかなかった。
深く呼吸を試み心を落ち着けようとするが、混乱が渦巻く。
柳はなおも何も言わず、ただ貴将を見つめている。その無言の圧力は貴将にとって耐えがたいものだった。
その時貴将は、柳が持つ純粋さと、自分が犯した過ちの大きさを理解する。
しかし、時すでに遅し。
貴将の心は、柳と彼の父、柊への憎しみに満たされていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
甲高い歓声が響く教室の中、貴将と柳の間に微妙な空気が流れた。
柳は貴将の様子に、何かを隠されているのではないかという疑念を抱いていた。貴将は「柳くん、今日も一緒に頑張ろうな!」と強引に明るさを装っている。
柳は心の中で首を傾げたが、何も言わずにうなずいた。
柳はその日も普通にレッスンを受けたが、心が既に遥か彼方に飛んでいっているかのようだった。視線は時折、虚空に迷い込む。
貴将はレッスンが終わると柳の前を横切り、人目の少ない廊下へと足を進めた。
柳は、貴将を追った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薄暮が迫る空を背にして、柳と貴将は非常階段を上がっていく。
その足音だけが鉄の階段に反響し、それ以外は何も聞こえない静寂が周囲を包む。貴将は施設の奥深くにある非常階段へと向かう。
貴将はまるで何も起こっていないかのように、柳と一定の距離を保ちつつ歩を進める。
「……だめだよ、柳くん」
貴将は突然、声を落として言う。
「……え?」
柳はきょとんとした顔で見返すが、その瞬間貴将の中の感情は一変する。何も知らないのだ。何を言ってもわからないだろう。
「柳くん、秘密にしたいことがあるならもっとバレないように振る舞わなくちゃ。今日のレッスン中の君は緊張しているのがまるわかりだった。そんなことじゃ、僕みたいな悪い大人に……君は騙される」
「……せ……先生?」
柳が言葉を詰まらせると、貴将の表情はさらに冷酷なものに変わるのを感じた。
隠していた憎しみが、もう止まらない。じわじわと表層に現れていく。
「まあ、気をつける必要はない。君は知ってしまったんだから。証拠隠滅と復讐、両方が果たせて、僕には……俺には、都合がいい。君はここでおしまいだ。だから、気をつけなくていいよ」
貴将は階段に背を向けた柳に向かってゆっくりと歩を進めた。
「……先生、何を……?」
あと一歩。あと一歩。ああ、これで本懐を遂げるのだ。どんなにか心に安息が広がることだろう。
「……恨むなら、親を恨め」
貴将の声が鋭く響く。
柳の小さな体は、貴将の手によって暗闇へと押し落とされた。思った通りに。
続いて重量物落下装置を、彼の上に落ちるよう予め計算された位置から、落下させる。轟音が響き、下層の部屋からざわめきが聞こえ始めた。
貴将は一瞬その場に立ち尽くした。
しかし、すぐに他のスタッフやクラブ会員たちと共に柳が落ちた場所へと駆け寄り、救助を始めた。
「大丈夫か?! 柳くん、聞こえるか?!」
柳は生きていたが、痛みとショックで声を出せないらしい。涙は柳の頬を静かに流れていた。
貴将の声が聞こえていないのか、その声に込められた真意は柳に伝わっているのかわからない。しかしそれでいい。何も知らない子供なら、最後まで何も知るな。
その行動は表面上は英雄的な救助者のようだが、間違いなく犯行を隠蔽しようとする計算ずくのものとして実行したものだ。
柳は貴将が自分に対してどのような罪を犯したのか全容を理解するには至らなかったが、身体よりも深く、心に傷が刻まれるのを感じているようだった。
貴将は柳の未来を奪うことで、自らの過ちを覆い隠そうとした。
日向貴将の裁判では日本の法律に基づき、厳格な手続きが行われた。
殺人未遂およびその他の罪状で起訴され、裁判所において無実を主張することなく、全ての罪を認めた。
貴将の裏切りは東雲柳の心に深く傷を残し、その傷から滲む痛みは長い時間が経っても癒えることはなかった。
裁判所は貴将の犯行が明らかになった映像や証言を根拠に、有罪と判断した。犯罪の重大性や社会への影響を考慮し、日向貴将には長期の懲役刑が宣告された。
二度と陽の光を浴びることのない、暗い海の底への旅路だ。
小学生のこのクラスは、貴将の担当だ。
彼らは7歳から10歳までのクラスで、その笑顔の輝きに呼応するように、貴将は笑ってみせる。
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彼の目は、プレイヤーたちがバーチャル空間を駆け巡る姿を優しく追っている。
特に、若き才能を持つ小さな東雲柳には、特別な注意を払っていた。当初、ここにはただ純粋に子供たちの成長を楽しむコーチの姿があった。
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貴将の声は、励ましとアドバイスを絶妙に混ざり合わせたものだ。
指導にも慣れてきている。子供の心は繊細だ。最初は泣いてばかりいた柳も、今ではその才能とゲームの楽しさが伝わったことで、すっかり貴将と共に楽しんでくれている。嬉しかった。
柳は貴将に応えるように頷き、再びゲームに集中する。
東雲柳。ヴィジョンデジタルテックス代表取締役兼社長である東雲柊の一人息子。
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後ろ暗い動機を知りもせずに、また柳は純粋な笑みを向けた。
他の子供たちも貴将の指導を受けながら、自分たちのプレイを次第に改善していった。
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貴将は各プレイヤーの強みを見極め、それを最大限に活かす方法を提案する。
教室では個々の才能が尊重され、チームとしての協力が何よりも重視される。
ネオトラバースは単純明快なレースでありながら、裏側で展開される数々のトリックや駆け引きが勝敗を左右することもあるスポーツだ。
やりようによればいくらでも複雑なものになっていく。
適正な年齢と頭脳、体力に達するまで、幼年ルールのスターライトチェイスで親しみ、試験に合格することでネオトラバースジュニアクラスにランクアップすることができる。
教室の隅では、貴将が準備したカスタマイズセッションが行われており、子供たちは自分だけのアバターや装備を選ぶことに夢中になっている。
貴将はそれぞれの選択を丁寧に見守りながら、時折アドバイスを加える。
その瞬間、彼はただのコーチではなく、子供たちの想像力を育む大切な存在になっていた。
「みんな、今日の練習で学んだことを忘れずにな。最も大切なのは、楽しむこと。そして、友達を思いやる心だぞ~」
練習の終わりに貴将がそう言うと、子供たちは大きく頷き、満足そうに笑った。
貴将の教室は新しい世界を探求し、友情を深める場所なのだ。
この日も貴将は悪意を隠し、優しく頼れるコーチとしての役割を果たす。心に秘めた感情や過去の影は、子供たちの前では最後まで見せることはなかった。
彼の目的はあくまで復讐を果たすことにあるが、その時間だけは貴将もまた、スターライトチェイスの純粋な楽しさに身を委ねていたのかもしれない。
◇
貴将はいつものように子供たちの指導にあたっていたが、その目は特に柳の動きを追っていた。
柳は他の子供たちとは一線を画す才能を持っており、貴将はその才能を見極めどのように指導すればよいかを常に考えていた。
柳は新たなチャレンジに挑んでいた。
バーチャル空間での難関コースを、チームメイトと協力してクリアするというものだ。
柳が指揮をとり、チームは難題に立ち向かっていった。貴将は柳がどのように難題を解決するか、興味津々で見守っていた。
ところが柳のパフォーマンスは、貴将の予想をはるかに超えるものだった。
単に問題を解決するだけでなく、その過程で見せた洞察力と判断力、そしてチームメイトへの気遣いは、まるでプロの選手のよう。
柳の動き一つ一つがバーチャル空間の中で輝きを放ち、周囲の子供たちもそれに引き込まれていった。
貴将の心は喜ぶどころか、恐怖で凍りついた。
彼が見たのは幼いながらも圧倒的な才能を持つ柳の姿だけではなかった。
貴将には、その才能がいかに自分の復讐計画に利用できるか、その可能性が見えていたのだ。
柳が示した才能の片鱗は、貴将にとって、東雲柊への復讐を遂げるための鍵となり得ると感じられた。
しかし同時に、自分が柳のような純粋な才能を持つ子供を巻き込むことへの罪悪感に苛まれる。
その葛藤は心を深く揺さぶり、柳への指導を続けるたびに感情はより複雑なものへと変わっていった。
柳の才能に恐れを感じながらも、深く考え込む。
教室での日々を通じて、自らが練り上げた復讐計画に冷静さを保とうと心がけていた。
柳に対してはコーチとしての優しさと配慮をもって接し、その天賦の才を育てることに専念する姿勢を見せている。
心の奥底では、復讐の火がくすぶっていることを誰にも悟られないようにと、自分に言い聞かせていた。
しかし時間が経つにつれ、貴将の心情に微妙な変化が生じ始める。
柳が見せる才能の輝き、純粋にスポーツに打ち込む姿勢、そして何よりも彼が持つ無邪気な笑顔に、貴将は自然と心を引かれていく。
その存在がただの復讐の対象ではなく、貴将自身の日々に新たな意味を与えていることに、徐々に気づき始めていた。
復讐の計画を思い描くことにかつてはある種の満足感を感じていたはずが、今では柳の笑顔を見ることが何よりの喜びとなっていた。
しかし、もう終わりにしなければならない。
復讐は必ず果たされなければならない。以前からの計画を実行に移す決心をし、帰路についた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜の帳が下りた時、貴将は自宅の書斎に閉じこもっていた。
部屋にはただ彼の息遣いと、パソコンの静かな作動音だけが響いている。
画面に映し出されたのはこれまで指導してきた子どもたちのデータ――柳を含む未来の星たちの輝きだった。
柳への執着が、もう彼自身を恐怖させるようになっていた。
その感情がいつの間にか理性を超えたものへと変わっていくことに、貴将は深い不安を覚えていた。
その恐れを認めたくないが、自分が一線を越えかねない狂気の淵に立っていることを、どこかで理解している。
何かが決壊した。
未来の選手たちのデータを、電脳世界の裏社会に売却する決断を下す。
この行為は一瞬の衝動に駆られたものではなく、長い時間をかけて練られた計画の結果だ。貴将はこの選択が自身を更なる暗闇へと導くことを知りながらも、進む道を選んだ。
取引は暗号化された通信を介して行われた。
画面上で指を滑らせるたびに、子どもたちの未来が、光が、見えない手によって売り渡されていく。
貴将の心には、これまで築き上げてきたコーチとしての信念、柳への淡い思いやり、それら全てが消え失せていくような虚無感が広がっていった。
取引完了のサインが画面に表示された時、貴将はやはり深い絶望の中で自らの行いを呪う。
選んだ道は、柳をはじめとする無垢な子どもたちへの最大の裏切り行為だった。
その夜の貴将は自らが築いてきたすべてを背負い、その重さに押し潰されそうになりながらも、これが自身の選んだ未来であることを静かに受け入れざるを得なかった。
この行為がやがて運命を大きく変えることになるとは、その時の貴将にはまだ想像もつかないことだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
運命の悪戯を呪った。
裏社会の協力者と、秘密裏にデバイスを使って通話していた。
場所はスポーツクラブの裏庭、普段子供たちの足があまり及ばない静かな場所だ。
静寂を破る足音を聞いた。振り向くと、柳が立っていた。
心臓が一瞬で冷え切る。
今この瞬間をどれほど恐れ、避けようとしていたことか。目は驚愕で見開かれた柳と合った。柳の視線は、何千の言葉よりも多くを語る。
「ああ、柳くん……どうしたの?」
貴将は必死に言葉を紡ぐ。
しかし柳はその場を動かない。柳の目には失望や怒りではなく、深い悲しみが宿っていた。その瞳はただただ、日向貴将を見つめていた。
貴将はさりげなさを装ってそのままいつも通りの声がけをしたが、内心で行おうとしたものよりはうまくいかなかった。
深く呼吸を試み心を落ち着けようとするが、混乱が渦巻く。
柳はなおも何も言わず、ただ貴将を見つめている。その無言の圧力は貴将にとって耐えがたいものだった。
その時貴将は、柳が持つ純粋さと、自分が犯した過ちの大きさを理解する。
しかし、時すでに遅し。
貴将の心は、柳と彼の父、柊への憎しみに満たされていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
甲高い歓声が響く教室の中、貴将と柳の間に微妙な空気が流れた。
柳は貴将の様子に、何かを隠されているのではないかという疑念を抱いていた。貴将は「柳くん、今日も一緒に頑張ろうな!」と強引に明るさを装っている。
柳は心の中で首を傾げたが、何も言わずにうなずいた。
柳はその日も普通にレッスンを受けたが、心が既に遥か彼方に飛んでいっているかのようだった。視線は時折、虚空に迷い込む。
貴将はレッスンが終わると柳の前を横切り、人目の少ない廊下へと足を進めた。
柳は、貴将を追った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薄暮が迫る空を背にして、柳と貴将は非常階段を上がっていく。
その足音だけが鉄の階段に反響し、それ以外は何も聞こえない静寂が周囲を包む。貴将は施設の奥深くにある非常階段へと向かう。
貴将はまるで何も起こっていないかのように、柳と一定の距離を保ちつつ歩を進める。
「……だめだよ、柳くん」
貴将は突然、声を落として言う。
「……え?」
柳はきょとんとした顔で見返すが、その瞬間貴将の中の感情は一変する。何も知らないのだ。何を言ってもわからないだろう。
「柳くん、秘密にしたいことがあるならもっとバレないように振る舞わなくちゃ。今日のレッスン中の君は緊張しているのがまるわかりだった。そんなことじゃ、僕みたいな悪い大人に……君は騙される」
「……せ……先生?」
柳が言葉を詰まらせると、貴将の表情はさらに冷酷なものに変わるのを感じた。
隠していた憎しみが、もう止まらない。じわじわと表層に現れていく。
「まあ、気をつける必要はない。君は知ってしまったんだから。証拠隠滅と復讐、両方が果たせて、僕には……俺には、都合がいい。君はここでおしまいだ。だから、気をつけなくていいよ」
貴将は階段に背を向けた柳に向かってゆっくりと歩を進めた。
「……先生、何を……?」
あと一歩。あと一歩。ああ、これで本懐を遂げるのだ。どんなにか心に安息が広がることだろう。
「……恨むなら、親を恨め」
貴将の声が鋭く響く。
柳の小さな体は、貴将の手によって暗闇へと押し落とされた。思った通りに。
続いて重量物落下装置を、彼の上に落ちるよう予め計算された位置から、落下させる。轟音が響き、下層の部屋からざわめきが聞こえ始めた。
貴将は一瞬その場に立ち尽くした。
しかし、すぐに他のスタッフやクラブ会員たちと共に柳が落ちた場所へと駆け寄り、救助を始めた。
「大丈夫か?! 柳くん、聞こえるか?!」
柳は生きていたが、痛みとショックで声を出せないらしい。涙は柳の頬を静かに流れていた。
貴将の声が聞こえていないのか、その声に込められた真意は柳に伝わっているのかわからない。しかしそれでいい。何も知らない子供なら、最後まで何も知るな。
その行動は表面上は英雄的な救助者のようだが、間違いなく犯行を隠蔽しようとする計算ずくのものとして実行したものだ。
柳は貴将が自分に対してどのような罪を犯したのか全容を理解するには至らなかったが、身体よりも深く、心に傷が刻まれるのを感じているようだった。
貴将は柳の未来を奪うことで、自らの過ちを覆い隠そうとした。
日向貴将の裁判では日本の法律に基づき、厳格な手続きが行われた。
殺人未遂およびその他の罪状で起訴され、裁判所において無実を主張することなく、全ての罪を認めた。
貴将の裏切りは東雲柳の心に深く傷を残し、その傷から滲む痛みは長い時間が経っても癒えることはなかった。
裁判所は貴将の犯行が明らかになった映像や証言を根拠に、有罪と判断した。犯罪の重大性や社会への影響を考慮し、日向貴将には長期の懲役刑が宣告された。
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