星渦のエンコーダー

山森むむむ

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泡沫夢幻

君に嫌われたい。もう二度と会いたいと思われない程に。未来は誰に託される?それを見ることができないことが、一番の悲しみだった。

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 非常用ゲートが設けられたその場所は、通常荷物や機材を置くことが禁じられている。

 校舎の隅に位置し、通行人も稀なその場所を、柳は図書館へ向かう前に歩いていた。しかし何かを感じて振り返ると、クリスがこっそりとついてきていた。

「……柳」
 クリスが呼ぶ。
「……何」
「あの……」
 クリスは言葉に詰まっていた。不安げに揺れる瞳は大きく、その感情を嫌というほど見せつける。

 柳は知っている。彼女は、綺麗だった。
 その名前に恥じぬ透明な心。強く真っ直ぐであろうとする精神。それを一片たりとも汚さないために、これまで宝物を扱うように接してきた。今から行うことを決めた行為で、柳は過去クリスタルに対して接してきた気遣い、優しさ、思い出と全てを台無しにする。
 完璧に完遂しなければならない。怯まずに、迅速に行え。

「……はぁ……」
 聞こえるようにつかれたため息に、クリスは肩をびくりと動かしていた。
「クリス」
 短く名前を呼ぶ。歩を進め、手が触れることのできる位置まで急激に接近した。
「……えっ?」
 クリスの手首を掴み、柳は彼女を壁際に追い詰めていく。

 矛盾した感情を抑え、光の届かない隅に身体を押し込む。細い手首だった。このまま強く握れば、きっと折れてしまう。
 クリスの身体は柳の意図したまま壁に押し付けられ、その衝撃で苦しげに顔が歪んだ。
「あっ…………痛ッ、柳?!」

 行動は計算され、制御している。手首を握っていた手を一旦離し、壁に縫い付けた。手付きは一見優しげでも、その実、断固として彼女を支配下に置く意思が感じられるように。
 全ての動作は、抱える内なる葛藤とクリスへの思いが複雑に絡み合うことを示している。しかしクリスはそれを感じ取ることはできないだろう。それは今、柳自身が、彼女に恐怖を与えているから。

「い、いたい……! 痛いよ……!」
 冷静さを奪う。
 壁に押し付け、彼女の顔をじっと見つめると、眼差しは彼女にとって恐怖の対象となった。
 順調だ。ほとんど囁くように「静かに」という言葉を耳元に吹き入れる。
 柳の顔が近づくにつれて、クリスの感じる恐怖が増してゆく。全ては、思惑通り。
「何するの、や、柳……?!」
 再度手首を握った。今度は、力の差を思い知らせるために。案の定必死に身を捩るが、クリスよりも柳の力のほうが強い。
「……静かにして……」
 柳は再び命じる。クリスのウエストに手を滑らせようとするが、寸前のところで動きが止まってしまった。指を丸めて手を戻す。
 クリスはその手の気配に更に怯えていた。感情は恐怖に支配され、柳の吐息が頬に触れる度に、心が震え上がったように涙を滲ませ始めた。
「やだ、やだ!」
 クリスが抵抗する声を上げるとさらに身を寄せ、その抗議を物理的に封じ込めようとする。
 自身も理解し難いほどの緊迫感と必死さが全身を支配した。クリスは感情が涙の形を取って溢れ、瞼から落ちるのを止められないようだった。次々と雫が落ちていく。
 黒く深く、濃い霧に遮られた柳の心が、軋む音をたてている気がする。
 いいや、今こそ心の声に鈍感になるべきだ。
 既に一つのタスクを取り落としている。成功率を高めるため、感情を捨てなければならない。
 柳は今、クリスタルのことを性的対象と定め、欲望に駆られて力づくで追い詰める男だ。
 そう思い込まなければ、計画は成功しない。共に過ごした時間が長過ぎた。

「……いいから……」
「…………いや……! お願い……!」
 思った通りだ。

 やはり柳の知っている通りの、きれいなクリスタル。
 怯えている。かわいそうな、大好きな君。他の誰でもなく、僕が怯えさせている。

「………………」
 瞳の奥だけで別れを告げた。
 これでもうきれいな瞳に見つめられることも、愛おしい声に励まされることもない。その未来を見守ることも、許されない。

「こんなの、やだよ……!」
 さようなら、クリスタル。

 そして柳は最後に、クリスを完全に突き放す言葉を吐いた。
「………クリス、これが最後だ。二度と僕に近づくな」

 柳はようやく手首を解放し、踵を返してその場から立ち去る。
 クリスは壁にもたれたまま一人残された。完全に力を失いながら、ずるずると座り込む。
「……え……?」
 残された冷たい空気と壊れた何かが、クリスの頭上をひっそりと漂っていた。



 階段を登る。クリスタルの悲鳴が聞こえたからだ。長岡は階段の踊り場に息を切らせて現れた。
 まだバスケ部のユニフォーム姿である。その表情はすぐに心配に変わる。
「クリス?!」
 長岡はそっとクリスの肩に手を置き、支える意思を示した。クリスは長岡の存在に気づき見上げたが、その目には涙が滲んだ。

「何があったんだ? 誰かに何かされたのか?」
 長岡は極力やさしく問いかけながら、クリスが話せる状態になるまで待った。
 彼女はゆっくりと深呼吸をし、首を振って声を絞り出す。
「大丈夫……ただ……柳が……」
 その名を発した途端、クリスの目からはボロボロと大粒の涙が落ちた。慌てて拭い、何か誤魔化そうと口を開いたように見える。長岡は見守った。
 それでも止まらず最後は拭うことを諦め、小さな声を引き絞って俯き、泣いていた。

「絶対大丈夫じゃないだろ……もうちょっと落ち着けるところに行こう」
 クリスの気持ちを尊重し、彼女が落ち着ける場所を提供することを優先しようとする。長岡は彼女に対して特別な感情を抱いている。有体に言えば、片思いというものだ。
 彼女の発した柳の名前に一抹の不安が走る。下で聞いた細い悲鳴には、確かにその名が含まれていた。

 二人はゆっくりと階段を下り、裏庭にある静かなベンチへと向かった。そこは学生たちの間でもあまり利用されることのない、隠れたような場所だ。長岡はクリスが落ち着くまで、じっとそばで見守る。


「……柳が、私に……」
 長岡はこの状況の重大さを認識し、クリスに確認を取る。
「ユエンと流磨を呼ぶけど、いい?」
「…………あ……」
 クリスは少し目を泳がせるようにした後、小さく頷いた。
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