星渦のエンコーダー

山森むむむ

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泡沫夢幻

罪の果実を手渡す

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「……う」
 柳を引き連れて彼の部屋に入ったはいいものの、彼の体重に耐えきれずデスクの前の椅子に突き倒す形になってしまった。クリスは部屋の様子に気がついた瞬間、現実を疑った。

「……えぇ……?!」
 部屋中に広がる電子機器、何重にも展開されたままのAR資料。積み上がった書籍。
 膨大な書類を多重レイヤーで映し出し、鈍い光を放つ電子ノート。
 すべてが異常だった。柳の部屋はクリスの記憶にある限り、整然と清潔感に溢れた空間だった。
 今はカーテンを締め切られ、暗く沈んだ空間が精神状態を象徴しているかのように息苦しい。

 力なく椅子に沈んだままの柳に向かって、クリスは拳を握りしめ、吐き捨てるように言う。
「……なんで、こ……こんなになるまで…………?!」

 柳は顔を上げずにゆっくりと頭を振った。目には疲労が溜まり、声には力がなかった。
「ただ、答えを探していたんだ」
 クリスはさらに詰め寄る。内側から揺さぶられるような動揺。良くない、きっとこれはうまくやらないと、彼が帰って来られなくなる。できるだけ慎重に言葉を探した。
「何の答えを」
 柳の目が、ようやくクリスに向けられた。

「……クリス、君は……地球最初の人間の男女の話を、知ってるよね」
 クリスは一瞬、その質問の意味を理解できなかった。
「……え?」
 反射的に声が漏れる。柳はゆっくりと目を上げ、クリスとの視線を合わせた。疲れと深い真剣さが同居する。
 声は静かだが、トーンには重要な何かを告げる緊迫感が含まれていた。
「……ああ、そうか……僕は今、その存在の是非に言及する気はないんだ。進化論という説があって、それが一定の真実とされているこの世界の実情も、ちゃんと理解している」
「……何、言ってるの……」
 わからない、なんて言ったらいいのか。そして柳は突然に言う。
「クリス、最初の人間の男女は、悪魔に嘘をつかれて、楽園から追放された」
「……柳、ねえ何を考えてるの……?」
「……悪魔は、最初の女性にこういう話をした。『神が食べることを禁じた果実をあなたが食べれば、目が開かれたようになって、神のような感覚で生きることができる』」

「……うん」
 クリスは彼の話を理解しようと努めた。しかし、まるで目の前にいるのが、誰か知らない人のように感じている。
 違和感が更に、彼自身の言葉によって上塗りされていく。

「つまり……神の決めたルールよりも、自分の欲求に従う方が良いと、そう悪魔が言ったんだ。そして彼女は神に背き、最初の男性も続いた」
 柳は続けて、悪魔の嘘についてこう言う。
「こうして神に背いた人間は、死と罪を負うことになった……続く未来の子孫へそれらは受け継がれている。それだけ、この唯一の罪は重かった」
「……木の実を取って食べない、その簡単な命令を守り続けるだけで得られた幸せを、ふたりは手放したんだっていう話だよね」
 もちろん、クリスもこの話については知っている。誰もが、知っている話である。深く考えたことがあるか、その程度には差異があるだろうけれど。
「つまり、自分の考えは確かに大切だけど……決まっているルールや、周囲のことを考えて生きることが、人間の正しい道ということで…………ねえ、それは間違いないよね」
 柳の言葉は彼自身の苦悩と、それに対する内省の深さを示しているようだった。
「……そう、だね」
 一度、受け止めるしかない。答えを探していたのだと言った。探求するうちに、人類の始まりにまで帰ってしまったのか。
 この探究が、彼の価値観や行動原理に与えた影響を浮き彫りにする。他に外的干渉が?
 何にしても柳自身が、継続して自己の信念と外界の期待との間でバランスを取る方法を探求していることを示していた。
 しかしその考えと現在の状況が、クリスにはどうしても結び付けられなかった。

「二人は、食べてはいけない果実を取って食べた。それは彼らにとって犯せる唯一の罪であり、完全な存在だった己自身を根幹から裏切る行為だった。そして、ふたりの創造主さえも。神のただ一つ与えた命令を裏切った罪は、その後のすべての人類にまで波及するほどだった」

 眼の前にいるのは、本当に柳なのか?
 彼はいつも、目の前にいる人間のことを思いながら発言する少年だった。クリスという、目の前の相手の理解を置き去りにして、思考をただ口から流れ出すままにしている。こんな話し方をするはずがない。これが柳であるはずが、ない。
「それがなぜだったか、わかるよね」
 柳が、隠していた瞳を向けている。焦がれていたはずの両の目。それなのに、今はただ恐ろしい。
 端正な顔が、逆に凄味を持って陰影を写し取る。
「クリス……」
 薄い笑みすら浮かべた唇は構わず言葉を紡ぎ出してゆくが、クリスはそれをすべて聞き遂げられたかもわからなくなるほどに、大いに戸惑っていた。

「嘘だよ」
 断定的に告げられた言葉に、真意を問うこともできずに見返す。どうして。眼の前にいるのは、ただ弱った幼馴染の男の子。
 何も怖いことなんてない。彼はいつも優しくて聡明で、私に心配をかけさせると、悲しげに笑いながら謝るのだ。

「……悪魔が、嘘を使って人間を罪に入らせた。自分の思ったままに行動しろ、それが正しい道だ、と唆して誑かして」

 どうして? 誰が柳を追い詰めようとしている?返してほしい。柳を返してほしい。あの泣き虫だった優しい柳を。
 私の幼馴染の柳を。
「人は……自分のために生きようとすればするほど、罪深くなってゆく。これだけ有名な話でもこのメッセージが理解されていないのだと思うと、本当に神や悪魔という存在はあるのだ、という確信が持てるよね。少なくとも、僕は今……そう思うんだ」
「……柳」

 クリスはただそっと、柳の頬を隠す髪をすくうようにして、その肌に触れた。体温は低く、彼は静かに感覚に身を任せている。
「……クリス、君は本当に真っ直ぐだ」
 一瞬、彼の瞳が光を宿したように感じられた。すがるように見つめ返しながら、目と目をあわせて会話をする。奇妙だった。言葉でわからなかった何もかもを、今伝えているように見える、

「すごいと思うよ。このグチャグチャでどうしようもない世界で。クリスはずっと、ずっと僕の光だ……」
 柳はクリスの掌の暖かさにすり寄るように、頬を僅かに押し付けた。労わるように親指で撫でる。少し乾燥していた。
 言葉の真意が見えない。それでもクリスは、今も柳が笑顔を取り戻す日を望んでいる。
「ありがとう。でも、今日は体調が悪くて……ちゃんとまた朝起きて学校に行けるようにするから、今は寝かせてほしいんだ」
 柳はそっとクリスの瞳を見つめる。そこに見えたのは微かな揺らぎ。
「じゃあ」
 言葉は日常的な別れの挨拶でありながらも、内面に抑え込まれた不安と疲労とを、先に続きかろうじて隠し通す表現だった。

「あ……うん……」
 クリスは妙に掴み取れないままの不定形な心情を抱えながら、部屋を後にする。
 リビングには柳の両親と流磨が待っていた。

 柳は、突然もたらされた犯人の死という結果と、自分を付け狙う組織という存在の情報に晒され、内心では大きく揺れ動いていたのだと思う。
 しかし、彼の仮面はそれを表に出すことを許さない。
 クリスは柳の表情から読み取れる僅かな変化を感じ取りつつ、言いしれぬ不安感が胸に巣食っていくのを止められなかった。
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