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泡沫夢幻
痛切なる認識の不正咬合
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部屋の照明がやわらかく灯り、夜の静けさが深まる中、クリスタルはテレビスクリーンの映像に釘付けになっていた。
驚愕の表情が部屋の薄暗さに浮かび上がる。画面の青白い光がクリスの顔を照らし出し、信じがたいほどの震えが見て取れた。
「……なんで? なんでここに来るの?! このパパの会社と国が守ってる人工島に! あいつの入った刑務所は海の底! 絶対脱獄なんてできないはずなんでしょ?!」
クリスのの声が部屋に響き渡り、その緊迫した雰囲気が空間全体をさらに重くした。
横で、柳は黙ってクリスの言葉を受け止めている。表情は穏やかではあったが、内心の動揺を隠しきれていない。
その時、流磨は介入して言葉を投げかける。
「クリス、座れよ。気持ちはわかる。でも、見たところシノは怪我とかはしてない。無事だ。……どう思ってるのかは知らないが」
クリスは少し落ち着きを取り戻し、流磨の言葉に耳を傾けた。
「……そう、だね」
クリスはゆっくりとソファに腰を下ろし、深く息を吸った。
「話があるっていうんだから、まず聞こうぜ」
「うん、ごめん。取り乱して」
三人は互いを見つめ合い、これからの対話に向けて心を整える。
「……『彼』は……」
柳は膝の上で手を組み、忙しなく指を絡める。
彼がこれほどの感情を身体に表現することは極めて稀である。二人は固唾をのんで、次の一言を聞いた。
「日向貴将は……僕の仮説だけど、誰かしらの手引によって、この島……僕のいる場所まで導かれた。そして、報道に含まれていない事実として…僕の目の前で、死んだ」
沈黙が部屋を満たす。流磨はやっとのことで唇を開き、乾いた空気を吸い込んだ。今度は流磨の番だった。激情が口内を支配する。
「……死んだ?!」
柳は目を合わせず、ただテーブルの上に目線を合わせたままうつむく。
「…………そうなんだ……」
それぞれの呼吸音さえも重く感じられた。クリスは青ざめ、驚愕と混乱が彼女の顔に浮かんでいる。柳の告白は信じがたいものだったが、彼の真剣な様子がそれを裏付けているように思えた。
「…………信じ難い、ことにね」
「どういうことだよ、シノ本当に……本当に死んだのか? それもお前の目の前で?」
流磨の声は震えてしまう。柳は静かに頷き、再び声を落として話し始めた。
「この手で呼吸と脈を確認した。警察も消防も、病院での結論も、彼が命を失ったことを示している……事実だ。突然のことで、僕もまだ全てを理解できていない。だけどこれは事実なんだ。彼が死んだのは、誰かの計画によるものかもしれない。それが誰なのか、何の目的なのかはまだ分からない……」
クリスはしばらく黙っていたが、やがて声を絞り出す。
「これが……これが今日、柳が連絡もなしに学校に来なかった理由なの……」
柳はそっとうなずき、ようやく前髪の間から彼女の目を見た。
「そう。本当にごめん。心配かけて……」
「……事の大きさを考えれば、仕方ないと思う……だけど……どうして昨夜のうちに言ってくれなかったの……? 昨夜遅くて気が引けたのなら、今朝とか、昼間だって……」
流磨は椅子に深くもたれ、額に手を当てながら考え込んだ。
しかし、柳は彼らの問いかけに対して答えた。
「昨夜は……ただ、その場で全部を整理する時間が必要だったんだ。それに、あまりに突然の出来事で、どう伝えたらいいかわからなかった」
「……何者かって……これは大きすぎる話だな。なあシノ…………お前、大丈夫なのか」
大丈夫であろうはずが……なかった。
自分の人生を台無しにした張本人が、目の前で死ぬ。それを目の当たりにして、最後には命の鼓動を確かめる。
その経験が、想像できるはずがない。流磨は目の前の親友が抱えるものの重さに、腹の底が冷えて固まっていく思いだった。
「これは、ただの事故や偶然の死じゃない……かもしれない……? それなら、これからどうすればいいっていうの……」
三人はこの新たな現実に直面し、それぞれの心中で複雑な感情が渦巻いていた。この暗い真実をどう扱うべきか。次の一歩を慎重に踏み出さなければならなかった。
「何もわからない……だけど今出せる結論はこれだった。…………二人には、話しておきたかった」
ぽつりと零したその唇は乾き、憔悴しているように見える。
クリスはややあって顔を上げ、言葉を選びながら柳に目を合わせようとした。
クリスは、どうしてもこの件に関してを、柳に問わなければならないと思っているのだろう。柳は、放っておけば全てを自分の中にしまい込み、きれいに覆い尽くして見えなくしてしまう。
その意図を察し、流磨はクリスの顔を見ながら頷く。そして、ゆっくりと柳に焦点を合わせた。
「柳……ごめん、こんなこと……聞かれたくないかもしれない。でも…………どうしても聞いておかなくちゃならない」
「……うん」
クリスはゆっくりと息を吸い込んでから、言った。
「どう思うの…」
日向貴将に対しては、柳の中には裏切られたという深い怒りと、かつて尊敬していた人物への憧れが同居しているようだった。その死は、これら相反する感情の結論を出す機会を永遠に奪い去った。
日向貴将の存在は柳の心の傷を深めた原因でありながらも、人生の重要な一部を占めていた。柳にネオトラバースを教えた人間は、元選手でありスポーツクラブコーチをしていた日向なのだ。競技との関係は切っても切り離せない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
柳は、日向貴将の死という現実に直面したことで、自己同一性の揺らぎが生じていると思ってはいた。しかし突然の事態に、考え続けているのに一向に形をなさない。おかげで学校も休んでしまった。
長年にわたり築いてきた「自分」という存在が、日向貴将という人物との関係性の中で一部形成されていたため、その基盤が失われることによって生じる空虚感が柳を襲っていた。
長期にわたる心の傷と、それに伴う感情の抑圧は、柳が自分の感情に対して鈍感になる原因となっていた。
長い間黙り込む。感情がまた重い粘ついたものに覆われ、隠されて見えなくなっていく。問われたことに答えようと内面を探るが、手応えと言えるものがない。
「……どう……? どう思う……って……?」
自分が本当に感じていることを、柳は今、正確に捉えることができない。合わせていた指を顔の前に掲げ、顔を隠すようにして言った。
「……わ……………………………………わからない…………」
それは虚無的な答えだった。しかし、長考の末に出した本心だ。
柳は長期の間、自己を否定し続けていた。感情が麻痺しているように感じている。
この状態は、「わからない」と答える直接的な理由だった。
クリスに対してすらも、柳は自分の脆弱性を見せることに恐怖を感じる。
クリスに本心を明かすことは、さらなる傷つきにつながる可能性があると無意識のうちに感じている。今、またしても柳は心を閉ざす。
柳は自分の感情を理解し受け入れる過程で、自我の再構築を迫られていた。
何年も重ね続け、張り付いた仮面を壊す方法が、柳にはもうわからなかった。
「……わから、ないんだ……」
無論、柳とて彼らに対して心を開き、自己を受け入れられる未来を夢見ていた。しかし日向に対するその答えにたどり着くまでに、すでにこの出来事があってから長い思索を費やしていた。
そう。昨晩に事が起きてから今までの間、冗談ではなくずっと考えていたことだ。
しかし。
「……わからない……?」
クリスは目を見開き、柳を見つめている。柳はその空色に耐えられず、より深く顔を沈めてゆく。
「……わからないんだ……本当に………………本当にわからない……ッごめん……」
クリスは柳の絶望を垣間見たように、思考を乱しているようだった。
「……わからない、か……」
流磨が漏らした言葉は、同意とも取れるニュアンスを含んでいた。
「ごめん……ごめんクリス……流磨……」
驚愕の表情が部屋の薄暗さに浮かび上がる。画面の青白い光がクリスの顔を照らし出し、信じがたいほどの震えが見て取れた。
「……なんで? なんでここに来るの?! このパパの会社と国が守ってる人工島に! あいつの入った刑務所は海の底! 絶対脱獄なんてできないはずなんでしょ?!」
クリスのの声が部屋に響き渡り、その緊迫した雰囲気が空間全体をさらに重くした。
横で、柳は黙ってクリスの言葉を受け止めている。表情は穏やかではあったが、内心の動揺を隠しきれていない。
その時、流磨は介入して言葉を投げかける。
「クリス、座れよ。気持ちはわかる。でも、見たところシノは怪我とかはしてない。無事だ。……どう思ってるのかは知らないが」
クリスは少し落ち着きを取り戻し、流磨の言葉に耳を傾けた。
「……そう、だね」
クリスはゆっくりとソファに腰を下ろし、深く息を吸った。
「話があるっていうんだから、まず聞こうぜ」
「うん、ごめん。取り乱して」
三人は互いを見つめ合い、これからの対話に向けて心を整える。
「……『彼』は……」
柳は膝の上で手を組み、忙しなく指を絡める。
彼がこれほどの感情を身体に表現することは極めて稀である。二人は固唾をのんで、次の一言を聞いた。
「日向貴将は……僕の仮説だけど、誰かしらの手引によって、この島……僕のいる場所まで導かれた。そして、報道に含まれていない事実として…僕の目の前で、死んだ」
沈黙が部屋を満たす。流磨はやっとのことで唇を開き、乾いた空気を吸い込んだ。今度は流磨の番だった。激情が口内を支配する。
「……死んだ?!」
柳は目を合わせず、ただテーブルの上に目線を合わせたままうつむく。
「…………そうなんだ……」
それぞれの呼吸音さえも重く感じられた。クリスは青ざめ、驚愕と混乱が彼女の顔に浮かんでいる。柳の告白は信じがたいものだったが、彼の真剣な様子がそれを裏付けているように思えた。
「…………信じ難い、ことにね」
「どういうことだよ、シノ本当に……本当に死んだのか? それもお前の目の前で?」
流磨の声は震えてしまう。柳は静かに頷き、再び声を落として話し始めた。
「この手で呼吸と脈を確認した。警察も消防も、病院での結論も、彼が命を失ったことを示している……事実だ。突然のことで、僕もまだ全てを理解できていない。だけどこれは事実なんだ。彼が死んだのは、誰かの計画によるものかもしれない。それが誰なのか、何の目的なのかはまだ分からない……」
クリスはしばらく黙っていたが、やがて声を絞り出す。
「これが……これが今日、柳が連絡もなしに学校に来なかった理由なの……」
柳はそっとうなずき、ようやく前髪の間から彼女の目を見た。
「そう。本当にごめん。心配かけて……」
「……事の大きさを考えれば、仕方ないと思う……だけど……どうして昨夜のうちに言ってくれなかったの……? 昨夜遅くて気が引けたのなら、今朝とか、昼間だって……」
流磨は椅子に深くもたれ、額に手を当てながら考え込んだ。
しかし、柳は彼らの問いかけに対して答えた。
「昨夜は……ただ、その場で全部を整理する時間が必要だったんだ。それに、あまりに突然の出来事で、どう伝えたらいいかわからなかった」
「……何者かって……これは大きすぎる話だな。なあシノ…………お前、大丈夫なのか」
大丈夫であろうはずが……なかった。
自分の人生を台無しにした張本人が、目の前で死ぬ。それを目の当たりにして、最後には命の鼓動を確かめる。
その経験が、想像できるはずがない。流磨は目の前の親友が抱えるものの重さに、腹の底が冷えて固まっていく思いだった。
「これは、ただの事故や偶然の死じゃない……かもしれない……? それなら、これからどうすればいいっていうの……」
三人はこの新たな現実に直面し、それぞれの心中で複雑な感情が渦巻いていた。この暗い真実をどう扱うべきか。次の一歩を慎重に踏み出さなければならなかった。
「何もわからない……だけど今出せる結論はこれだった。…………二人には、話しておきたかった」
ぽつりと零したその唇は乾き、憔悴しているように見える。
クリスはややあって顔を上げ、言葉を選びながら柳に目を合わせようとした。
クリスは、どうしてもこの件に関してを、柳に問わなければならないと思っているのだろう。柳は、放っておけば全てを自分の中にしまい込み、きれいに覆い尽くして見えなくしてしまう。
その意図を察し、流磨はクリスの顔を見ながら頷く。そして、ゆっくりと柳に焦点を合わせた。
「柳……ごめん、こんなこと……聞かれたくないかもしれない。でも…………どうしても聞いておかなくちゃならない」
「……うん」
クリスはゆっくりと息を吸い込んでから、言った。
「どう思うの…」
日向貴将に対しては、柳の中には裏切られたという深い怒りと、かつて尊敬していた人物への憧れが同居しているようだった。その死は、これら相反する感情の結論を出す機会を永遠に奪い去った。
日向貴将の存在は柳の心の傷を深めた原因でありながらも、人生の重要な一部を占めていた。柳にネオトラバースを教えた人間は、元選手でありスポーツクラブコーチをしていた日向なのだ。競技との関係は切っても切り離せない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
柳は、日向貴将の死という現実に直面したことで、自己同一性の揺らぎが生じていると思ってはいた。しかし突然の事態に、考え続けているのに一向に形をなさない。おかげで学校も休んでしまった。
長年にわたり築いてきた「自分」という存在が、日向貴将という人物との関係性の中で一部形成されていたため、その基盤が失われることによって生じる空虚感が柳を襲っていた。
長期にわたる心の傷と、それに伴う感情の抑圧は、柳が自分の感情に対して鈍感になる原因となっていた。
長い間黙り込む。感情がまた重い粘ついたものに覆われ、隠されて見えなくなっていく。問われたことに答えようと内面を探るが、手応えと言えるものがない。
「……どう……? どう思う……って……?」
自分が本当に感じていることを、柳は今、正確に捉えることができない。合わせていた指を顔の前に掲げ、顔を隠すようにして言った。
「……わ……………………………………わからない…………」
それは虚無的な答えだった。しかし、長考の末に出した本心だ。
柳は長期の間、自己を否定し続けていた。感情が麻痺しているように感じている。
この状態は、「わからない」と答える直接的な理由だった。
クリスに対してすらも、柳は自分の脆弱性を見せることに恐怖を感じる。
クリスに本心を明かすことは、さらなる傷つきにつながる可能性があると無意識のうちに感じている。今、またしても柳は心を閉ざす。
柳は自分の感情を理解し受け入れる過程で、自我の再構築を迫られていた。
何年も重ね続け、張り付いた仮面を壊す方法が、柳にはもうわからなかった。
「……わから、ないんだ……」
無論、柳とて彼らに対して心を開き、自己を受け入れられる未来を夢見ていた。しかし日向に対するその答えにたどり着くまでに、すでにこの出来事があってから長い思索を費やしていた。
そう。昨晩に事が起きてから今までの間、冗談ではなくずっと考えていたことだ。
しかし。
「……わからない……?」
クリスは目を見開き、柳を見つめている。柳はその空色に耐えられず、より深く顔を沈めてゆく。
「……わからないんだ……本当に………………本当にわからない……ッごめん……」
クリスは柳の絶望を垣間見たように、思考を乱しているようだった。
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流磨が漏らした言葉は、同意とも取れるニュアンスを含んでいた。
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