星渦のエンコーダー

山森むむむ

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罪なき日々の終着

陰鬱なロジック 帰り道のパンくず

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 柊は夕暮れの光を背にしてリビングに姿を現した。

 柳が再び病院で検査を受けると連絡をした日、彼は少し待ってほしいと返答していた。話があるとだけ残して通話は終えられ、その後は話をすることはできなかった。
 柳が試合中に倒れたと聞いたその時から、柊は昼も夜もその背景にある様々なものの調査に奔走しているらしい。柳自身にはいつもと変わらない生活を送って欲しいという彼の希望から、柳はあえて父のことには言及せず、母の夕子を通して概要を耳にするだけだった。

 肩からかけた灰色のジャケットが仕事帰りの疲れを物語っていたが、その表情は何か重大な決断を下した後のように、晴れやかであると同時に緊張を含んでいた。
 髪は少し乱れていて、眉間にはしわが刻まれ、目の下には薄暗い影が落ちていた。

「父さん、お疲れ様…………本当に疲れてるね」
「気にするな……体調には問題ないし、この後ちゃんと長めに寝るつもりだから」
 柊はジャケットをいつものようにハンガーにかけることもせず、ソファーの背もたれに引っ掛けて座った。その様子に、ただならぬ緊張感が広がる。

 「柳。父さんは……お前の受けた異常な治療と、病院…………それと宣告された病気について、桐崎さんの会社と一緒に調べていた」
 柊の声は厳かであり、彼がこの間に何を耐え、何を決意したのかが窺えた。柳はその雰囲気と予想もつかない展開に困惑しながらも、ソファーに腰掛けた父をまっすぐに見つめる。
「……うん」

「……検査は受けよう。しかし……看過できない事実が新たに判明したんだ……お前が受けた診断、『電脳感覚逸脱症候群』だが…………」
 柊は額に手を当てながら、未だに受け止めきれていないかのような重い事実を報告した。
「その病は、存在しない」

 彼の言葉は柳の心の中で重く響いた。
「…………存在しない……?」
 柊はゆっくりと息を吸い込み、それから柳に向かって深刻な眼差しを向けた。
 彼の目は普段の優しさを湛えつつも、今は父としての責任と決意に満ちているようだった。リビングの窓から射し込む夕日が彼の顔をオレンジ色に染め、一層深刻な雰囲気を演出している。

「桐崎さんとの調査で、その病名について多くの疑問点が浮かび上がった。それは……その病名が医学的な基盤を持たないことだ。さらに、その診断を下した医師たちは、特定の組織と繋がっている可能性が高い」
「組織……?」
 柳は、自分がそのように組織的なものに関連した被害を受けることになるなど、思ってもみなかった。
 複数の人間が、までは考えたことがある。しかし柊の話では、もっと数多くの存在が絡むことであるようだ。その予想を補足するように、父の説明は続けられる。

「その場でのみの病の捏造なら容易だ。お前はまだ未成年だし、学生でスポーツ選手だ。医療の知識がないのだから、眼の前の患者であるお前だけを騙せばいい。だが今回の診断は病院のスタッフ、医者、研究者、医学博士……医学界、そして社会全体を騙すほどの、巨大な陰謀だったということになる」
 突然もたらされた話を、柳はうまく飲み込むことができない。医学界? 陰謀?
 それに自分が、なぜわざわざ………………。

 柊は視線を落とし、考え込むように眉をひそめた。そして柳にもう一度目を向け、ゆっくりと続ける。
「もう一度、お前の身体について深く検査をする。そして、お前が本当はどのような状態なのかをしっかりと確認しよう。ただし、今度は全く別の、信頼できる医療機関でだ……」

 この重大な事実に、柳の心中は混乱と安堵が交錯する。病が存在しないという事実は、新たな希望と同時に多くの疑問を投げかけた。しかし、父の言葉には確固たる決意が感じられ、それが柳にとっては何よりの支えだった。
 彼は深く息を吸い込み、静かに頷いていた。目が合うが、深刻な話を終えた柊の目はもう、優しい父のそれだった。
 これから人生がどう変わるのか、未知ながらも、新たな一歩を踏み出す準備を整えたかった。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 数日の後、柊は冷静に自動車のハンドルを握りながら、柳とクリスを横目で見つめる。
 柳は少し緊張して窓の外を眺めているが、クリスは何度か柳の方へ顔を向け、微笑みを送っていた。柊は彼らの関係をよく理解しており、この状況下でクリスの存在が柳にとってどれほど心の支えになっているかを知っていた。

 柳の表情や動作には、感情を表すサインが極めて少ない。
 程度の差こそあれ、これを少しでも読み解ける人間は自分や妻を除けば、親友の流磨やこの幼馴染の少女くらいのものだった。

 病院の入り口に車を停めた柊は、後部座席から降りる柳に向かって声をかける。
「大丈夫だ、柳。不安なことがあれば何でも言ってくれ」
 一方、クリスは柳の隣にそっと立ち、「一緒にいるからね」と囁いた。

 病院のフロントに到着すると、柊は受付の看護師に予め手配していた予約の確認をする。柳はクリスの隣に静かに立っており、彼女がそばにいることで明らかに安心している様子だった。

「東雲柳さん、こちらへどうぞ」
「……行こ」
 診察室へと案内する看護師の声に柳は一瞬身体を硬くするが、クリスが笑いかけると少しだけ顔を緩ませた。
 診察室に入ると、柊は医師に向かって深刻な表情で話し始める。
「息子が以前受けた診断と治療について、再検査をお願いしたいのです。過去の診断に疑問があり、本当の病状を確かめたいと考えています」
 医師は柊の話を真剣に聞き、柳に対して落ち着いた声で答える。
「安心してください。今日は全ての事実を明らかにしましょう」
 柳はそれを聞きほんの少し頷くが、その目は依然として不安で満ちているようだった。

「……よし、検査始まるね。私はちょっと売店に行ってくるよ。何か欲しい物ある?」
 クリスは柳の肩に優しく手を置き、柳が安心できるようにと努める。

 検査では衣服を脱ぎ着する。クリスは異性であり、一緒には父親である柳もいた。ここで彼女がこの場に留まるよりは、さり気なさを装って席を外したほうが良いだろうという判断だったようだ。
「……ありがとう、クリス。気を使ってくれて……」
 感謝を込めて見つめる柳を、微笑みで安心させるようにしながらクリスは部屋を出た。柊は柳が診察室のベッドに座るのを見守りながら、彼がこれまで抱えてきた重荷が少しでも軽くなることを心から願っていた。

 病院の特別検査室は、未来的な装置とテクノロジーで満たされていた。
 柳が診察室に入ると、そこにはシームレスなインターフェースを備えた医療ベッドがあり、数多くのセンサーが柳の生体情報を瞬時に読み取る準備をしていた。
 医師は検査が始まる前に、病院が最近導入した『生体リゾナンススキャナー』について説明する。

「この機械はあなたの神経系と同期し、通常では検出できない微細な生体変化までキャッチできます。それにより、過去のデータとの照合と、その治療行為と称したセッションがもたらした影響を正確に把握し、適切な診断を下すことができます」

 ベッドに横たわると、天井からアームが伸び、柳の頭部、胸部、腕に軽く触れる。
 それぞれのアームには細かなセンサーが取り付けられており、心拍、脳波、さらには柳の感覚受容器の活動までを測定してゆく。画面上で生体データがリアルタイムで映し出され始め、医師はそれを注意深く観察した。
 データは光の流れとなり、医師が操るホログラフィックインターフェースを通じて、各種の生理的パラメーターが分析される。
「非常に興味深い……」
 医師はつぶやく。
「柳さんの体は特定の刺激に対して異常に高い反応を示しています。これは、過去に経験した環境が強く影響している可能性がありますね」

 診察室のベッドに横たわり、天井から降りてくる精密な装置の手に身を委ねる間、柳の心臓は不規則に跳ねていた。
 医師がモニターに映し出される膨大なデータを解析する中、その表情は次第に明確な結論に向かっていることを示していた。
「柳さん、お話しした通り、あなたの体は全体的に非常に健康です。通常の生理的機能に問題は見られませんが、特定の電脳環境に対する異常な忌避反応が確認されました。これは以前受けたという治療が原因で、心理的な障壁が形成されている可能性が高いです」

 医師は柳のデータを示しながら語った。柳の瞳には、この結論がどれほどの意味を持つのかを理解しようとする深い思索が浮かぶ。
 医師は状態をさらに詳細に説明し続ける。柊は柳の横で真剣に耳を傾けていた。

「これまでの症状と診断名『電脳感覚逸脱症候群』についても、私たちが行った検査からはそのような症状が医学的に認知されている疾患と一致しないことが明らかになりました。つまり、その病名自体が架空のものである可能性が高いです」

 この情報は柳にとって衝撃的でありながらも、どこかで感じていた疑問の答えでもあった。
「そう……でしたか」

 クリスが部屋に戻ると、医師はさらに説明を加えた。
「これからは、柳さんが繭に入る行為に対する恐怖を克服するための治療に焦点を当てていきます。具体的な治療法としては、認知行動療法や曝露療法を含む心理療法を検討しています……アスリートにも心の悩みが影響して休む人たちがいます。自分を受け入れて前に進むことができれば、競技に復帰することはできますよ」
 柳とクリスは互いに見つめ合い、柳が穏やかに微笑んだ。

「父さん、クリス、ありがとう。これからの治療に専念するよ」
 柊も微笑みを返しながら、柳の肩を優しく抱いてくれた。
「よく頑張った、柳。これからは私たちが全力で支えるから、安心して前に進んでくれ」
「柳……本当によかった」
 クリスの目を見つめる。安堵の表情に、柳もまた温かい気持ちが広がるのがわかった。

 病院を後にし、新たな希望を胸に秘めて家路についた。
 未知はあるが、一人ではない。家族と友人の支えが、彼のこれからの治療と挑戦を支える強い力となるだろう。
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