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罪なき日々の終着
無形の教師 私の元へ
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未来ノ島高専ネオトラバース部の練習施設。
高い天井は体育館と同じものに見えるが、その鉄骨は細く長く張り巡らされたものであり、所々に様々な形式をグラフィックを表示するための機器が設置されている。
床には綿密に設計されたギミックが多数組み入れられており、時には試合中の走りを再現するためのベルトが展開され、時には障害物を模したクッションがフロートするようにプログラミングされている。
世界でもネオトラバース強豪として数えられるこの学園敷地には最新のトレーニング設備があり、壁一面には柳の過去の戦績と写真が、デジタルサイネージによって展示されている。
しかし、その写真は柳が倒れた試合の一つ前のものから、今日に至るまで更新されていない。
柳は朝早くから施設に入り、煌々と輝く明かりの下でこの日の講義に使う資料を整えていた。
ARデジタルボードを用いて、部員たちが理解しやすいように戦術的なアプローチをビジュアルで示しまながら講義をする予定でいる。
夏の大会が終了したこのタイミングでプロとしてのアドバイスを送れる機会。
今は選手として試合に出場することができなくともこうして競技者たちの成長に関われることが、秘めた情熱の糧となっていた。
部員たちが集まると、柳は静かに立ち上がり、講義を始める。
『皆さん、おはようございます。本日は予定通り私…………東雲柳が、プロとして戦術開発と心理戦に焦点を当てた講義を行います』
スピーカーを通した音声が響き、部員たち一人一人に届く。
確認するように会場を見回し、静かに続けた。微笑みながら、部員たちが自分の教えを生かして成長する様子を見守る未来を、柳は心から願う。
『今日はどのように戦術を磨くか、そしてそれがどのように心理的な戦いに結びつくのかを見ていきましょう』
柳はARボードを展開させ、選手の傾向と試合中のプレッシャーによる心理的変化についてを聴衆に読ませた。
『試合中のプレッシャーは避けられないものです。重要なのは、そのプレッシャーをどう受け止め、どう克服するかです。心理戦はただの技術ではなく、相手を理解し、自分の感情を管理する芸術と思いましょう』
サポート要員を中心とした参加者が、手元のデバイスに指を走らせた。
クリスは真剣に聞きながらメモを取るが、隣の流磨は聞き慣れた話である。脚を組んだまま脱力してグラフィックを眺めていた。
続いて、柳は過去の自身の試合映像をスライドインさせる。
部員たちは動きのある画面に釘付けになり、柳の鮮やかなゲーム運びを学ばんとしていた。
『この試合映像を見てください。ここで私が取った判断がどのように試合の流れを変えたかを、詳しく説明します。それぞれの動きには意味があり、計算されています』
細かいポイントで止められるよう準備された動画は、通常再生とスロー、停止を繰り返しながら解説され、その内容の濃密さにクリスは感心している様子だった。
『トレーニングと同じくらい重要なのが、自分自身のメンタルを管理することです。私はプロとして、体だけではなく心も鍛える必要があります。もちろんプロでなくても、強くなりたいなら同じです』
自己分析のプロセスと、精度の向上のために取れる手段。そして、自分自身に向けたアプローチについてを、性格傾向別に分析した結果を指先で操りながら説明する。
やがて柳の指は降り、にこやかに調整した顔で全員と目を合わせるようにして、確認を取った。
『なにか質問はありますか? どんな小さな疑問でも大歓迎です。皆さんの理解を深め、不安を解消することが私の目標ですから』
挙手を募ったがその数が多いことを見て取ると、柳は一旦話を締めくくり、この後で再度質疑応答を受け付けると話した。
『今日お話しした内容を、是非次のトレーニングや試合に活かしてみてください。常に学び続けることが、選手やサポートとして成功する秘訣です』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
クリスは後方の席に静かに座り、柳の言葉に耳を傾けていた。彼が教壇に立つ姿は普段のリラックスした表情とは異なり、真剣そのものだった。言葉の一つ一つにクリスは自然と心を引き付けられ、柳の深い知識と情熱に内心ドキドキする。
「クリス、大丈夫かお前」
「……あんたこそ、今日はどうしたの。やけにつっかかるじゃないの」
流磨は何かが引っかかっているような煮えきらないような顔をしていたが、それをクリスに明かすつもりはないようだ。
思案げに視線を他所へやりつつ、人差し指を顎にくっつける。
「いや、なんでもないならいい」
「なに……」
「なんか……いや、わかんねえ。じゃあな」
いつも通りの飄々とした足取りで、彼はクリスから離れていった。
クリスの心情には、柳に対する尊敬と畏敬の念、そして彼の教育的アプローチに対する感銘が混じり合っていた。この講義を通じて自身の未来への道筋をさらに明確にすることができ、柳への憧れを新たにする。一方、流磨が何を読み取ろうとしていたのかがわからなかった。
講義室の隅に立ち、柳が他の部員たちの質問に一つ一つ丁寧に答えるのを見守る。
彼の回答はそれぞれに考え抜かれており、部員たちの疑問を解消するだけでなく、彼らの好奇心を更に掻き立てているように見えた。すごく良い先生だ。私に勉強を教えてくれるときと同じに。
「ありがとう、東雲くん! ずっと悩んでたからスッキリしたわ!」
「ううん。聞いてくれてありがとう。人に教えることだって、僕にとっての勉強になるからね」
部員たちの表情が一つ一つ明るくなるのを見て、クリスの心は複雑な感情で満たされてゆく。
柳がこうして他の人々に影響を与え導いている様子は、クリスにとってはとても魅力的だった。それは彼女自身が柳に惹かれた理由と同じような、人々を引きつけるカリスマ的な魅力だ。
「さんきゅー、シノ先輩! これからもっと頑張って、レギュラー目指します!」
「そうだね。君はまだまだ伸びると思う。もっと頑張ろうと思うその気持が強さになっていくから」
しかし、クリスの心の中にはわずかな焦りも芽生えていた。
柳が部員たちに囲まれている間、彼と二人きりで話をする機会を見つけられずにいる。彼の周りには常に人が集まり、内なる光に自然と人が引き寄せられるため、クリスにとってこのように彼が脚光を浴びる時間は、彼との距離を感じるものでもあった。
質問が一段落つくと、柳はクリスの方を向き、彼女の存在に気づいてくれた。
その瞬間、クリスの心は期待で高鳴った。これから彼とどんな会話ができるのか、どんな共有ができるのかを思うと、いつもこの胸は期待でいっぱいになる。
クリスはその場にいた部員たちが次々と帰っていくのを見届けながら、柳との帰り道を想像する。次第に静まり返る中で柳がクリスに向けて言ったその言葉は、気をもんで疲れた心に温かさをもたらした。
「お待たせ、クリス。帰ろう?」
柳の声にはいつもの穏やかさが込められており、室内に優しく響いた。
「ずいぶん人気者なんだね。東雲せんせ? 私にもマンツーマン授業お願いしまーす!」
クリスはわざと明るく言って、その場の緊張を解して見せた。その言葉に柳は軽く笑う。ああ、いつもの彼だ。
「わかった。帰るまでみっちりと教えてあげるから覚悟して」
出入り口を出た瞬間、廊下の灯りが二人の影を長く引き伸ばす。
帰り道もクリスは柳の隣を歩きながら、彼がどれほどネオトラバースに情熱を注いでいるかを感じ取っていた。その熱意が自身の意欲をも掻き立てる。
柳の説明は専門的で詳細で、クリスはその知識の深さに改めて驚かされた。しかし彼の話の中には、ただの情報伝達以上のものがあった。彼の人となり、生き様を伝えるものであり、それに引き込まれていった。
……でも。
「ねえ、柳……そろそろ他の話しない?」
柳は少し驚いたようにクリスを見たが、すぐに優しい表情を浮かべてくれた。
「いいね。実はちょっと、真面目に喋りすぎて疲れたんだ」
大好きなブルーブラウンが、さらさらと揺れる。
ふたりの足音は、静かな調和を奏でていた。柳のそばにいることの安心感と幸福感が、クリスの心を静かに満たす。
そよぐ風を吸い込み、夏の残りを胸いっぱいに味わった。厳しい夏が過ぎ、もうすぐ秋が来るだろう。
高い天井は体育館と同じものに見えるが、その鉄骨は細く長く張り巡らされたものであり、所々に様々な形式をグラフィックを表示するための機器が設置されている。
床には綿密に設計されたギミックが多数組み入れられており、時には試合中の走りを再現するためのベルトが展開され、時には障害物を模したクッションがフロートするようにプログラミングされている。
世界でもネオトラバース強豪として数えられるこの学園敷地には最新のトレーニング設備があり、壁一面には柳の過去の戦績と写真が、デジタルサイネージによって展示されている。
しかし、その写真は柳が倒れた試合の一つ前のものから、今日に至るまで更新されていない。
柳は朝早くから施設に入り、煌々と輝く明かりの下でこの日の講義に使う資料を整えていた。
ARデジタルボードを用いて、部員たちが理解しやすいように戦術的なアプローチをビジュアルで示しまながら講義をする予定でいる。
夏の大会が終了したこのタイミングでプロとしてのアドバイスを送れる機会。
今は選手として試合に出場することができなくともこうして競技者たちの成長に関われることが、秘めた情熱の糧となっていた。
部員たちが集まると、柳は静かに立ち上がり、講義を始める。
『皆さん、おはようございます。本日は予定通り私…………東雲柳が、プロとして戦術開発と心理戦に焦点を当てた講義を行います』
スピーカーを通した音声が響き、部員たち一人一人に届く。
確認するように会場を見回し、静かに続けた。微笑みながら、部員たちが自分の教えを生かして成長する様子を見守る未来を、柳は心から願う。
『今日はどのように戦術を磨くか、そしてそれがどのように心理的な戦いに結びつくのかを見ていきましょう』
柳はARボードを展開させ、選手の傾向と試合中のプレッシャーによる心理的変化についてを聴衆に読ませた。
『試合中のプレッシャーは避けられないものです。重要なのは、そのプレッシャーをどう受け止め、どう克服するかです。心理戦はただの技術ではなく、相手を理解し、自分の感情を管理する芸術と思いましょう』
サポート要員を中心とした参加者が、手元のデバイスに指を走らせた。
クリスは真剣に聞きながらメモを取るが、隣の流磨は聞き慣れた話である。脚を組んだまま脱力してグラフィックを眺めていた。
続いて、柳は過去の自身の試合映像をスライドインさせる。
部員たちは動きのある画面に釘付けになり、柳の鮮やかなゲーム運びを学ばんとしていた。
『この試合映像を見てください。ここで私が取った判断がどのように試合の流れを変えたかを、詳しく説明します。それぞれの動きには意味があり、計算されています』
細かいポイントで止められるよう準備された動画は、通常再生とスロー、停止を繰り返しながら解説され、その内容の濃密さにクリスは感心している様子だった。
『トレーニングと同じくらい重要なのが、自分自身のメンタルを管理することです。私はプロとして、体だけではなく心も鍛える必要があります。もちろんプロでなくても、強くなりたいなら同じです』
自己分析のプロセスと、精度の向上のために取れる手段。そして、自分自身に向けたアプローチについてを、性格傾向別に分析した結果を指先で操りながら説明する。
やがて柳の指は降り、にこやかに調整した顔で全員と目を合わせるようにして、確認を取った。
『なにか質問はありますか? どんな小さな疑問でも大歓迎です。皆さんの理解を深め、不安を解消することが私の目標ですから』
挙手を募ったがその数が多いことを見て取ると、柳は一旦話を締めくくり、この後で再度質疑応答を受け付けると話した。
『今日お話しした内容を、是非次のトレーニングや試合に活かしてみてください。常に学び続けることが、選手やサポートとして成功する秘訣です』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
クリスは後方の席に静かに座り、柳の言葉に耳を傾けていた。彼が教壇に立つ姿は普段のリラックスした表情とは異なり、真剣そのものだった。言葉の一つ一つにクリスは自然と心を引き付けられ、柳の深い知識と情熱に内心ドキドキする。
「クリス、大丈夫かお前」
「……あんたこそ、今日はどうしたの。やけにつっかかるじゃないの」
流磨は何かが引っかかっているような煮えきらないような顔をしていたが、それをクリスに明かすつもりはないようだ。
思案げに視線を他所へやりつつ、人差し指を顎にくっつける。
「いや、なんでもないならいい」
「なに……」
「なんか……いや、わかんねえ。じゃあな」
いつも通りの飄々とした足取りで、彼はクリスから離れていった。
クリスの心情には、柳に対する尊敬と畏敬の念、そして彼の教育的アプローチに対する感銘が混じり合っていた。この講義を通じて自身の未来への道筋をさらに明確にすることができ、柳への憧れを新たにする。一方、流磨が何を読み取ろうとしていたのかがわからなかった。
講義室の隅に立ち、柳が他の部員たちの質問に一つ一つ丁寧に答えるのを見守る。
彼の回答はそれぞれに考え抜かれており、部員たちの疑問を解消するだけでなく、彼らの好奇心を更に掻き立てているように見えた。すごく良い先生だ。私に勉強を教えてくれるときと同じに。
「ありがとう、東雲くん! ずっと悩んでたからスッキリしたわ!」
「ううん。聞いてくれてありがとう。人に教えることだって、僕にとっての勉強になるからね」
部員たちの表情が一つ一つ明るくなるのを見て、クリスの心は複雑な感情で満たされてゆく。
柳がこうして他の人々に影響を与え導いている様子は、クリスにとってはとても魅力的だった。それは彼女自身が柳に惹かれた理由と同じような、人々を引きつけるカリスマ的な魅力だ。
「さんきゅー、シノ先輩! これからもっと頑張って、レギュラー目指します!」
「そうだね。君はまだまだ伸びると思う。もっと頑張ろうと思うその気持が強さになっていくから」
しかし、クリスの心の中にはわずかな焦りも芽生えていた。
柳が部員たちに囲まれている間、彼と二人きりで話をする機会を見つけられずにいる。彼の周りには常に人が集まり、内なる光に自然と人が引き寄せられるため、クリスにとってこのように彼が脚光を浴びる時間は、彼との距離を感じるものでもあった。
質問が一段落つくと、柳はクリスの方を向き、彼女の存在に気づいてくれた。
その瞬間、クリスの心は期待で高鳴った。これから彼とどんな会話ができるのか、どんな共有ができるのかを思うと、いつもこの胸は期待でいっぱいになる。
クリスはその場にいた部員たちが次々と帰っていくのを見届けながら、柳との帰り道を想像する。次第に静まり返る中で柳がクリスに向けて言ったその言葉は、気をもんで疲れた心に温かさをもたらした。
「お待たせ、クリス。帰ろう?」
柳の声にはいつもの穏やかさが込められており、室内に優しく響いた。
「ずいぶん人気者なんだね。東雲せんせ? 私にもマンツーマン授業お願いしまーす!」
クリスはわざと明るく言って、その場の緊張を解して見せた。その言葉に柳は軽く笑う。ああ、いつもの彼だ。
「わかった。帰るまでみっちりと教えてあげるから覚悟して」
出入り口を出た瞬間、廊下の灯りが二人の影を長く引き伸ばす。
帰り道もクリスは柳の隣を歩きながら、彼がどれほどネオトラバースに情熱を注いでいるかを感じ取っていた。その熱意が自身の意欲をも掻き立てる。
柳の説明は専門的で詳細で、クリスはその知識の深さに改めて驚かされた。しかし彼の話の中には、ただの情報伝達以上のものがあった。彼の人となり、生き様を伝えるものであり、それに引き込まれていった。
……でも。
「ねえ、柳……そろそろ他の話しない?」
柳は少し驚いたようにクリスを見たが、すぐに優しい表情を浮かべてくれた。
「いいね。実はちょっと、真面目に喋りすぎて疲れたんだ」
大好きなブルーブラウンが、さらさらと揺れる。
ふたりの足音は、静かな調和を奏でていた。柳のそばにいることの安心感と幸福感が、クリスの心を静かに満たす。
そよぐ風を吸い込み、夏の残りを胸いっぱいに味わった。厳しい夏が過ぎ、もうすぐ秋が来るだろう。
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