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ジュニアパートナーシップカテゴリ 桐崎・清宮ペア
全国高等学校・中学校ネオトラバース公式選手権大会 1 エッグインクラウド
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夏休みの終わりが迫る日、東京の朝は、早くも活気に満ちていた。
未来ノ島から陸続きに本土を渡り、内陸側に位置する巨大なバーチャルリアリティスポーツアリーナ「エッグインクラウド」が今日の戦場である。
全国高等学校・中学校ネオトラバース公式選手権大会の舞台となるこの場所は、青空の下、太陽の光を浴びて輝いていた。
未来ノ島学園の遠征ジャージを身に纏ったクリスらのチームJは、大勢の参加校で賑わう正面入口待機スペースに立ち止まり、内部からの入場可能の連絡を待っていた。
柳の傍らに浮いている遠征用ドローンは、彼の顔を見ながら待機している。
『もう少し待ってねぇ~! 現在行われている試合はチームD~! 現実物理換算にして8キロの優勢で~す! ワン!』
「……ふふ」
「シノって、結構かわいいものが好きだよな」
ユエンが薄く笑う。
「試合のほうに関心を向けてくださいよ、ユエンさん」
「そうだね……でも勝つよね、これ」
「結構ドライだなお前」
流磨は今まで通ってきたルートを腕時計型デバイスで見返した。
「未来ノ島は東京都未来ノ島区未来ノ島……同じ24区内の遠征っつっても、物理的には結構遠いよな」
流磨が言うと、周囲から軽い笑い声が漏れる。それは同校の生徒たちの共通認識だろう。あるあるネタだ。場合によっては宿泊になることさえある。
そして大きくなりすぎた東京都は建造物が複雑化しており、きっと都内の道をナビゲート無しに歩いて目的地まで到達できる人間は限られていることだろう。
参加校が一堂に会するこの大会は、夢と希望を胸に秘めた若者たちでごった返していた。
「あっ、クリスちゃん! テレビいるよ!」
玲緒菜が指を差す方向には、地方局のカメラが向けられている。彼女の声に反応して、クリスは小さく身を震わせる。
「れお、手加減してやれよ」
流磨が軽くたしなめる。
「ごめんね、クリスちゃん」
玲緒菜の声には申し訳なさと茶目っ気がにじみ出ていた。
「れおちゃん、リラックスしすぎ……」
エッグインクラウドの内部は、電子音と観客のざわめきで溢れている。
競技用の繭が整然と並べられた選手ブースは、緊張感で静まり返っていた。クリスと玲緒菜は、彼らのサポートチームである柳、ユエン、流磨と共に最後の準備を進める。
とはいえ、実際に電脳世界へのダイブを行うためにはただ集中して座ればいいクリスらと、サポートとして現実世界から様々な手を尽くす柳らでは、今は忙しさに差異がある。
男子陣の表情は真剣そのもので、各々が持つタブレットやモニターに映し出されたデータに目を凝らしていた。
「れお、座ってろ。俺ので見せるから」
「うん」
流磨が玲緒奈に、相手選手のデータが記された電子書類を見せる。概要データを浮かせたARを指で操り、続いてプレイ中の段取りについて打ち合わせが始まった。
最後に精神的支柱である流磨が鼓舞する。
「いいな、れお。練習と同じようにすればできる。いつもと同じ。うん、緊張もしてなさそうだな、お前」
「大丈夫だよ。何度もやったこと……それが今回はクリスちゃんのことも考えるってことになった。それだけ」
「よし、その調子だ。クリスを頼むぜ」
「まかせて」
「れおちゃん、すごいなぁ……」
玲緒奈は、この競技においては先輩だ。
クリスはネオトラバースについては、柳らが関わる競技程度の、他人事のような認識でいる期間があまりにも長すぎた。
いくら熱心な練習の日々と柳らの指導がついているとはいえ、初心者である自分がかえって玲緒奈の足を引っ張ることにならないかが、心配だった。
「流磨……」
「クリス、大丈夫か? ……シノのほうが良さそうだな、お前の場合。もう俺の冗談聞き飽きたろ?」
「また変なこと言う気なの?」
「おー、怖。やっぱシノじゃなきゃダメだな。おいシノ! 頼む」
クリスの手はわずかに震えていた。歩み寄ってきた柳が、優しく言い聞かせてくる。
「大丈夫だよ、クリス……君のスピードは天下一品」
クリスはその言葉に力を得て、小さく頷く。
「ん……」
柳が一生懸命にサポートをしてくれる。そして回復の後には、またあの白い衣装を纏って電脳世界で活躍できる。望んだ未来を作るために、こんなことで震えてなんていられない。
クリスは落ち着きと優しさを湛えた彼の瞳に焦点を合わせた。
「……やっと見てくれた」
「え……」
彼の手が、膝の上に置いたクリスの手に重なった。
思っていたよりもかなり自分は、緊張していたらしい。体温が特段高いわけでもないはずの柳の手が今は、熱く感じた。
「ねえ、クリス。僕は本当に嬉しかった。君がネオトラバースを始めるって言ってくれたとき」
動機は柳だ。
クリスは考えた末、彼の競技への情熱を維持するためにはこの方法が一番良いと結論した。それは柳に恋をしているからではない。
例えば自分がもしも男で、恋愛の対象としてみていないのであっても、クリスはやはりこの選択をしたのだろう。それくらいに、プロ選手としての未来を見失いそうになっていた柳の横顔は悲しく、見ていられなかった。
「もしかして、僕のためにっていう理由を後ろめたく思ってる?」
図星だった。クリスは一度治った震えが再び襲うのを感じる。柳に隠し事はできない。
「……なんで、今そういうこと言うの?」
いけない。目頭が熱くなってきた。声の震えを聞き取ったユエンが僅かにこちらを振り向くのが見えたが、すぐにモニターに向き直る。今は、ユエンのその優しさが辛い。
「大事なことだよ。君が今から、ちゃんと戦えるように」
重ねられた手は、クリスを心まで包み込む。そのまま指先を掴んでゆっくりと揺さぶり、まるで子供をあやすように柳は微笑んだ。
「不純な動機なんかじゃないよ。クリスは一生懸命練習した。きっかけがなんだって、がんばったことは絶対、嘘やズルじゃない。それはクリスの強さになるんだよ」
柳は、今まで何度もこんな悩みを抱えては、それを自分の中で上手に消化してきたのだろう。
だからこんなに強いんだ。震えが収まり、彼の体温が自分と同じになる。柳はポケットからハンカチを取り出そうか迷っていたが、クリスが涙をこぼさずに踏みとどまったことを見てとると、そのまま立ち上がった。
「がんばろう!」
その言葉があまりにも普通で、思わず吹き出す。しかし今のクリスにとって、飲み込むのには一番やさしいフレーズだった。
「うん! がんばる!」
玲緒菜もまた、自分の役割を全うすることに集中する。目を閉じ、試合前の最後のイメージトレーニングを始めていた。彼女の仮想装甲はまるでマジシャンのように華やかで、小さなステッキからは時折、軽やかな光が散りばめられるのだ。
彼女の今回担うポジションの目的は、クリスを守りながら、敵の注意を引き、時には妨害することだ。ひとりの時とは違う。彼女にとっても新しい挑戦。
クリスは足が速い。体格で大きく劣る玲緒奈がクリスにぴったりとついてゴールゲートを潜るには、数々のアイテムを駆使して運動能力を底上げしなければならない。
ひとつ前のチームの試合が始まると、繭を介したあちらの世界で電子の風が選手を包む。アリーナの大画面には各チームの進行状況がリアルタイムで映し出され、観客からは時折歓声が上がっていた。
「次の次?」
「そうだな、調整進める」
流磨が自分の椅子に座ってユエンらと並んだ。
クリスは柳の指示に従い、瞬間的に加速し、先頭を切る。玲緒菜は後方から彼女を支え、敵の妨害に対応するためにステッキ・ブーツ・シルクハットを駆使して、場を制御する。そして相手より先に、ふたりでゴールゲートを潜る。
それが今回の試合のシナリオだ。
「準備運動しとけー」
「りょーかい~」
ネオトラバースは現実世界ではなく電脳世界で行われるため、肉体の準備運動は意味のない行為と言われがちだが、クリスの場合は違う。
「屈伸、前屈……」
脚に意識を集中させ、血を巡らせる感覚を馴染ませることで、電脳世界へのダイブ後のパフォーマンスが飛躍的に向上する。
それは練習と分析の末に判明したことだった。
エッグインクラウドはただのスポーツアリーナではない。
夢と野望が交錯する戦場であり、若きアスリートたちの未来をかけた舞台だった。
未来ノ島から来たチームはその中心にいる。彼らの挑戦は、ただのゲームでは終わらない。それは新たな始まりの予感を内に秘めていた。
公式戦の大型特別ヴィジュアル再生用高性能繭のプラグがドローンに自動接続する音が、未来ノ島学園のブース内で響き渡る。
エントリー完了を告げる信号が、今まさに始まろうとしている試合の緊張感を高めていた。その一角で、試合を終えたH・Iチームが装備をまとめていた。
「お疲れー」
「うーす、お疲れ!」
見知った背中たちに、クリスは僅かな安堵感を覚える。彼らの表情は晴れやかで、勝利の喜びを共有している様子だった。
「よう、東雲! 来たか!」
部の仲間たちが柳に声をかける。
「勝ったわよ! 高天原高校にね!」
別の声が続く。
「去年の雪辱晴らしたな~」と、サポート要員の三人の肩を叩きながら一緒にブースを後にする仲間たち。彼らの言葉は、クリスにも届いていた。
クリスは小さくガッツポーズをして、気合いを入れようとする。
「か、勝つぞ! よし!」
後ろから玲緒菜が同調してくれた。
「おー!」
柳は、大きなバッグから最新のデバイスやヘッドセットを取り出しながら、クリスの様子を見ている。その手際の良さからは、彼がこれまで何度も同様の準備を経験してきたことが伺えた。
目が合った瞬間、クリスは自分の緊張を隠しきれずに、「…だ、大丈夫!」と強がるが、柳はもうひと押しの励ましが必要と判断したようだ。
柳はクリスの前に突然歩み寄り、彼女の目の前で立ち止まった。
これがクリスの初めての公式戦。広大なエッグインクラウドと人々の熱気、アナウンス、ファンファーレの響きに、この場において唯一の初心者が、萎縮するなという方が無理な話であった。
その大きな体がクリスを見下ろした。クリスは内心で身構えていたが、柳はただ静かに彼女の目を見つめているだけだった。
クリスが耐えかねて目をそらそうとしたその瞬間、「……どう? まだ緊張してる?」と柳が小首をかしげ問いかける。
その声には柔らかな響きがあり、同時にクリスの心を落ち着かせようとする意図が感じられた。
クリスはその問いかけに少し驚いたが、柳の穏やかな表情を見て徐々に心が落ち着き始める。小さく頷き、返答した。
「うん、でも、大丈夫……ここに柳がいるから」
その言葉に柳はまた微笑み、肩を軽く叩いて励ましてくれた。
「心配しないで。僕たちがついてる。自分の速さを信じて、全力を出せばいい。必要な部分は僕たちがカバーするからね」
そんな柳の言葉に支えられ、クリスは再び自信を持って前を向く。試合開始の時間が迫る中、最後の準備に集中し始めた。
柳と玲緒菜、そしてユエンと流磨もまたふたりの成功を願いつつ、各自が担当するタスクに専念していった。
クリスタルと玲緒菜は繭のシートに座り、目を閉じて柳の声を待つ。
『───準備はいい?』
試合の舞台が待っている。
未来ノ島から陸続きに本土を渡り、内陸側に位置する巨大なバーチャルリアリティスポーツアリーナ「エッグインクラウド」が今日の戦場である。
全国高等学校・中学校ネオトラバース公式選手権大会の舞台となるこの場所は、青空の下、太陽の光を浴びて輝いていた。
未来ノ島学園の遠征ジャージを身に纏ったクリスらのチームJは、大勢の参加校で賑わう正面入口待機スペースに立ち止まり、内部からの入場可能の連絡を待っていた。
柳の傍らに浮いている遠征用ドローンは、彼の顔を見ながら待機している。
『もう少し待ってねぇ~! 現在行われている試合はチームD~! 現実物理換算にして8キロの優勢で~す! ワン!』
「……ふふ」
「シノって、結構かわいいものが好きだよな」
ユエンが薄く笑う。
「試合のほうに関心を向けてくださいよ、ユエンさん」
「そうだね……でも勝つよね、これ」
「結構ドライだなお前」
流磨は今まで通ってきたルートを腕時計型デバイスで見返した。
「未来ノ島は東京都未来ノ島区未来ノ島……同じ24区内の遠征っつっても、物理的には結構遠いよな」
流磨が言うと、周囲から軽い笑い声が漏れる。それは同校の生徒たちの共通認識だろう。あるあるネタだ。場合によっては宿泊になることさえある。
そして大きくなりすぎた東京都は建造物が複雑化しており、きっと都内の道をナビゲート無しに歩いて目的地まで到達できる人間は限られていることだろう。
参加校が一堂に会するこの大会は、夢と希望を胸に秘めた若者たちでごった返していた。
「あっ、クリスちゃん! テレビいるよ!」
玲緒菜が指を差す方向には、地方局のカメラが向けられている。彼女の声に反応して、クリスは小さく身を震わせる。
「れお、手加減してやれよ」
流磨が軽くたしなめる。
「ごめんね、クリスちゃん」
玲緒菜の声には申し訳なさと茶目っ気がにじみ出ていた。
「れおちゃん、リラックスしすぎ……」
エッグインクラウドの内部は、電子音と観客のざわめきで溢れている。
競技用の繭が整然と並べられた選手ブースは、緊張感で静まり返っていた。クリスと玲緒菜は、彼らのサポートチームである柳、ユエン、流磨と共に最後の準備を進める。
とはいえ、実際に電脳世界へのダイブを行うためにはただ集中して座ればいいクリスらと、サポートとして現実世界から様々な手を尽くす柳らでは、今は忙しさに差異がある。
男子陣の表情は真剣そのもので、各々が持つタブレットやモニターに映し出されたデータに目を凝らしていた。
「れお、座ってろ。俺ので見せるから」
「うん」
流磨が玲緒奈に、相手選手のデータが記された電子書類を見せる。概要データを浮かせたARを指で操り、続いてプレイ中の段取りについて打ち合わせが始まった。
最後に精神的支柱である流磨が鼓舞する。
「いいな、れお。練習と同じようにすればできる。いつもと同じ。うん、緊張もしてなさそうだな、お前」
「大丈夫だよ。何度もやったこと……それが今回はクリスちゃんのことも考えるってことになった。それだけ」
「よし、その調子だ。クリスを頼むぜ」
「まかせて」
「れおちゃん、すごいなぁ……」
玲緒奈は、この競技においては先輩だ。
クリスはネオトラバースについては、柳らが関わる競技程度の、他人事のような認識でいる期間があまりにも長すぎた。
いくら熱心な練習の日々と柳らの指導がついているとはいえ、初心者である自分がかえって玲緒奈の足を引っ張ることにならないかが、心配だった。
「流磨……」
「クリス、大丈夫か? ……シノのほうが良さそうだな、お前の場合。もう俺の冗談聞き飽きたろ?」
「また変なこと言う気なの?」
「おー、怖。やっぱシノじゃなきゃダメだな。おいシノ! 頼む」
クリスの手はわずかに震えていた。歩み寄ってきた柳が、優しく言い聞かせてくる。
「大丈夫だよ、クリス……君のスピードは天下一品」
クリスはその言葉に力を得て、小さく頷く。
「ん……」
柳が一生懸命にサポートをしてくれる。そして回復の後には、またあの白い衣装を纏って電脳世界で活躍できる。望んだ未来を作るために、こんなことで震えてなんていられない。
クリスは落ち着きと優しさを湛えた彼の瞳に焦点を合わせた。
「……やっと見てくれた」
「え……」
彼の手が、膝の上に置いたクリスの手に重なった。
思っていたよりもかなり自分は、緊張していたらしい。体温が特段高いわけでもないはずの柳の手が今は、熱く感じた。
「ねえ、クリス。僕は本当に嬉しかった。君がネオトラバースを始めるって言ってくれたとき」
動機は柳だ。
クリスは考えた末、彼の競技への情熱を維持するためにはこの方法が一番良いと結論した。それは柳に恋をしているからではない。
例えば自分がもしも男で、恋愛の対象としてみていないのであっても、クリスはやはりこの選択をしたのだろう。それくらいに、プロ選手としての未来を見失いそうになっていた柳の横顔は悲しく、見ていられなかった。
「もしかして、僕のためにっていう理由を後ろめたく思ってる?」
図星だった。クリスは一度治った震えが再び襲うのを感じる。柳に隠し事はできない。
「……なんで、今そういうこと言うの?」
いけない。目頭が熱くなってきた。声の震えを聞き取ったユエンが僅かにこちらを振り向くのが見えたが、すぐにモニターに向き直る。今は、ユエンのその優しさが辛い。
「大事なことだよ。君が今から、ちゃんと戦えるように」
重ねられた手は、クリスを心まで包み込む。そのまま指先を掴んでゆっくりと揺さぶり、まるで子供をあやすように柳は微笑んだ。
「不純な動機なんかじゃないよ。クリスは一生懸命練習した。きっかけがなんだって、がんばったことは絶対、嘘やズルじゃない。それはクリスの強さになるんだよ」
柳は、今まで何度もこんな悩みを抱えては、それを自分の中で上手に消化してきたのだろう。
だからこんなに強いんだ。震えが収まり、彼の体温が自分と同じになる。柳はポケットからハンカチを取り出そうか迷っていたが、クリスが涙をこぼさずに踏みとどまったことを見てとると、そのまま立ち上がった。
「がんばろう!」
その言葉があまりにも普通で、思わず吹き出す。しかし今のクリスにとって、飲み込むのには一番やさしいフレーズだった。
「うん! がんばる!」
玲緒菜もまた、自分の役割を全うすることに集中する。目を閉じ、試合前の最後のイメージトレーニングを始めていた。彼女の仮想装甲はまるでマジシャンのように華やかで、小さなステッキからは時折、軽やかな光が散りばめられるのだ。
彼女の今回担うポジションの目的は、クリスを守りながら、敵の注意を引き、時には妨害することだ。ひとりの時とは違う。彼女にとっても新しい挑戦。
クリスは足が速い。体格で大きく劣る玲緒奈がクリスにぴったりとついてゴールゲートを潜るには、数々のアイテムを駆使して運動能力を底上げしなければならない。
ひとつ前のチームの試合が始まると、繭を介したあちらの世界で電子の風が選手を包む。アリーナの大画面には各チームの進行状況がリアルタイムで映し出され、観客からは時折歓声が上がっていた。
「次の次?」
「そうだな、調整進める」
流磨が自分の椅子に座ってユエンらと並んだ。
クリスは柳の指示に従い、瞬間的に加速し、先頭を切る。玲緒菜は後方から彼女を支え、敵の妨害に対応するためにステッキ・ブーツ・シルクハットを駆使して、場を制御する。そして相手より先に、ふたりでゴールゲートを潜る。
それが今回の試合のシナリオだ。
「準備運動しとけー」
「りょーかい~」
ネオトラバースは現実世界ではなく電脳世界で行われるため、肉体の準備運動は意味のない行為と言われがちだが、クリスの場合は違う。
「屈伸、前屈……」
脚に意識を集中させ、血を巡らせる感覚を馴染ませることで、電脳世界へのダイブ後のパフォーマンスが飛躍的に向上する。
それは練習と分析の末に判明したことだった。
エッグインクラウドはただのスポーツアリーナではない。
夢と野望が交錯する戦場であり、若きアスリートたちの未来をかけた舞台だった。
未来ノ島から来たチームはその中心にいる。彼らの挑戦は、ただのゲームでは終わらない。それは新たな始まりの予感を内に秘めていた。
公式戦の大型特別ヴィジュアル再生用高性能繭のプラグがドローンに自動接続する音が、未来ノ島学園のブース内で響き渡る。
エントリー完了を告げる信号が、今まさに始まろうとしている試合の緊張感を高めていた。その一角で、試合を終えたH・Iチームが装備をまとめていた。
「お疲れー」
「うーす、お疲れ!」
見知った背中たちに、クリスは僅かな安堵感を覚える。彼らの表情は晴れやかで、勝利の喜びを共有している様子だった。
「よう、東雲! 来たか!」
部の仲間たちが柳に声をかける。
「勝ったわよ! 高天原高校にね!」
別の声が続く。
「去年の雪辱晴らしたな~」と、サポート要員の三人の肩を叩きながら一緒にブースを後にする仲間たち。彼らの言葉は、クリスにも届いていた。
クリスは小さくガッツポーズをして、気合いを入れようとする。
「か、勝つぞ! よし!」
後ろから玲緒菜が同調してくれた。
「おー!」
柳は、大きなバッグから最新のデバイスやヘッドセットを取り出しながら、クリスの様子を見ている。その手際の良さからは、彼がこれまで何度も同様の準備を経験してきたことが伺えた。
目が合った瞬間、クリスは自分の緊張を隠しきれずに、「…だ、大丈夫!」と強がるが、柳はもうひと押しの励ましが必要と判断したようだ。
柳はクリスの前に突然歩み寄り、彼女の目の前で立ち止まった。
これがクリスの初めての公式戦。広大なエッグインクラウドと人々の熱気、アナウンス、ファンファーレの響きに、この場において唯一の初心者が、萎縮するなという方が無理な話であった。
その大きな体がクリスを見下ろした。クリスは内心で身構えていたが、柳はただ静かに彼女の目を見つめているだけだった。
クリスが耐えかねて目をそらそうとしたその瞬間、「……どう? まだ緊張してる?」と柳が小首をかしげ問いかける。
その声には柔らかな響きがあり、同時にクリスの心を落ち着かせようとする意図が感じられた。
クリスはその問いかけに少し驚いたが、柳の穏やかな表情を見て徐々に心が落ち着き始める。小さく頷き、返答した。
「うん、でも、大丈夫……ここに柳がいるから」
その言葉に柳はまた微笑み、肩を軽く叩いて励ましてくれた。
「心配しないで。僕たちがついてる。自分の速さを信じて、全力を出せばいい。必要な部分は僕たちがカバーするからね」
そんな柳の言葉に支えられ、クリスは再び自信を持って前を向く。試合開始の時間が迫る中、最後の準備に集中し始めた。
柳と玲緒菜、そしてユエンと流磨もまたふたりの成功を願いつつ、各自が担当するタスクに専念していった。
クリスタルと玲緒菜は繭のシートに座り、目を閉じて柳の声を待つ。
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