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壊されたヒーロー
桐崎家の夜 二人だけの安らぎを分け合う
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クリスがリビングに戻ると、父であるヴィンセントは既にソファに腰掛けていた。
「おかえり、パパ!」
「ああ、クリス。サファイアから話は聞いてるよ。よく連れて帰ってきたね」
ヴィンセントは力強くクリスを抱きしめ、続いて歩み寄ってきた柳に対しては、強い接触を避けて様子を見た。彼が今言葉を発しないことを知ると、軽く二の腕に触れ、可否を問う。
柳は、無言の問いに答えることができなかった。心の奥に重く滞留するものが、口から出るはずの言葉をわからなくさせているようだ。
部屋はやや緊張しているものの、その空気は家族の絆によって温かみを帯びる。そう柳が、感じてくれれば良い。
「柊と夕子さんは、海外出張で不在だったね。君が倒れたのを聞いて、早く帰ってこられるように尽力しているらしいが……」
両親の庇護が望めない今、柳のケアはクリスたちの肩にかかっていた。東雲家の父と母の多忙さは知っている。無理を言える状況ではないことも。
「帰ってくる前に、こんなことになるなんて」
クリスはキッチンへと向かい、医師に顧みられず喉がカラカラの柳に水を渡そうと、冷蔵庫を開けた。
殆ど引きずるようにして帰ってきたため、体調や気分を詳しく把握できていない。服装は患者の着用する上下揃いの寝衣。クリスの着て行ったジャケットを肩からかけてはいるが、サイズが違うせいか大して隠れていなかった。
しかし、繭に入ることを強制されていたあの状況。入院からそれほど日たっていないにもかかわらず、柳の顔色はひどい。
酷い仕打ち────拷問と言える程のことをされたのかもしれないと、思う。
怪我がないかどうかだけ、後で父や兄に確認してもらおう。本人は大丈夫と言うが、今は信用できない返答だった。
そうだ、憔悴しきっている彼は今、キャップを開くことができるかもわからない。そう思い立って妹の使うプラスチックコップにそれを注いだ。
妹のジェムは、兄であるマックスが外でみてくれている。母は丁度、夕食の買い物をすると言って外出していた。クリスから病院での話を聞いていたヴィンセントは、柳への深い共感と優しさを青い目に宿していた。
「柳くん、クリスから話は聞いたよ……録音はできなかったんだね。それならば、何よりも君自身のケアを優先するべきだ」
ヴィンセントの深く低い声には、頼られる者としての安心感を与えるような響きがある。柳が顔をあげられずにいると、柳の肩を寄せ、大きな腕で包み込むようにしてくれる。
父のこの行動は、この家が柳を受け入れ、苦しみを共有しようとしていることの明確な証だ。
この優しさに触れた柳は深い傷があるにも関わらず、わずかに笑顔を作った。
ああ、彼の痛みは、一人で抱えるにはあまりにも重い。傷は過去の苦痛の証でありながらも、家族によって新たな愛と理解を見出す機会を提供していた。
クリスはその光景を見て微笑む。家族の支えがあれば、柳が再び笑顔を取り戻し、立ち直ることができると信じていた。
「……ママが帰ってきたら、一緒にごはんを食べようね」
柳の痛みに寄り添い、彼が再び希望を見出すことを願う。
「警察や弁護士に提出する証拠がないのなら、今日は穏やかな時間にしよう」
ヴィンセントの提案にクリスはうなずき、柳の手を握りながら力強く言葉をかけた。
「大丈夫、柳。ここにいれば安全だから……」
柳は暫く逡巡した後、ゆっくりと頷いた。
ヴィンセントが立ち上がり、そのまま楽にしているようにと柳に促す。
クリスは帰ってきた兄と妹を出迎え、妹のジェムは一通りのおしゃべりを終えて満足すると、柳の姿を目にしてソファに飛び込んだ。
「やなぎくん! あそびにきたの?」
「…………え……と」
柳は小さなジェムになんとか応じようとしていたが、やはりうまく言葉が出ないようだった。
「そうだよジェム。今日は柳はお泊りだ」
マックスが柳のかわりに返答する。
「……おとまり!」
ジェムはまだ小さい。柳の受けた仕打ちを説明すれば、きっと怖がらせてしまうだろう。それに難しすぎる。あとで彼女にもわかるように説明しなければ。
マックスはジェムの隣に座り、クリスは柳を挟んで座る。ジェムは柳に抱っこを強請ったが、柳は微笑みながら応じてくれた。マックスにクリスにジェム。
柳と血は繋がらないが、きょうだいのような近しい味方が身を寄せ合う。この暫くの戯れで、柳の心の波は穏やかに落ち着きを取り戻していくようだった。
「柳くん、今夜はどこで寝るか決めたかい?」
ヴィンセントが穏やかに尋ねる。高層マンションのフロアを丸ごと使うこの家族のプライベートエリアには、ゲストルームが複数ある。ヴィンセントは柳をゲストルームに一人で寝かせることにためらいを感じていた。
直面している心の傷を考えれば、家族の暖かさを感じられる場所で眠ることが最善だと考えているらしい。
「柳くん、もしよかったらリビングで寝てもいい。ここなら家族がいつでもそばにいるからね。もちろん、プライベートが必要ならゲストルームを用意する。君が最も安心できる場所で休んでほしい」
ヴィンセントの提案は、配慮と柳への思いやりから来ていた。クリスとマックス、ジェムもこの提案に賛同する。
「ジェムもやなぎくんとねる!」
「ジェムはお部屋があるでしょ~」
「けちぃ」
「けちじゃないだろ!」
「ただいま。あら、柳くん! 相変わらずイケメンね」
サファイアが帰宅すると、家の中に新たな温かさが加わった。すぐに柳に気づき、家族のように迎える準備を始めた。
「柳くん、今日は皆で晩ごはんを食べましょ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
食卓を囲むことは、ただの日常の行為であると同時に、大切な絆を深める機会でもある。食卓についたサファイアも柳に対して、無理に元気を出すように強いることはなかった。
彼女の目には、柳が現在抱えている苦しみと戦っている姿がはっきりと映っていた。そのため配慮はあくまで寄り添い、共に時間を過ごすことに重点を置いている。
晩ごはんの準備が進む中、クリスと家族はキッチンとリビングを行き来しながら、明るい話題で彼を和ませようと努めた。
サファイアは柳を心から気遣い、彼が心身ともに癒されるようなメニューを考えていた。
鶏肉と野菜のヘルシー煮込み、季節の野菜サラダ、豆腐とわかめの味噌汁、白米と五穀米のブレンドごはん、焼き鮭、フルーツ盛り合わせ。
思いやりが込められた料理は見た目にも美しく、香りも心を落ち着かせてくれた。しかし、まだ完全に回復していない柳は、望むほど多くの食事を受け入れられる体調ではないようだ。
多く食べようと努力するが思うように進まず、それに気づいた柳は申し訳無さそうに頭を下げてしまった。
「すみません、こんなに美味しそうなのに、あまり食べられなくて……」
サファイアはそんな反応を見て、優しい笑顔で答える。
「柳くん、気にしないで。体調が万全じゃない時は無理をしなくていいの。少しでも食べられたらそれで十分。また食べたくなったらいつでも言ってね」
「大丈夫だよ、柳。無理しないでね」
続いてクリスが励まし、マックスとジェムも同調する。
「ジェムもきのう、サラダのこしちゃったの」
「ジェムのはピーマンが嫌いだからだろ。好き嫌いとは別なんだ」
「んむー」
マックスはジェムの口元についた煮込みの汁を拭いてやった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
リビングで家族が静かに過ごしている中、クリスは柳の側に寄り添うように座っていた。
廊下の奥からジェムが小さな足で柳の側まで歩いてくる。サファイアから、柳の不調についての説明を言い聞かせられたらしい。クリスに目配せをしてきた。
「やなぎくん、今日、つかれちゃったんだねぇ」
ジェムの声は柔らかく、柳に対する深い共感を表していた。
「……ん……」
柳はまた鈍い返事だ。幼児を気遣ってのことで、尚更今は難しいだろう。
「そうなんだ。だから休まなくちゃ。あと、うれしいことが必要かな」
クリスが付け加えると首を傾げ、ジェムは少し考えた後で提案する。
「じゃあー、ジェムが、やなぎくんにこもりうたうたってあげようか?」
柳はその提案に驚きながらも、無垢な優しさに答えようとする。できる限りの笑みを浮かべ、静かに頷いていた。
「うん、……嬉しいな…………ありがとう、ジェム」
「ジェムはお歌が好きなの。聞いてあげてね、柳」
「えへー」
ジェムは得意げに微笑み、柳のそばに腰を下ろした。
そしてゆっくりと、心を込めて子守歌を歌い始めた。音程は子供らしくあちこちに逸れていくが、柳はそっと耳を傾けている。
「……すごく心地よかったよ」
「ジェムもうれしい!」
「よかったねえ、ジェム!」
クリスが褒めながら頭を撫でると、ジェムは満足そうに笑った。そして小さな手で、柳の右手を包もうとしてくれる。
柳はその混じり気のない優しさに、クリスとその家族の明るい受容に、やっと数日ぶりかのはっきりとした笑顔を浮かべることができた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
柳が風呂から上がったとき、清潔感あふれるその姿にクリスは心を奪われる。湯上がりの彼はいつも以上に魅力的に見え、クリスの心はドキドキと高鳴った。
「あ、柳、もう上がったんだ。いい香りだね」
クリスは無意識のうちに言葉を漏らすが、その瞬間、自分の言葉に顔を赤らめる。
「え?!」
自分の発言だというのに、随分と突飛な言動をしてしまった。柳は、そんなクリスの反応に少し笑う。
「ありがとう、クリス。桐崎家のお風呂、懐かしいな……気持ちよかったよ」
そんな中、部屋にマックスが乱入してきた。
彼はすぐにクリスの顔の赤みと、二人の間の微妙な雰囲気を察し、「おっと、なんだかいい雰囲気じゃないか。クリス、柳のことどう思ってるんだ?」とからかう。
クリスはマックスの言葉に驚き、慌てふためいた。
「ま、マックス! そんなこと、そんなこと?! そんなことないから!」
柳もこの突然の展開に少し戸惑いつつも、マックスの軽い雰囲気に助けられ、笑いをこらえながら返した。
「マックス……からかわないで」
マックスはクリスの反応を楽しみながらも、ニコリと返した。
「冗談だよ、冗談。でも、柳がここにいると、クリスがいつも以上に嬉しそうだからな。からかいがいもあるってもんだろ」
「マキシマムアホアホマックス」
「新語流行語大賞狙ってない? よくも毎日そんな罵倒の言葉が編み出せるな」
そして彼は柳に向かって親しみを込め、頭を撫でる。
「うん、君がここにいると、家がさらに明るくなる。ゆっくり休んで」
和やかな雰囲気が流れる中に、風呂を終えてカラフルなパジャマに着替えたジェムがまたリビングに飛び込んできた。
「やなぎくん、クリスちゃん、なにしてるのー?」
そして好奇心いっぱいに二人を見つめた。マックスのからかいを聞いていた彼女は、4歳の子供らしい直感でクリスと柳の間に何か特別なものを感じ取っているらしい。その大きな目はきらきらと輝いていた。
「クリスちゃんとやなぎくん、けっこんするの? ジェム、はなよめさんのお手伝いする!」
その言葉にリビングは一瞬静まり返った。
クリスはジェムの発言に顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「ジェム! そんな…急に何言い出すの!」
一方の柳も、予期せぬジェムの質問に微笑みながら、どう返答していいかわからない様子だ。マックスはこの状況を見て、大笑いを始めた。
「ジェム、そういうことを言うんだね。おませさんだなぁ!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
深夜、家を包む沈黙は、まるで時の流れをも凍らせるかのように静謐だった。
静けさの中、クリスはわずかな渇きを感じ、柔らかな布団から身を起こした。足下に広がる冷たい床は夜の空気と同じく、肌に触れる度に寂しさをより一層際立たせる。
廊下を進む足音は重厚な夜の帳の中で響き渡る。しかし、リビングの暖かなランプがまだ灯っていることに気付いた。その灯りは灯台の光のように、リビングまでの道筋を優しく導いた。
リビングに足を踏み入れた彼女の目に映るのは、窓際のソファに腰掛け、夜風に思いを馳せるように空を見上げる柳の姿だった。
「柳……?」
柳は驚きつつも、「クリス」と呼び返す。
「眠れないの?」
「…………なんとなくね。でも、ここの静けさが気持ちよくて……気分が悪いとかじゃないから、大丈夫」
クリスは、隣に座ってもいいか確認をした後、そっと腰を下ろした。月は天高く飾られ、このソファに朧気な光を届けている。星々が散り、周りじゅうで空を飾っていた。
「夜って、色々考えちゃうよね」
「……うん……」
その返答から、クリスは柳の抱えてきた数多くの眠れない夜を想像し、自身の心も重くなる。あの事件がなければと、あのひとに出会わなければと、何度思ったことだろう。
「柳、私なにもできないかもしれないけど、いつでも聞くから……」
考えていたよりも随分と小さな声になってしまった。もっと力強く言えたらよかったのに。それなのに柳は、クリスタルの言葉を受け止めながら、目を閉じて身を委ねていた。
「……ありがと。でも、クリスがいてくれるだけでいいんだよ。……またここに帰ってこられて、本当に良かった」
「……ほんと?」
クリスは、柳の表情を確認する。連れ出した瞬間の戸惑いと恐怖の表情は消え失せ、柳は穏やかに目を開けてクリスの方を見ていた。
「病院から連れ出してくれて、ありがとう」
その言葉には、彼の魂の深淵からの安堵と深い感謝が込められていたようだった。クリスは胸がきつく締められたかのように錯覚する。
連れ出した。でも、連れ出しただけだ。深い傷に触れられはしない。その流れる血を、クリスタルには止められない。止められないのだ。少なくとも今は。
「……もう少し一緒にいてもいい? 眠くなったら、二人で寝よ……」
クリスの提案に、柳は頷いた。時間が解決してくれるのだろうか。もしもそうなら、この時間が回復のための長い時間の、その僅かでも足しになればいいのに。
この夜は、二人にとってかけがえのない時間となった。互いの存在がもたらす安らぎと温もりに包まれ、深い絆で結ばれていることを確認し合う。夜の帳の下、二人の寝間着が静かに光り輝く。その柔らかな光は、二人の間に流れる甘く深い感情を照らし出していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝の光が窓から優しく差し込むリビングにて、ヴィンセントは静かな足取りで部屋に入ると、ソファに寄り添う形で眠るクリスと柳の姿を目にした。
朝日が二人の寝顔を照らし出し、その穏やかな光景に微笑を浮かべる。
彼らの間に流れる無言の絆と昨夜共有した時間の深さが、静かな朝の空気に溶け込んでいた。
クリスは白いナイトガウンを纏い、柳はマックスから借りた大きめのブルーのパジャマに身を包んでいた。
二人の寝姿が朝の穏やかな光と調和している。ヴィンセントはその場でしばし二人を見守り、深い愛情と保護の感情を胸に秘める。
やがて、柳がゆっくりと目を覚ました。
彼の目に映る最初の光景は、朝日を浴びるクリスの穏やかな寝顔と、そんな二人を見つめるヴィンセントの笑顔だった。
「おはよう、柳くん。よく眠れたかい?」
ヴィンセントは問いかける。
柳は少し戸惑いながらも、問いに対して答えようとした。そして、クリスがまだ眠っていることに気を使いながら、静かに身体を起こす。
「おはようございます。はい……とても心地よかったです」
クリスはその僅かな動きに反応し、ゆっくりと目を開けた。
「……ん……おはよう、パパ。柳……」
彼女は微睡みから覚めると昨夜の記憶が蘇ったようで、柳に優しい微笑を向けた。
ヴィンセントは二人ともが目覚めたことを確認すると、キッチンに向かう。
「朝食はもうすぐだ。二人とも、ゆっくり準備してきなさい」
柳は心を準備する。
朝日が彼らを祝福するように、リビングを温かな光で満たしていった。
「おかえり、パパ!」
「ああ、クリス。サファイアから話は聞いてるよ。よく連れて帰ってきたね」
ヴィンセントは力強くクリスを抱きしめ、続いて歩み寄ってきた柳に対しては、強い接触を避けて様子を見た。彼が今言葉を発しないことを知ると、軽く二の腕に触れ、可否を問う。
柳は、無言の問いに答えることができなかった。心の奥に重く滞留するものが、口から出るはずの言葉をわからなくさせているようだ。
部屋はやや緊張しているものの、その空気は家族の絆によって温かみを帯びる。そう柳が、感じてくれれば良い。
「柊と夕子さんは、海外出張で不在だったね。君が倒れたのを聞いて、早く帰ってこられるように尽力しているらしいが……」
両親の庇護が望めない今、柳のケアはクリスたちの肩にかかっていた。東雲家の父と母の多忙さは知っている。無理を言える状況ではないことも。
「帰ってくる前に、こんなことになるなんて」
クリスはキッチンへと向かい、医師に顧みられず喉がカラカラの柳に水を渡そうと、冷蔵庫を開けた。
殆ど引きずるようにして帰ってきたため、体調や気分を詳しく把握できていない。服装は患者の着用する上下揃いの寝衣。クリスの着て行ったジャケットを肩からかけてはいるが、サイズが違うせいか大して隠れていなかった。
しかし、繭に入ることを強制されていたあの状況。入院からそれほど日たっていないにもかかわらず、柳の顔色はひどい。
酷い仕打ち────拷問と言える程のことをされたのかもしれないと、思う。
怪我がないかどうかだけ、後で父や兄に確認してもらおう。本人は大丈夫と言うが、今は信用できない返答だった。
そうだ、憔悴しきっている彼は今、キャップを開くことができるかもわからない。そう思い立って妹の使うプラスチックコップにそれを注いだ。
妹のジェムは、兄であるマックスが外でみてくれている。母は丁度、夕食の買い物をすると言って外出していた。クリスから病院での話を聞いていたヴィンセントは、柳への深い共感と優しさを青い目に宿していた。
「柳くん、クリスから話は聞いたよ……録音はできなかったんだね。それならば、何よりも君自身のケアを優先するべきだ」
ヴィンセントの深く低い声には、頼られる者としての安心感を与えるような響きがある。柳が顔をあげられずにいると、柳の肩を寄せ、大きな腕で包み込むようにしてくれる。
父のこの行動は、この家が柳を受け入れ、苦しみを共有しようとしていることの明確な証だ。
この優しさに触れた柳は深い傷があるにも関わらず、わずかに笑顔を作った。
ああ、彼の痛みは、一人で抱えるにはあまりにも重い。傷は過去の苦痛の証でありながらも、家族によって新たな愛と理解を見出す機会を提供していた。
クリスはその光景を見て微笑む。家族の支えがあれば、柳が再び笑顔を取り戻し、立ち直ることができると信じていた。
「……ママが帰ってきたら、一緒にごはんを食べようね」
柳の痛みに寄り添い、彼が再び希望を見出すことを願う。
「警察や弁護士に提出する証拠がないのなら、今日は穏やかな時間にしよう」
ヴィンセントの提案にクリスはうなずき、柳の手を握りながら力強く言葉をかけた。
「大丈夫、柳。ここにいれば安全だから……」
柳は暫く逡巡した後、ゆっくりと頷いた。
ヴィンセントが立ち上がり、そのまま楽にしているようにと柳に促す。
クリスは帰ってきた兄と妹を出迎え、妹のジェムは一通りのおしゃべりを終えて満足すると、柳の姿を目にしてソファに飛び込んだ。
「やなぎくん! あそびにきたの?」
「…………え……と」
柳は小さなジェムになんとか応じようとしていたが、やはりうまく言葉が出ないようだった。
「そうだよジェム。今日は柳はお泊りだ」
マックスが柳のかわりに返答する。
「……おとまり!」
ジェムはまだ小さい。柳の受けた仕打ちを説明すれば、きっと怖がらせてしまうだろう。それに難しすぎる。あとで彼女にもわかるように説明しなければ。
マックスはジェムの隣に座り、クリスは柳を挟んで座る。ジェムは柳に抱っこを強請ったが、柳は微笑みながら応じてくれた。マックスにクリスにジェム。
柳と血は繋がらないが、きょうだいのような近しい味方が身を寄せ合う。この暫くの戯れで、柳の心の波は穏やかに落ち着きを取り戻していくようだった。
「柳くん、今夜はどこで寝るか決めたかい?」
ヴィンセントが穏やかに尋ねる。高層マンションのフロアを丸ごと使うこの家族のプライベートエリアには、ゲストルームが複数ある。ヴィンセントは柳をゲストルームに一人で寝かせることにためらいを感じていた。
直面している心の傷を考えれば、家族の暖かさを感じられる場所で眠ることが最善だと考えているらしい。
「柳くん、もしよかったらリビングで寝てもいい。ここなら家族がいつでもそばにいるからね。もちろん、プライベートが必要ならゲストルームを用意する。君が最も安心できる場所で休んでほしい」
ヴィンセントの提案は、配慮と柳への思いやりから来ていた。クリスとマックス、ジェムもこの提案に賛同する。
「ジェムもやなぎくんとねる!」
「ジェムはお部屋があるでしょ~」
「けちぃ」
「けちじゃないだろ!」
「ただいま。あら、柳くん! 相変わらずイケメンね」
サファイアが帰宅すると、家の中に新たな温かさが加わった。すぐに柳に気づき、家族のように迎える準備を始めた。
「柳くん、今日は皆で晩ごはんを食べましょ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
食卓を囲むことは、ただの日常の行為であると同時に、大切な絆を深める機会でもある。食卓についたサファイアも柳に対して、無理に元気を出すように強いることはなかった。
彼女の目には、柳が現在抱えている苦しみと戦っている姿がはっきりと映っていた。そのため配慮はあくまで寄り添い、共に時間を過ごすことに重点を置いている。
晩ごはんの準備が進む中、クリスと家族はキッチンとリビングを行き来しながら、明るい話題で彼を和ませようと努めた。
サファイアは柳を心から気遣い、彼が心身ともに癒されるようなメニューを考えていた。
鶏肉と野菜のヘルシー煮込み、季節の野菜サラダ、豆腐とわかめの味噌汁、白米と五穀米のブレンドごはん、焼き鮭、フルーツ盛り合わせ。
思いやりが込められた料理は見た目にも美しく、香りも心を落ち着かせてくれた。しかし、まだ完全に回復していない柳は、望むほど多くの食事を受け入れられる体調ではないようだ。
多く食べようと努力するが思うように進まず、それに気づいた柳は申し訳無さそうに頭を下げてしまった。
「すみません、こんなに美味しそうなのに、あまり食べられなくて……」
サファイアはそんな反応を見て、優しい笑顔で答える。
「柳くん、気にしないで。体調が万全じゃない時は無理をしなくていいの。少しでも食べられたらそれで十分。また食べたくなったらいつでも言ってね」
「大丈夫だよ、柳。無理しないでね」
続いてクリスが励まし、マックスとジェムも同調する。
「ジェムもきのう、サラダのこしちゃったの」
「ジェムのはピーマンが嫌いだからだろ。好き嫌いとは別なんだ」
「んむー」
マックスはジェムの口元についた煮込みの汁を拭いてやった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
リビングで家族が静かに過ごしている中、クリスは柳の側に寄り添うように座っていた。
廊下の奥からジェムが小さな足で柳の側まで歩いてくる。サファイアから、柳の不調についての説明を言い聞かせられたらしい。クリスに目配せをしてきた。
「やなぎくん、今日、つかれちゃったんだねぇ」
ジェムの声は柔らかく、柳に対する深い共感を表していた。
「……ん……」
柳はまた鈍い返事だ。幼児を気遣ってのことで、尚更今は難しいだろう。
「そうなんだ。だから休まなくちゃ。あと、うれしいことが必要かな」
クリスが付け加えると首を傾げ、ジェムは少し考えた後で提案する。
「じゃあー、ジェムが、やなぎくんにこもりうたうたってあげようか?」
柳はその提案に驚きながらも、無垢な優しさに答えようとする。できる限りの笑みを浮かべ、静かに頷いていた。
「うん、……嬉しいな…………ありがとう、ジェム」
「ジェムはお歌が好きなの。聞いてあげてね、柳」
「えへー」
ジェムは得意げに微笑み、柳のそばに腰を下ろした。
そしてゆっくりと、心を込めて子守歌を歌い始めた。音程は子供らしくあちこちに逸れていくが、柳はそっと耳を傾けている。
「……すごく心地よかったよ」
「ジェムもうれしい!」
「よかったねえ、ジェム!」
クリスが褒めながら頭を撫でると、ジェムは満足そうに笑った。そして小さな手で、柳の右手を包もうとしてくれる。
柳はその混じり気のない優しさに、クリスとその家族の明るい受容に、やっと数日ぶりかのはっきりとした笑顔を浮かべることができた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
柳が風呂から上がったとき、清潔感あふれるその姿にクリスは心を奪われる。湯上がりの彼はいつも以上に魅力的に見え、クリスの心はドキドキと高鳴った。
「あ、柳、もう上がったんだ。いい香りだね」
クリスは無意識のうちに言葉を漏らすが、その瞬間、自分の言葉に顔を赤らめる。
「え?!」
自分の発言だというのに、随分と突飛な言動をしてしまった。柳は、そんなクリスの反応に少し笑う。
「ありがとう、クリス。桐崎家のお風呂、懐かしいな……気持ちよかったよ」
そんな中、部屋にマックスが乱入してきた。
彼はすぐにクリスの顔の赤みと、二人の間の微妙な雰囲気を察し、「おっと、なんだかいい雰囲気じゃないか。クリス、柳のことどう思ってるんだ?」とからかう。
クリスはマックスの言葉に驚き、慌てふためいた。
「ま、マックス! そんなこと、そんなこと?! そんなことないから!」
柳もこの突然の展開に少し戸惑いつつも、マックスの軽い雰囲気に助けられ、笑いをこらえながら返した。
「マックス……からかわないで」
マックスはクリスの反応を楽しみながらも、ニコリと返した。
「冗談だよ、冗談。でも、柳がここにいると、クリスがいつも以上に嬉しそうだからな。からかいがいもあるってもんだろ」
「マキシマムアホアホマックス」
「新語流行語大賞狙ってない? よくも毎日そんな罵倒の言葉が編み出せるな」
そして彼は柳に向かって親しみを込め、頭を撫でる。
「うん、君がここにいると、家がさらに明るくなる。ゆっくり休んで」
和やかな雰囲気が流れる中に、風呂を終えてカラフルなパジャマに着替えたジェムがまたリビングに飛び込んできた。
「やなぎくん、クリスちゃん、なにしてるのー?」
そして好奇心いっぱいに二人を見つめた。マックスのからかいを聞いていた彼女は、4歳の子供らしい直感でクリスと柳の間に何か特別なものを感じ取っているらしい。その大きな目はきらきらと輝いていた。
「クリスちゃんとやなぎくん、けっこんするの? ジェム、はなよめさんのお手伝いする!」
その言葉にリビングは一瞬静まり返った。
クリスはジェムの発言に顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「ジェム! そんな…急に何言い出すの!」
一方の柳も、予期せぬジェムの質問に微笑みながら、どう返答していいかわからない様子だ。マックスはこの状況を見て、大笑いを始めた。
「ジェム、そういうことを言うんだね。おませさんだなぁ!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
深夜、家を包む沈黙は、まるで時の流れをも凍らせるかのように静謐だった。
静けさの中、クリスはわずかな渇きを感じ、柔らかな布団から身を起こした。足下に広がる冷たい床は夜の空気と同じく、肌に触れる度に寂しさをより一層際立たせる。
廊下を進む足音は重厚な夜の帳の中で響き渡る。しかし、リビングの暖かなランプがまだ灯っていることに気付いた。その灯りは灯台の光のように、リビングまでの道筋を優しく導いた。
リビングに足を踏み入れた彼女の目に映るのは、窓際のソファに腰掛け、夜風に思いを馳せるように空を見上げる柳の姿だった。
「柳……?」
柳は驚きつつも、「クリス」と呼び返す。
「眠れないの?」
「…………なんとなくね。でも、ここの静けさが気持ちよくて……気分が悪いとかじゃないから、大丈夫」
クリスは、隣に座ってもいいか確認をした後、そっと腰を下ろした。月は天高く飾られ、このソファに朧気な光を届けている。星々が散り、周りじゅうで空を飾っていた。
「夜って、色々考えちゃうよね」
「……うん……」
その返答から、クリスは柳の抱えてきた数多くの眠れない夜を想像し、自身の心も重くなる。あの事件がなければと、あのひとに出会わなければと、何度思ったことだろう。
「柳、私なにもできないかもしれないけど、いつでも聞くから……」
考えていたよりも随分と小さな声になってしまった。もっと力強く言えたらよかったのに。それなのに柳は、クリスタルの言葉を受け止めながら、目を閉じて身を委ねていた。
「……ありがと。でも、クリスがいてくれるだけでいいんだよ。……またここに帰ってこられて、本当に良かった」
「……ほんと?」
クリスは、柳の表情を確認する。連れ出した瞬間の戸惑いと恐怖の表情は消え失せ、柳は穏やかに目を開けてクリスの方を見ていた。
「病院から連れ出してくれて、ありがとう」
その言葉には、彼の魂の深淵からの安堵と深い感謝が込められていたようだった。クリスは胸がきつく締められたかのように錯覚する。
連れ出した。でも、連れ出しただけだ。深い傷に触れられはしない。その流れる血を、クリスタルには止められない。止められないのだ。少なくとも今は。
「……もう少し一緒にいてもいい? 眠くなったら、二人で寝よ……」
クリスの提案に、柳は頷いた。時間が解決してくれるのだろうか。もしもそうなら、この時間が回復のための長い時間の、その僅かでも足しになればいいのに。
この夜は、二人にとってかけがえのない時間となった。互いの存在がもたらす安らぎと温もりに包まれ、深い絆で結ばれていることを確認し合う。夜の帳の下、二人の寝間着が静かに光り輝く。その柔らかな光は、二人の間に流れる甘く深い感情を照らし出していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝の光が窓から優しく差し込むリビングにて、ヴィンセントは静かな足取りで部屋に入ると、ソファに寄り添う形で眠るクリスと柳の姿を目にした。
朝日が二人の寝顔を照らし出し、その穏やかな光景に微笑を浮かべる。
彼らの間に流れる無言の絆と昨夜共有した時間の深さが、静かな朝の空気に溶け込んでいた。
クリスは白いナイトガウンを纏い、柳はマックスから借りた大きめのブルーのパジャマに身を包んでいた。
二人の寝姿が朝の穏やかな光と調和している。ヴィンセントはその場でしばし二人を見守り、深い愛情と保護の感情を胸に秘める。
やがて、柳がゆっくりと目を覚ました。
彼の目に映る最初の光景は、朝日を浴びるクリスの穏やかな寝顔と、そんな二人を見つめるヴィンセントの笑顔だった。
「おはよう、柳くん。よく眠れたかい?」
ヴィンセントは問いかける。
柳は少し戸惑いながらも、問いに対して答えようとした。そして、クリスがまだ眠っていることに気を使いながら、静かに身体を起こす。
「おはようございます。はい……とても心地よかったです」
クリスはその僅かな動きに反応し、ゆっくりと目を開けた。
「……ん……おはよう、パパ。柳……」
彼女は微睡みから覚めると昨夜の記憶が蘇ったようで、柳に優しい微笑を向けた。
ヴィンセントは二人ともが目覚めたことを確認すると、キッチンに向かう。
「朝食はもうすぐだ。二人とも、ゆっくり準備してきなさい」
柳は心を準備する。
朝日が彼らを祝福するように、リビングを温かな光で満たしていった。
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