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秘密

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「お、おね、がい……わた、しの、私、の……血を、すっ、て……美汪」

 穏花がその名を呼び終えた刹那、急に髪が解放され、楽になった。
 それと同時に、美汪が姿勢を低くし、昨日吸血したのとは反対側、右の首筋に牙を立てた。

 ――来るっ……!

 そう覚悟した穏花は反射的に目を強く瞑った。
 首筋に僅かな痛みが走る。
 しかし、こんなものではない。
 ここからもっと、さらに、言葉では形容し難いほどの激痛が訪れるはずだと、穏花は恐怖に慄き、全身を震わせながらその時を待った。

 ――が、いつまで経ってもその衝撃はやって来ず、少し落ち着きを取り戻した時だった。
 
 ……あ、また、だ。

 穏花の鼻腔いっぱいに広がる、甘く、痺れるような、薔薇の香り――。

 やがてその匂いが遠ざかるとともに、少しの痛みさえ消えていったのである。

 不思議に感じた穏花は、美汪の様子を窺うように徐々に瞼を持ち上げた。
 すると、人の姿に戻った美汪がすぐ目に入る。彼は穏花から手を離し、整った姿勢で立っていた。
 唇についた血液を親指でなぞり、こぼすまいと舌で絡め取るその仕草は、穏花を釘付けにするには十分であった。

「……こ、これで、おしまい……?」
「何、もっと痛くしてほしかったの?」
「いいいええ! 痛くない方がいい、です……!」
「僕が吸血族だということを誰にも話していないようだからね。君にしては上出来だ、ご褒美だよ」

 それはつまり、痛くないように吸血も可能、だという証明でもあった。
 なら昨日は、わざと痛みを与えるためにやったということは明らかだったが、穏花は過ぎたことに恨み節を言うよりも、今起きたことに感謝したい気持ちだった。
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