アオハルのタクト

碧野葉菜

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追奏曲(カノン)

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 精神疾患、思い込みの産物、なにをどう考えたって、説明もできなければ納得もできん。
 春歌がおらんようになって初めてのピアノコンクール、事前にエントリーしてもうたから、仕方なく足だけ運んだ。指先一つ、動かす気力もなかった。それやのに椅子に座った途端、腕が持ち上がり、鍵盤を駆け巡った。なにかに引っ張られるような感覚やった。力強い箇所は、マグマが暴れるように、静かな箇所は、羽が舞い降りるように。緩急の激しい歌う音符。生きた旋律は、あいつの――。

「いやぁ、マジですげーわ、水島のピアノ」

 想像を吹き消す、現実の声。耳を傾けた先には、いつもと変わらん光景がある。大して親しくもない、二人の男子生徒。最近は、実力を露わにした俺を持ち上げるのに忙しい。

「こないだ観に行ったら、あり得ん手の動きしてんの」
「遠くからでもわかるよな。腹に響くっていうか、めっちゃ聴き入ったし」

 机に片肘をついて二人を見上げる。我慢できん笑いが込み上げて、鼻を抜けて空気に伝わる。バカにしたんがバレたやろうか。別にええ。今まで俺を、俺のピアノを、取るに足りんものとして、バカにしてきたんはお前らの方や。だからって声を荒げたりせず、あくまで余裕を持って対応する。天才が凡人相手に、目くじらを立てる必要なんてないから。

「大したことないって。これくらいできて当然や。親にも恩返しせなアカンし。二人は進路どうするん? 才能ないなら、必死で努力するしかないから大変よなぁ」

 二人は表情を固めた後、苦笑いをしてお互いの目を探った。高校三年生、否応なしに迫られる未来の選択に、焦りや不安を抱いている生徒も少なくない。そんな中、俺は一人、別の遠い場所におる。高い山のてっぺんから見下ろすような、爽快な気分。結果を出した者に、世間は優しい。自分に寛大になれるんも、勝者の特権や。

「なんか水島、感じ変わったよな。偉そうっていうか」
「ちょっとピアノができるからって、調子にのってるんちゃう」

 放課後の教室で、二人がコソコソ話すんを聞いた。周りの反応が、予想通りすぎて笑える。優れた者は妬まれるし、出る杭は打たれる。善悪や正論も存在せん、個々の欲望がひどくちっぽけに思える。
 違和感を覚えたんは、最初だけやった。不思議な渦に巻き込まれて、自分が自分でなくなるような。そんな恐怖は、コンクールで優勝した怒涛の滾りに飲み込まれた。
 弾けば弾くほど、みんなが俺を讃える。口を揃えて褒めちぎって、ライトを浴びせて拍手をする。才能を称されることは、最強のエクスタシーで、麻薬に等しい中毒性があった。
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