アオハルのタクト

碧野葉菜

文字の大きさ
上 下
43 / 70
受難曲(パッション)

14

しおりを挟む
 目を見開いたまま、時を過ごしていると、首の後ろに穏やかな重みがあることに気づく。
 反射的に支えた、両手のひらに力を込める。細かい砂の粒が、湿った皮膚についてくる。熱いん、は、太陽に焼かれた地面か、自分自身か、もしくは、彼女、か、わからん。
 やがて離した唇から、足りんようになった酸素を取り込む。ゆっくりと開かれた視界で、春歌の中におる自分を見た。透明感のある黒い瞳に住んだ俺は、男前とはほど遠いマヌケな顔をしていた。恥ずかしさや嬉しさは、信じられん感情に持ってかれて、ただ茫然とするしかなかった。空と海が溶け合った、青い世界に二人きりでおる。そう錯覚させるほど、春歌の目は優しくて綺麗やった。
 実際は数秒やったと思う。永遠に感じる長い時を、終わらせたんは春歌の手や。
 俺の胸を肘でグッと押しながら、手の甲で頬を退けられる。その力に抵抗することなく、体を起こすと、春歌の真横に正座する形になった。
 目の前にあるしなやかな指、形の綺麗な爪、浮き出た骨と細い血管、毛穴を探すんが難しい肌は、夏が嘘のようにさらりと乾いている。
 彫刻のように美しい手に、そっと自分のそれを重ねて、引き寄せる。作り物のような手に、魂が宿る瞬間を知っている。人の首を絞めるためやなく、旋律を歌わせるため、誰にも真似できんことを、持って生まれた奇跡の手。
 頬擦りするように触れた時、俺はふと思いついた。この手が自分のものになれば、どんなにええやろうって。

「春歌の手と俺の心臓、交換できたらええのに」

 両手で包んだか細い手が、ピクリと反応を示す。春歌はあきれているやろう。できもせん戯言を、バカにすると信じて疑わんかった。
 まさかこの一言が、春歌の心を決めてまうなんて。
 
「いいね、それ」

 そんなふうに春歌が言った気がしたけど、意味を確認する前に、そばに来た柳瀬が手を伸ばす。
 右手でその手を取った春歌が、柳瀬の力を借りて立ち上がる。同時に左手は俺から逃れるように、するりと離れていった。
 今の今まで触れていたのに、あっという間に赤の他人のように遠くなる。砂浜に足跡だけ残して、平気で距離を取る背中に、今度は俺が立ち上がった。
 今日だけで二回も、二人の後ろ姿を見送るとは思わんかった。春歌が俺以外の男とおることが、胸を抉られるほど痛いってことも。
 俺の方がずっと前から、春歌を想っているのに、なんで今隣におるのが俺やないねん。
 なぁ、春歌、相手が誰でもええなら、なにも柳瀬やなくてもええやろう。恋人ごっこも、自殺ごっこも、きっと誰よりも上手くやってみせるから。

「春歌、柳瀬なんかより、俺と――」
 
 他の奴と死ぬくらいなら、俺と。
 願いの続きは、吹き抜けた潮風に攫われた。
しおりを挟む

処理中です...