アオハルのタクト

碧野葉菜

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受難曲(パッション)

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 ぬるくなったペットボトルの水と一緒に、春歌に薬を飲まそうと躍起になる。それやのに、春歌は口を固く閉じたまま、一向に開けようとせん。

「ちゃんと飲め! 飲まなマジで、お前……なぁ、春歌、頼むから飲んでくれ!」

 押しつけた飲み口から流れる水は、紫色の唇を濡らすだけでなんの意味もない。そんな様子を見かねた柳瀬が、俺の腕を引っ張った。

「貸せ、俺がやる、口移しすればええやろ!」

 そう言って俺が持ったペットボトルと薬を奪おうとする。血に飢えた猛獣のような柳瀬が、この時ばかりは怖くなかった。もっと他に、恐ろしいことがあったから。そして、最悪を阻止するんは、自分でないと許せんかった。
 
「春歌に触んな!」

 自分でも驚くほどの声が出た。思いきり突き飛ばした柳瀬が、尻もちをついて、呆気に取られた顔で俺を見た。
 銀紙から親指で押し出した、丸い発作止めの薬を口に含む。その上からペットボトルを咥え、天を向いて頬いっぱいに水を蓄えた。
 空になった容器を捨てて、砂浜に横たわる春歌の傍らに寄り添うように膝をつける。そして青白くなった頬を両手で包み、こちらに向きを固定させた。
 頑なに閉じていた瞼が、うっすらと持ち上がる。なにも発言できん俺は、春歌に薬を飲み込む力が残っていることを願った。
 キスなんてしたことがない。だからやり方がわからず、口と口をぶつけるしかできんかった。
 いつかは好きな子としたいって、誰やって思うやろう。その一人やった俺は、相手こそ望み通りやったけど、まさかこんな形で叶うとは思ってへんかった。
 勘違いや。これはキスやない。ただの人命救助。そう言い聞かせながら、キツく目を瞑ると、思いの外すんなり開いた唇の隙間から、水と一緒に薬を流し込む。舌でどうこうとか、難しいことはできん。だから、せめて勢いだけは味方にと、強く唇を押しつけた。 
 ゴクリと、喉が鳴る音がした気がする。飲ませる行為に必死で、確証は持てんかった。
 濡れた唇を離して、上体を起こすとともに徐々に視界を開く。静まり返った綺麗な顔が、俺の画面いっぱいを埋め尽くす。瞼にかぶさる長いまつ毛に、潤いを漏らした半開きの唇。蝋人形のように生気がない肌に、爪先から体温が抜けてゆく。
 もうこれ以上、できることがない。
 春歌の顔を覗き込んだまま、途方に暮れていると、目の前の瞼がピクリと痙攣するように動いた。
 花が開くように、黒い瞳が蘇る。奇跡でも見た気分で、唇が震えて、腰を抜かしそうやった。

「あ、あ、はる、はる、か、よかっ――」

 ビー玉のような目が俺を映したかと思うと、突然後頭部に力がかかって、熱い感覚が起きた。一点に集中している、柔らかくて、温かくて、近すぎて見えん、甘い砂嵐。
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