アオハルのタクト

碧野葉菜

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受難曲(パッション)

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「いや、ごめん、そんなつもりで言うたんやなくて」
「じゃあどういうつもりなん?」
「や、ちょっとビックリして……頭冷やしてくるな」

 両手のひらを優希に向けて、まあまあと宥めるポーズを取ると、後退りした足を半回転させた。逃げるように、優希がおる場所とは、逆方向に歩いていく。
 なんで俺が謝らなアカンのか。なんで俺がこんなにビクビクせなアカンのかって、自問したところで答えなんて持ち合わせてへん。
 とにかく優希から距離を取りたくて、黙々と歩いていると、いつの間にか緑に囲まれていた。海岸の名前が彫られた石板の裏側にある、低い木が並ぶ茂みの中や。
 いっそ、このまま消えたろうか。
 トンヅラの文字が脳裏をよぎるけど、急に腹を壊したなんて、三流の言い訳しか思いつかん。
 もっと頭の回転が速ければよかった。そうしたら、優希も親たちも言いくるめて、快適な生活ができたやろうか。
 あり得ん想像に逃避しても、現実は変わらん。今後想定される事態をどう丸く収めるか、暑さで疲れた脳に「考えろ」の指令を出しても反応はイマイチや。
 後にも先にも行けず、ため息混じりに植物の中を徘徊していると、ふとなにかの音が耳に入った。
 本能的にと言うべきやろうか。条件反射のように、音の出どころを探そうと頭を右往左往させる。すると、濃い緑の葉に覆われた一部が、カサカサと動いていることに気がついた。
 見つけたからには、原因をつきとめたくなった俺は、足音を立てんよう注意して前に進む。
 風なんて少しも吹いてへんのに、下の方だけ揺れるから、最初は動物でもおるんかと思った。だけどその考えは、近づけば聞こえる苦しげな音に否定される。
 息を詰めるような、途切れ途切れの声に、人間である可能性を見た時、引き返せばよかった。
 一瞬の隙に現われる、好奇心という名の化け物。得体が知れんものへの不安や恐怖を、呑み込む刹那を拒めんかった。
 目当ての茂み前で立ち止まると、少しだけ腰を低くする。厚みのあるチクチクした葉に右手を差し込み、ゆっくりと横に寄せて、空いた場所に視界をはめた。
 ちょうど片目で覗けるくらいの小さな穴から、最初に見えたんは青い髪。
 俯くアクアマリンの細い糸に、誘われるように視線を動かす。
 毛先を追いかけて覗いた地面には、長い黒髪と、色白な体があった。
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