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出会いの夜
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「……ただ、なんとなく言っただけで、深い意味はないので、用意とかいりません、忘れてください」
「そんな寂しいこと言わないでください。忘れませんよ、ずっと……僕はね」
そう言って彼は突然手を握りしめた。
ほんの一瞬だったけれど、確かに私の右手を、左手で包んだのだ。
「ヒェッ、な、なにっ」
「あはは、ちょっとしたおまじないですよ」
私が手を引っ込める前に、彼のぬくもりはあっさり離れていた。
猫宮さんは悪戯っ子のような顔で笑ったあと、差し出した左手で出口を示した。
「どうぞ、お帰りはあちらです、道中お気をつけて」
またお越しください、とは言われなかった。
ありがとうございました、もない。
店主と客の境目が不確かな、摩訶不思議な空間。
肩にかけていたトートバッグの紐を持つ手に力を入れると、ゆっくりとUターンする。
前方に現れる柔らかな光と深夜のような闇。
すでに開け放された引き戸の先に見えたのは、来た時と同じ景色だった。
ゴクリ、息を呑んで、心持ち呼吸を整える。
大丈夫、あそこを越えれば元の世界。
自分に言い聞かせながら、振り返らずに床を蹴る。
一歩一歩、ヒールを鳴らして外との隔たりを股にかける。
先に出した軸足が黒墨に飲み込まれたと思った瞬間、私の身体は無重力に包まれ光の中に溶けていった。
「そんな寂しいこと言わないでください。忘れませんよ、ずっと……僕はね」
そう言って彼は突然手を握りしめた。
ほんの一瞬だったけれど、確かに私の右手を、左手で包んだのだ。
「ヒェッ、な、なにっ」
「あはは、ちょっとしたおまじないですよ」
私が手を引っ込める前に、彼のぬくもりはあっさり離れていた。
猫宮さんは悪戯っ子のような顔で笑ったあと、差し出した左手で出口を示した。
「どうぞ、お帰りはあちらです、道中お気をつけて」
またお越しください、とは言われなかった。
ありがとうございました、もない。
店主と客の境目が不確かな、摩訶不思議な空間。
肩にかけていたトートバッグの紐を持つ手に力を入れると、ゆっくりとUターンする。
前方に現れる柔らかな光と深夜のような闇。
すでに開け放された引き戸の先に見えたのは、来た時と同じ景色だった。
ゴクリ、息を呑んで、心持ち呼吸を整える。
大丈夫、あそこを越えれば元の世界。
自分に言い聞かせながら、振り返らずに床を蹴る。
一歩一歩、ヒールを鳴らして外との隔たりを股にかける。
先に出した軸足が黒墨に飲み込まれたと思った瞬間、私の身体は無重力に包まれ光の中に溶けていった。
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