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私は緩めかけた手の力をいっそう強くした。
「いた、痛い痛い痛いっ。指が刺さってるって!」
掴んでいる腕を持ち上げて男は必死にアピールするが、知ったことではない。
「なんで月下さんを知ってるんですか?」
どう高く見積もっても、二十台に見える月下とこの男はあまりに歳が離れすぎている。プライベートでの付き合いがあるとは到底思えなかった。それに加えて、月下が被害にあった『怖い思い』が頭をよぎる。
月下が言っていた怖い思いとは恐らく森田のことだろう。だがあの美貌だ、男性にかけられる迷惑行為なんていくらでもあるだろう。きっとこの男もその一人に違いない。そう思った私は腕の力をよりいっそう強めた。
「うううぅぅぅ……! 千切れる、千切れるぅぅ!」
男は苦悶の声を上げて、空いている腕で私の腕を掴んだ。だが引き離すことは出来ない。
意外に思われるかも知れないが、花屋というものはかなりの力仕事だ。花の世話をするには土と水が大量に必要になる。一般的に販売されている培養土。植物用の土は十二リットルで五キロから八キロもあり、まとめて購入するとなると運搬だけで大仕事だ。そんな業務を何年も続けている間に、男性顔負けの腕力が身についてしまっていた。
「早く答えないと本当に千切れますよ!」
「いだだだっ。こ、答えます。すぐ答えますからっ、早く離してぇ!」
腕の力を緩めてあげると、男は握られていた腕を抱えてしゃがみこんだ。荒く息を吐きながら、掴まれていた箇所を確認している。
「うわぁ、指の形が食い込んでる……いたたたた、なんでこんな目に」
「さぁ、早く教えてください。どうして月下さんのことを知ってるんですか」
「どうしてって、僕のところで働いてたからだよぉ。凄く稼いでもらったから、見かけて挨拶しようとしただけなのに」
「え……じゃああなたは、月下さんの雇用主?」
「元、だけどねぇ」
そう付け加えた男は涙目でこちらを見つめていた。体中の血の気が引いて、嫌な汗が噴き出るのを感じた。
「うわ、うわあぁぁぁ……! すいませんっ。てっきり私……」
そこまで言って言葉を止める。変質者だと決めつけて暴力を振るった挙句、「変質者だと思って」と言ってしまえば、もう取り返しがつかないと思った。既に取り返しがつかないかも知れないが……。男の腕についた手跡を見て思う。
しかし、私の思いとは裏腹に、男の態度は温和なものだった。
「いいよいいよ、いきなり声をかけた僕も悪かったしね」
「いや、でも……」
我ながらすごい力で握りこんだようで、腕は私の手の形が浮かび上がっている。男の顔にも脂汗が浮かんでいるものだから、相当な痛みだったのだろう。それでも男はこちらに向かって笑みを作っていた。
「大丈夫、大丈夫。商売柄こういうのは結構あるからね。慣れてるのよ」
「商売柄って」
腕を握りこまれるようなことがしょっちゅうあるって、いったいどんな商売なのだ。思わず怪訝な表情になってしまった私を見て、男はポケットから財布を取り出し、中から名刺を取り出した。
「ラ・フランス?」
受け取った名刺には江戸前敦という名前とともに筆記体でそう書かれていて、ラ・フランスの文字の周りには装飾が施されていた。
「うん、そこでお店をやってるの。香ちゃんは僕の店で働いてくれたキャストさんなのよ。あ、先に言っておくと健全なお店だからね!」
江戸前は身構えて聞いてないのにそういう事を言ってきた。
「キャストって、どういうお店なんですか?」
「大人の飲み屋よ。有り体にいうとキャバクラね」
「はぁ……」
想像してみたが、キャバクラなんて無縁の生活をしている私には今いちピンと来なくて頭を傾げた。ドラマやテレビ番組で一応雰囲気だけは掴めているが、ああいう艶やかな場所で清楚なイメージを持つ月下が働いているのがどうしても違和感があった。だが、私の予想に反して江戸前は、
「香ちゃんはとっても話上手で指名してくれるお客さんがいっぱいいたのよね。最近売り上げが伸び悩んでるから是非戻ってきてほしかったのだけれど」
と、悲しそうな表情で私を見ていた。なんだか失礼な態度ではないか。
「というか、そもそも何で私と月下さんを間違えたりなんかしたんですか。全然似てないでしょう」
私は手を大きく広げて言った。
月下と比べれば私の容姿なんて月とスッポンと言える評価だった。月下の容姿は整っていて、日に焼けた形跡すら感じない真っ白い肌は、化粧すらまともにしてこなかった私とは似ても似つかない。それに雰囲気だってまるで違う。思わず声をかけてしまいそうな儚げなオーラに遠慮がちな笑みと大人しい声。どちらかといえばがさつな私とはまさに対照的な存在なのだ。
「うーん、確かに話してみると全然違うわねぇ」
自分でもどうして声をかけたのか。顎に指を当てて江戸前が言った。
「でも、さっき後ろから見たときは香ちゃんと思ったのよね。そうとしか思えないくらいに。不思議だわぁ」
「なんだかその言い方は少し失礼じゃないですか」
「あら、ごめんなさい。他意はないのよ。ほほほ」
思っていることを伝えると、中年男性らしからぬ笑い声を上げた江戸前は私から視線を逸らした。いきなり声をかけられて、とても理不尽な扱いを受けている気もするが、この出会いは幸運だと思った。
月下のことを知る人物ならば、彼女の周りにある男性関係だってある程度は把握しているかも知れない。それなら件の事件に有力な情報を持っている可能性がある。少なくても月下の住所は知っているはずだ。
「あの、月下さんの男性関係ってご存じですか?」
「え、なによ急に」
直球すぎる物言いに、江戸前はこちらを訝しんだ。
「えーと。実は月下さんが男性関係でトラブルを抱えているんです。それで私も過敏になっちゃってて……江戸前さんなら何か解決の手がかりになることを知っているかなって」
「あらそうなの。確かに香ちゃんはモテていたから、そういう事もあるかも知れないわねぇ」
「そうなんです。この間だった危うく命の危険があるところだったみたいで、なんとか解決したいんですよ」
武藤から聞いた情報だったが、さも月下本人から聞いたように説明すると、「なるほどねぇ」と江戸前は頷く。
いける。この感じは何か話してくれそうだ。
「何か知りませんか? 最悪彼女の住んでいるところとかだけでも教えてもらえると助かるんですけど」
「住んでるところ?」
「えぇ、住所さえわかってれば有事の際に助けにいけますから」
「あぁ、そうねぇ……うんうん。話はわかったわ」
ほほほと笑った江戸前は満面の笑顔を作って、
「教えてあーげない」
ばっさりと切り捨ててきた。
「まず前提として、雇用者の個人情報は渡せないの。それにあなた、香ちゃんの何なの?」
「え……知り合いですけど」
「ふーん。なんで知り合いが香ちゃんを助けようとしているのよ」
痛いところを突かれて尻込みしてしまった。月下を助けようとしているのは善意もあるが、本心は月下を追う森田が目的なのだ。森田が見つかれば、姉の存在が一気に近くなるはずだ。手がかりもなければ、捜査の真似事なんてできない私はこのチャンスを逃せない。その考えを見透かすように江戸前はこちらを見ていた。
「おかしな話でしょ。知人を助けようとするぐらい仲がいいのに住んでる場所なんてわからないなんて」
「そ、それは。私が鹿児島住みで、こっちに住んでいないから聞く必要もなくて」
「そんな遠いところに住んでる人がわざわざ大阪まできて家も知らない知人の人助け? 僕からしたらあなたの方がよっぽど怪しいのだけど」
「……確かにそうですけど」
江戸前の正論に思わず同意してしまった。
「いた、痛い痛い痛いっ。指が刺さってるって!」
掴んでいる腕を持ち上げて男は必死にアピールするが、知ったことではない。
「なんで月下さんを知ってるんですか?」
どう高く見積もっても、二十台に見える月下とこの男はあまりに歳が離れすぎている。プライベートでの付き合いがあるとは到底思えなかった。それに加えて、月下が被害にあった『怖い思い』が頭をよぎる。
月下が言っていた怖い思いとは恐らく森田のことだろう。だがあの美貌だ、男性にかけられる迷惑行為なんていくらでもあるだろう。きっとこの男もその一人に違いない。そう思った私は腕の力をよりいっそう強めた。
「うううぅぅぅ……! 千切れる、千切れるぅぅ!」
男は苦悶の声を上げて、空いている腕で私の腕を掴んだ。だが引き離すことは出来ない。
意外に思われるかも知れないが、花屋というものはかなりの力仕事だ。花の世話をするには土と水が大量に必要になる。一般的に販売されている培養土。植物用の土は十二リットルで五キロから八キロもあり、まとめて購入するとなると運搬だけで大仕事だ。そんな業務を何年も続けている間に、男性顔負けの腕力が身についてしまっていた。
「早く答えないと本当に千切れますよ!」
「いだだだっ。こ、答えます。すぐ答えますからっ、早く離してぇ!」
腕の力を緩めてあげると、男は握られていた腕を抱えてしゃがみこんだ。荒く息を吐きながら、掴まれていた箇所を確認している。
「うわぁ、指の形が食い込んでる……いたたたた、なんでこんな目に」
「さぁ、早く教えてください。どうして月下さんのことを知ってるんですか」
「どうしてって、僕のところで働いてたからだよぉ。凄く稼いでもらったから、見かけて挨拶しようとしただけなのに」
「え……じゃああなたは、月下さんの雇用主?」
「元、だけどねぇ」
そう付け加えた男は涙目でこちらを見つめていた。体中の血の気が引いて、嫌な汗が噴き出るのを感じた。
「うわ、うわあぁぁぁ……! すいませんっ。てっきり私……」
そこまで言って言葉を止める。変質者だと決めつけて暴力を振るった挙句、「変質者だと思って」と言ってしまえば、もう取り返しがつかないと思った。既に取り返しがつかないかも知れないが……。男の腕についた手跡を見て思う。
しかし、私の思いとは裏腹に、男の態度は温和なものだった。
「いいよいいよ、いきなり声をかけた僕も悪かったしね」
「いや、でも……」
我ながらすごい力で握りこんだようで、腕は私の手の形が浮かび上がっている。男の顔にも脂汗が浮かんでいるものだから、相当な痛みだったのだろう。それでも男はこちらに向かって笑みを作っていた。
「大丈夫、大丈夫。商売柄こういうのは結構あるからね。慣れてるのよ」
「商売柄って」
腕を握りこまれるようなことがしょっちゅうあるって、いったいどんな商売なのだ。思わず怪訝な表情になってしまった私を見て、男はポケットから財布を取り出し、中から名刺を取り出した。
「ラ・フランス?」
受け取った名刺には江戸前敦という名前とともに筆記体でそう書かれていて、ラ・フランスの文字の周りには装飾が施されていた。
「うん、そこでお店をやってるの。香ちゃんは僕の店で働いてくれたキャストさんなのよ。あ、先に言っておくと健全なお店だからね!」
江戸前は身構えて聞いてないのにそういう事を言ってきた。
「キャストって、どういうお店なんですか?」
「大人の飲み屋よ。有り体にいうとキャバクラね」
「はぁ……」
想像してみたが、キャバクラなんて無縁の生活をしている私には今いちピンと来なくて頭を傾げた。ドラマやテレビ番組で一応雰囲気だけは掴めているが、ああいう艶やかな場所で清楚なイメージを持つ月下が働いているのがどうしても違和感があった。だが、私の予想に反して江戸前は、
「香ちゃんはとっても話上手で指名してくれるお客さんがいっぱいいたのよね。最近売り上げが伸び悩んでるから是非戻ってきてほしかったのだけれど」
と、悲しそうな表情で私を見ていた。なんだか失礼な態度ではないか。
「というか、そもそも何で私と月下さんを間違えたりなんかしたんですか。全然似てないでしょう」
私は手を大きく広げて言った。
月下と比べれば私の容姿なんて月とスッポンと言える評価だった。月下の容姿は整っていて、日に焼けた形跡すら感じない真っ白い肌は、化粧すらまともにしてこなかった私とは似ても似つかない。それに雰囲気だってまるで違う。思わず声をかけてしまいそうな儚げなオーラに遠慮がちな笑みと大人しい声。どちらかといえばがさつな私とはまさに対照的な存在なのだ。
「うーん、確かに話してみると全然違うわねぇ」
自分でもどうして声をかけたのか。顎に指を当てて江戸前が言った。
「でも、さっき後ろから見たときは香ちゃんと思ったのよね。そうとしか思えないくらいに。不思議だわぁ」
「なんだかその言い方は少し失礼じゃないですか」
「あら、ごめんなさい。他意はないのよ。ほほほ」
思っていることを伝えると、中年男性らしからぬ笑い声を上げた江戸前は私から視線を逸らした。いきなり声をかけられて、とても理不尽な扱いを受けている気もするが、この出会いは幸運だと思った。
月下のことを知る人物ならば、彼女の周りにある男性関係だってある程度は把握しているかも知れない。それなら件の事件に有力な情報を持っている可能性がある。少なくても月下の住所は知っているはずだ。
「あの、月下さんの男性関係ってご存じですか?」
「え、なによ急に」
直球すぎる物言いに、江戸前はこちらを訝しんだ。
「えーと。実は月下さんが男性関係でトラブルを抱えているんです。それで私も過敏になっちゃってて……江戸前さんなら何か解決の手がかりになることを知っているかなって」
「あらそうなの。確かに香ちゃんはモテていたから、そういう事もあるかも知れないわねぇ」
「そうなんです。この間だった危うく命の危険があるところだったみたいで、なんとか解決したいんですよ」
武藤から聞いた情報だったが、さも月下本人から聞いたように説明すると、「なるほどねぇ」と江戸前は頷く。
いける。この感じは何か話してくれそうだ。
「何か知りませんか? 最悪彼女の住んでいるところとかだけでも教えてもらえると助かるんですけど」
「住んでるところ?」
「えぇ、住所さえわかってれば有事の際に助けにいけますから」
「あぁ、そうねぇ……うんうん。話はわかったわ」
ほほほと笑った江戸前は満面の笑顔を作って、
「教えてあーげない」
ばっさりと切り捨ててきた。
「まず前提として、雇用者の個人情報は渡せないの。それにあなた、香ちゃんの何なの?」
「え……知り合いですけど」
「ふーん。なんで知り合いが香ちゃんを助けようとしているのよ」
痛いところを突かれて尻込みしてしまった。月下を助けようとしているのは善意もあるが、本心は月下を追う森田が目的なのだ。森田が見つかれば、姉の存在が一気に近くなるはずだ。手がかりもなければ、捜査の真似事なんてできない私はこのチャンスを逃せない。その考えを見透かすように江戸前はこちらを見ていた。
「おかしな話でしょ。知人を助けようとするぐらい仲がいいのに住んでる場所なんてわからないなんて」
「そ、それは。私が鹿児島住みで、こっちに住んでいないから聞く必要もなくて」
「そんな遠いところに住んでる人がわざわざ大阪まできて家も知らない知人の人助け? 僕からしたらあなたの方がよっぽど怪しいのだけど」
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