花の蜜は何より甘く

FEEL

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――つまり、あの布の正体は。

「うっ、えぇぇ……っ」
「大丈夫ですか!」

 唐突に吐き気を催し、反射的に嘔吐してしまった。内容物は出てこなかったが、私の姿を見て白衣の人たちが慌ただしくなった。私は「大丈夫です」と、ロボットのように答えてから、息が落ち着くまで待って、体を丸めた。
 白衣の人は、閉じこもった私に何か説明をしていたが、全く耳に入ってこなかった。体が浮いているような不思議な感覚がして、心臓の音だけがやけに大きく鳴っているのが伝わった。

 それから私は病院に搬送されて、色々と検査をするため入院することになった。検査やカウンセリングを受けている間も父親は私のところにはやってこなかったし、病院の先生たちも話題に出すことはなかった。それが救急車で聞いた言葉に真実味を帯びさせて、数日たったころにはちゃんと納得していた。

 父親は、お父さんは死んだんだ。

 死について、ちゃんとした理解があるわけではない。だけど死というのはどういうものかはわかっている。何年か前に母親が事故で死んでしまった。普段から笑顔で、泣いている姿なんて見たことのない父親が泣きながらそう伝えにきたことがある。私は言葉の意味が全然わからなくて、それから姿を見せない母親を不思議に思って「お母さんはどこにいったの?」と父親に聞いた事があった。
 その時父親は悲しい表情のまま笑顔を作って「もうお母さんには会えないんだよ」と寂しげに言ったのを覚えている。それを聞いて私は、死んだ人間とはもう会えなくなるものなのだと学んだのだ。
 つまり、父親とはもう会うことが出来ない。それはとても寂しいことで、怖いものだと感じた。
入院生活が一週間を過ぎた頃。叔父が私のところにやってきた。

「やぁ、蓬ちゃん。僕のことを覚えているかな」
「うん、お父さんのお兄ちゃん」
「おぉ、よく覚えてたな。蓬ちゃんは天才か」
「年越しに会ったばかりだよ。まだ2ヶ月くらいしか経ってないんだから忘れる訳がないよ」
「そうだったか? いや、僕にはもう半年以上前の事に感じてるわ。ちゃんと覚えてる蓬ちゃんは偉いなぁ」

 流暢な関西弁でそう言った叔父はがははと笑った。
 本人曰く子供が大好きらしく、出会う度にこうやって可愛がられていた。父親に似て笑顔を崩さないとても人柄のいい人間で、私も嫌いじゃなかった。
 ひとしきり笑うと、叔父は神妙な面持ちでこちらを覗く。

「あのな。父ちゃんのこと、聞いてるか?」
「……うん」
「ほうか。可哀そうやったな」

 真面目な口調で叔父はそう言った。
 父親のことを言ったのか、私に対していったのか。あるいは両方に向けて言った言葉なのかも知れない。私は返事をせずに頭だけ縦に振った。

「まぁ、それなら話は早いわ。蓬ちゃん、今日から叔父さんと暮らさへんか?」
「叔父さんと?」
「せや、親がおらんかったらどうにもならんやろ。このままやと蓬ちゃんも香ちゃんも施設に預けなあかんことになるねん。別に施設が悪いって言ってるわけやないんやけど、どうせなら知ってる人間と一緒に暮らした方が気も楽やろ」
「施設……って?」
「親のいなくなった子供が一緒に暮らしてるところや。今風に言うとシェアハウスってやつか? そう言うとええとこに思えてくるな」
「なにそれ」

 笑いながら言うものだから私も思わず笑ってしまった。

「でもな、僕からしたら蓬ちゃんたちは弟が残した大事な家族やから。目の届かないところに預けるなら自分が面倒みたいと思ってるねん。勿論君らが嫌やって言うのなら無理強いはせえへんけど。どうやろうか、退院したら叔父さんと一緒に暮らさへんか?」

 叔父の提案に私は少し考えてから、「うん」と小さく頷いた。
 正直なところ、施設というものは想像がつかないし。いきなり知らない人と暮らすことになるなんて想像もできなかった。それなら叔父の言う通り、気心の知れている人と暮らすのが一番だ。
 私が頷くと、叔父は「そうか、それはよかったわ!」と大きな声で喜んだ。

 引っ越しが決まり、検査の結果も問題なしと診断された私は無事に退院することになった。病院に迎えにきた叔父は、もう荷物はまとめて自分の家に送ってあるということを私に告げ。そのまま叔父の家に向かうことになった。
 帰路に向かう車にいるのは私一人。あれから姉とは会っていない。

「お姉ちゃんはどこにいるの?」
「香ちゃんか、香ちゃんは施設におる」
「え……?」

 叔父の言葉に驚いたが、運転中の叔父は前を見ながら言葉を続ける。

「変な誤解せんでくれよ。治療の一環でな、問題ないと判断されたら香ちゃんも帰ってくることになってる」
「治療って、確かお姉ちゃんは怪我とかしていないって聞いたけど」
「せやな。怪我はしてない」
「それだったら……」
「でもな、傷が出来るのは体だけやないんや。見えへんけど心にも傷が出来るねん。香ちゃんはちょっと、心の方が痛むみたいでな、そこを治療してるところなんや」

 叔父は諭すようにそう言った。

「お姉ちゃんは大丈夫なの?」
「まぁ、とりあえず泣いたり怖がったりとかはしてへんみたいや。ただよっぽど怖い目にあったんか、感情を出すのが難しくなったらしくてな。あれから全然喋らへんらしいんや」
「……それが治らないと帰ってこれないの?」
「そういうなるな。まぁでも大丈夫や。香ちゃんは元々明るくて愛嬌のある子やったから、すぐに元気になるやろ」

 叔父の言葉に私は「そうだね」と言って頷いた。
 香は明るくて感情がコロコロと変わって、見ているだけでこっちも楽しくさせてくれるような子なのだ。今は元気がなかったとしても、すぐにいつも通りの姿で帰ってきてくれるはずだ。

「……確か、叔父さんの家って鹿児島にあるんだよね」
「せやで。谷山って町でな、繁華街も近いから退屈はせえへんよ。近くには坂之上ってところもあってな、坂ばっかりあるところでなぁ。それで坂之上って名前なんかもなぁ。知らんけどなぁ」
「なにそれ」

 姉のことを気遣ってか、叔父さんが努めて明るく話してくれた。それが嬉しくて、私も元気に振舞ってみせてから。香が戻ってきた時のことを考えていた。
 帰ってきたら何をしよう。知らない場所を一緒に歩きたいし、名物お菓子だって食べてみたい。いつもみたいに一緒に寝て、いつも通りに過ごしたい。

「……早く会いたいな」

 当たり前のようにいた存在がいなくなると、こんなにも恋しい気持ちになるものなのか。今の境遇にまだ頭が追いついてない状態で、姉と一緒に暮らす日だけが楽しみになっていた。だが、いくら待ってもその日は中々来なかった。
 姉が戻ってくるのを心待ちにして数週間が経ったある日。ふと鳴った電話を叔父が受け取った時、叔父がぽつりと漏らした。

「香ちゃんが、いなくなった……?」

 その日。楽しみにしていた姉との再会はもう来ないのだとわかった。
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