花の蜜は何より甘く

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「起きて、よもぎねぇ起きて」
「んん……どうしたの? かおり

 揺すられる体と顔を突き刺す冷気で目を開けると、目の前には真剣な表情をした姉の姿があった。電気が消えている室内はまだ薄暗く、しんとした空気が姉の表情をより険しく感じさせた。

「なんかね、音がするの」
「音?」
「うん、ほら……下の階から物音が」

 床に耳をくっつけた状態で姉が言った後、手をひらひら動かして私を呼ぶ。誘われるまで香に近づいて、同じように耳をつけると、確かにガタガタと何かを動かす音が聞こえた。

「お父さんが動いてる音じゃないの?」

 私はあくびをしながら、気の抜けた声で言うと、姉は「ううん」と呟いた。

「違うと思う。いつもはこんなに早くに起きてこないし、物音だってさっきからずっと続いてるんだもの」
「う~ん、たまたま早く起きたから掃除してるとか?」
「お父さんが? 私お父さんが掃除してるのなんて見たことないけど、蓬はある?」
「私もないや」

 香の質問に私は即答した。
 私たちの父親はとても優しくていっぱい遊んでくれる人だけど、自分のことは無頓着で、身の回りは勿論。家の掃除をしようなんて考えた事すらないのではないだろうか。
 私の返事を聞いた香は「でしょ」と相槌を打つとくすりと笑う。それを見て私もつられて笑みを作った。

「でも、それじゃあ何の音なんだろう? 様子見に行く?」
「嫌よ、幽霊だったらどうするの。ただでさえ怖くて蓬を起こしたのに」

 それだけの理由で起こされたのか私は。
 何か一つ気の利いた文句でも言ってやろうかと考えていると、ガタガタと鳴っていた物音が途切れ。ギィ、と木が鳴る音が聞こえた。

「あ、今の扉を開ける音じゃない? お父さんが部屋に入る時の音。やっぱり起きてたんだよ」
「な~んだ。怖がって損しちゃった」

 そう言うと、香は大げさに息を吐いて緊張した表情を緩ませた。まだ眠気の残っていた私は重いまぶたで香の表情を見ていると、

 ――ドンッ

 と大きな音が響いた。驚きで目を見開いた私の視界には、同じように驚いている香が映る。

「い、今の音って?」

 慌てた様子で香が呟く。その間にもドンドンと断続的に大きな音が鳴り響き。その音にまじって、

『だ、誰だ、お前はっ!』

 と、父親の怒声が耳に入ってきた。香と私は目を見合わせる。

「もしかして、泥棒⁉ 殺人鬼⁉」
「お父さんが危ないよ! 香っ」

 突然のことに私と香はパニックを起こした。
 そうしている間にも音は続いていて、耳を当てていなければ聞こえにくかった音は、普通にしていても聞こえるくらい大きくなっていた。音が大きくなるにつれて、深刻なことが起きているのではと焦りが増していく。

「私、様子を見てくる」

 どうしようかと固まっていた私に言うと、香が立ち上がり部屋から出る。

「わ、私も行くよ」
「駄目よ。蓬もいっしょに行って危ない目にあったら私がお父さんに怒られちゃうでしょ。大丈夫、すぐ帰ってくるから」

 姉としての使命感からなのか、さっきまで怖がっていた香が嘘のように頼もしく見える。私が頷くと、まるで泥棒のような忍び足で香は廊下を歩き、階段を下りて行った。
 香が下に降りるまで見送った後、私はすぐさま部屋に戻って床に耳を押し当てる。これで何かあっても物音でわかるはずだ。
 物音は未だ続いていて、時折聞こえる父親の声に心臓が跳ね上がるほど驚かされる。

(お願い……大変な事が起きていませんように)

 誰にでもなく、私は祈った。
 騒音に怒声。はたから見ても異常な事態であることは間違いない。それでも私は祈ることしかできなかった。目をギュっと閉じて、音に神経を集中させていると、突然音が止んだ。いったい何が起きたのかと思った矢先、今までで一番大きな音が響た後。

『香っ! 逃げなさい!』

 今まで一度も聞いた事がない、娘を怒鳴る父親の声。
 それは音だけでも異常事態であるという事が、そして様子を確認しにいった香の存在が見つかったことを意味していた。

『やだっ、やめてっ!』

 続いて聞こえたのは何かを懇願している香の声。私は急いで体を起こし、部屋の扉まで駆けだし、そこで止まった。

 怖い。

 見慣れた廊下がとても広く感じて足がすくむ。息が苦しくて何度呼吸をしても苦しさが抜けない。脚に力が入らなくて、油断すると今にも倒れこんでしまいそうだ。それでも、懸命に歩を進めてゆっくりと階段に向かう。
 なんとか階段まで到着すると、いつの間にか音が聞こえなくなっていて、階段から見る一階は誰もいないように静かだった。それがぎりぎりの所で保っていた恐怖心を煽ってしまい、私は堪らず座り込む。

(香……お父さん――)

 眠い。とても眠い。
 二人のことが気にかかるのに、寝起きの時とは比較にならない眠気が襲ってきて、徐々にまぶたが閉じていく。
 そのまま、視界は真っ暗になり、私は何も考えられなくなった――。



 目を開けると、私は毛布に包まれ横になっていた。白に統一された狭い空間。そこで私を取り囲むように白衣とヘルメットを着けた大人たちが複数人いた。
 瞳だけ動かして辺りを確認していると、白衣の一人が顔を覗き込んでくる。

「大丈夫ですかー? 痛いところはありますかー?」
「ない、です」
「何が起きたかわかりますかー?」

 私は質問に対してゆっくりかぶりを振った。それを見て白衣の人は「わかりました」と大きく頷いて周りの人間と難しい言葉で話していた。
 意識がはっきりしてくると、会話に交じって雑踏が耳にはいってくる。気だるさの残った体を少しだけ動かして音の方へ向くと目に入った景色は家のすぐ前だった。
 雑踏の正体は辺りに住んでいる住人で、広くもない道路に集まってそれぞれが何かを話し込んでいる。会話の内容まではわからなかったが、集まっている人たちは皆一様に私の家に視線を向けていた。
 つられるように私も視線を向けると、開けられた玄関扉の前には数人の警察官がいて、見るだけで異常事態だと思わせた。

「あ……あの」
「どうしましたー?」
「な、なにがあったんですか?」
「あぁ……そうですね」

 私の質問に白衣の人たちは困ったような顔をして押し黙る。そのまま返事を待っていると、やがて一人が口を開いた。

「あなたの家にね、強盗――悪い人が入ってきたんですよ。それであなたは気を失ったんです」
「強盗……悪い人……あっ」

 頭の中がはっきりとしてきて、少しずつ記憶が戻ってくる感覚がした。

「そうだ、お姉ちゃんに起こされて。変な音がするってなって……お姉ちゃん、お姉ちゃんはどこ?」
「お姉さんはね、別の救急車で休んでますよ。怪我はしてないから安心してください」

 ゆったりとした声でそう言われ、自分は今救急車にいるのだとわかった。私は「そうですか」と、返事をしてから息を吐いた。
 姉は一階に降りた後、強盗と会話をしていた。だが危ない目にあっていないのであれば私が意識を失った後、強盗とやらはすぐに捕まったのだろう。
 大分楽になってきた体を起こして、人込みを確認する。

「お父さんはどこにいますか?」

 見える範囲を探してみても、父親の姿はどこにもいない。家の中で警察官と話しをしているのかと玄関を見つめていると、程なくして白衣の人間が外に出てきた。
 手には担架を持っていて、上には厳重に布に包れた物体があった。いったい何が載っているのだろうと疑問に思っていると、

「お父さんはね……――ました」

 悪いことをして怒られたような、歯切れの悪い口調でそう聞こえたが、上手くききとれなかった。いや、聞き取れてはいたが、信じられなくて、理解できなかった。

「え……」

 漏れるように声を出したが、頭の中は再び霞がかかったように何も思い浮かばなかった。ただ固まったまま、家から運び出されるサナギのような白布を見ていた。
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