隣の家のありす

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「――読めた?」
「いえ……全然」

 暫くの沈黙の後、大喜さんの言葉にかぶりを振る。見ただけで想像できていたが、読み進めるとなると予想を超える程に難解だった。その難しさは文字を読み解くのに様々な辞書を必要とし、解読に集中するあまりに作品に入り込むことが出来ないといった具合だ。

「返り点なんて社会人になってから初めて見ましたよ。なんなんですかこれ」
「お、いいところに目をつけましたね」

 僕の言葉に大喜さんは般若から一転、笑みを作って目を輝かせた。

「そこはお話の大事な部分なんですよ。ネタバレになるので軽くしか触れませんが……人のいない世界で唯一話す事が出来たこの生物は、元々文明を気づいていた生物なんですよ。高度な知識で一度繁栄を迎えたんですが、色々あってこんな姿になっちゃったと、主人公は交流を続けていく内に自分と同じ言語が含まれている事に気付いていき、そして~~っみたいな感じでして!」
「な、なるほど……」

 肝心な所を飲み込んで、大喜は流暢に説明をしてくれた。改めて小説に目を落としてみるが、やはり表示される文字列からは説明された情景が全く見えてこなかった。

「大喜さんは相当読み込んでるんですね」

 そうじゃないと、とてもそこまで理解することは出来ない。いや、読み込んだとしてもそうやって理解する事ができるのだろうか。それほどまでに難解な文章を見ていると、だんだん目が回るような錯覚を覚えて視線を逸らし、スマホを返した。

「それじゃ、次はこっちを見て下さい」
「は、はぁ……」

 改めて手渡されたスマホを渋々受け取ると、画面には同じように文字の羅列が並んでいた。しかし、さっきとは全く違う。程よい余白を挟んで並べられた文字はとても見やすく、文章も軽快だ。伝えてくる内容も明確でそれ以上の情報は全く入ってこない。この明確さはビジネス文書に近い物を感じる。だが、決して硬い訳ではない。

「――どう?」
「面白いと思います」

 話は途中までしかなかったが、苦も無く入り込む事が出来た。普段小説なんて読まないが、最後まで用意されていたらきっと読み進めていただろう。そう思わせる内容だった。タイトルを確認しようと作品一覧に飛んでみると、作者の名前に『兎山直久』と書かれているのを見つけた。

「成る程。この作品が大喜さんの推し作品なんですね」
「……この作品『も』です」

 くぴくぴとビールを口に運びながら大喜は言う。『も』という事は、もしかして……。そう思って適当な作品を覗いてみると、先程見た作品と同じように、ソースコードが画面いっぱいに映し出される。吐き気を催す情報量に堪らず目を逸らして、スマホを返す。

「見比べてどう思いました?」

 大喜さんの言葉に押し黙った。彼女の悲しそうな表情は、僕がどう答えるのか既にわかっているように見えたから。きっと、彼女は文字に溢れた難解な小説が好きだったのだ。内容を説明する大喜さんは見たこともない笑顔を見せていたのだから。黙ったままでいると、大喜さんがゆっくりと話し始める。

「私、文字に溢れたこの小説が好きなの。傍から見れば乱雑ともいえる文字の海だけど、そこには確かに伝えたい意図が隠れていて、読み解く度に……あぁ、この人は頭の中にある出来事を一生懸命に伝えようとしているんだなって思える。そんなお話が好きだった」
「今は違うんですか?」

 大喜さんはかぶりを振った。

「読みやすくなったけど、決して手抜きじゃない。前よりも読み手とコミュニケーションを取ろうと頑張って言葉を考えてるのが伝わってくる。これなら読んでくれる人も増えると思うけど……けどぉ」

 複雑な表情を浮かべた大喜はビールを煽り、またしてもうなだれてしまった。

「なんだかなぁ……嫌だなぁ……」

 大喜はぽつりと言うと、黙り込んでしまった。たかが小説一つでよくもここまで取り乱すものだと改めて思う。落ち込む彼女の様子はまるで恋心を抱いた少女のようだ。そう思ったら、彼女の感情にピンときた。
 これは嫉妬だ。凄い人物だと、自分だけが理解していると思っていた相手が他の人間に理解されるのが嫌なのだ。ちやほやされ、もてはやされ、どこか遠くにいってしまう。凄いと思うからこそ、確実に来るその時を予感して、どうしようもない感情に襲われているのだと思った。

「大喜さん……」
「……飲むぞ」
「えっ?」

 不意に聞こえた言葉に聞き返すと同時に、大喜が体を起こす。

「今日は飲む! こういう日は飲むに限る! 飲んで忘れてしまおう!」

 言いながらハイボール缶を開けて一息に飲み込んだ。よく見てみると、大喜さんの周りには大量の空き缶が並べられていた。いつのまにこんな飲んでたんだ⁉ 顔を赤くした大喜さんはゆったりとした動きで顔を寄せてくる。

「もりやぁ、おまえものめ。うんまいぞぉ」
「う、酒臭っ」

 アルコール臭をまき散らしながら、飲みかけの酒を口に持ってくる。彼女が口を付けた飲み口を見て一瞬ドキッとしたが臭気ですぐさま我に返る。

「ほら、のめのめ~!」
「ちょ、ちょっと待っ~~!」

 言ってる間に酒を口に詰め込まれ、植木に水をやるように流し込まれた。流れ込む酒に喉を鳴らすと、大喜は嬉しそうにうははっと笑い声を上げていた。

「いいのみっぷりじゃんか~。よし、つぎこれいこう」
「え、それって……」

 大喜が持っていたのは焼酎だった。達筆で鹿児島の地名が書かれた四合瓶。安くて美味しい庶民の味方。そいつの蓋を開けた大喜さんは流れるように僕の口に放り込んだ。

「~~~~‼‼‼‼」
「うはははっ、めがとびでそうになってるっ、おもしろ~!」

 ゴポッゴポッ! と、勢いよく減っていく瓶の姿を最後に、目の前が真っ暗になった。



 ひんやりとした感触を覚えて目を覚ますと、視界の先に瓶が転がっていた。茫然と瓶を眺めていると、脈打つように頭が痛み、体を起こす。

「なんだこれは……」

 周りを見渡すと、部屋の中には酒瓶の他に空き缶が散乱していて、スナック菓子が酒で出来た水たまりに浮かんでいる。とても自分の部屋だと思いたくない、地獄のような光景だった。

(確か……昨日大喜さんを部屋に上げて、話しを聞きながら酒を飲んで――)

 断片的な記憶を辿って昨日の事を思い出す。確かに二人で飲んだはずだが彼女の姿はない。家の中を確認するがどこにもおらず、リビングに戻ってくると机に書置きを見つけた。手に取ってみると非常に綺麗な文字で、

『本当にすいませんでした』

 とだけ書かれていて、書置きの下には一万円札が置かれていた。茫然としているとアラームが鳴った。確認してみるといつも通りの起床時間だった。改めて辺りを見渡していると、なんだか可笑しくなってきて笑みを浮かべる。
 普段とは全く違う目覚め。片付けていたら間違いなく仕事には間に合わないだろう。考えるだけで気が重くなるのに、それでも可笑しくて、気が付いたら声を出して笑っていた。ひとしきり笑った後、スマホの電源を切った。
 ただなんとなく、本当になんとなく、無断欠勤してみたくなった。そう思い電源を切った。今までそんな事をしたことは一度たりともないというのに。いやはや人生とは、本当に何が起こるかわからないものだ。

「とりあえず片付けるか」

 散乱したゴミを見てから、僕は大きく伸びをした。
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