隣の家のありす

FEEL

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「頼むからもっと真面目にやってくれよ名出川ぁ。この企画がぽしゃると家のローンが払えなくなるんだよぉ……」

 重ねて言うが、柳田は普段は温厚な人物で、こんな顔面くしゃくしゃにして泣き出す中年ではない。

「だから大丈夫ですって、きっちりやりますから……柳田さんは少し休んでください。情緒不安定すぎておかしなことになってますよ」
「仕事してないとおかしくなりそうなんだよぉ……」

 めそめそと呟いた柳田は嗚咽を上げながらPCに向き合う。家族を養うのは大変なんだな……。柳田の心労を心配しつつPCを閉じると、さっきまで赤を入れていた兎山の原稿を鞄に詰め込み、席を立った。

「ちょっと外行ってきます」
「おおぃ……仕事してくれよぉ……」

 ゾンビのような柳田の声を無視しつつ、スマホを取り出す。アドレス帳から兎山の名前を見つけて通話ボタンを押した。三回ほどコール音がしてから、兎山が電話に出る。

「――あ、名出川です。今少しお時間よろしいでしょうか」
『大丈夫ですけど、どうかしましたか?』
「今からそちらに向かいますので、詳しい事はそこで」
『えっ、そちらに向かうってどういう――』

 何やら話している途中だったが、構わず電話を切ると、タクシーを止めて乗り込んだ。会社から彼の家までは一時間前後、電車だとそれより時間が掛かる分安かったが、とにかく急いで話を聞きたかった。どうして急にあんな小説はなしが書けたのかを。



「それで、お話というのは……?」

 お茶を出しながら、名出川さんに尋ねる。急にやって来た彼女はいつもと変わらない様子で机を見ていた。

「新しい話を書いてるんですか?」
「え、はぁ。まぁ……」

 名出川の質問に、俺は曖昧に返事をした。
 机の上にのっている原稿はさっきまで執筆していたものだった。しかし新しい話ではない最後に名出川に渡した原稿を改稿したものだ。話の内容はそのままに、できるだけわかりずらい言い回しを排除して、日常会話で使われるレベルの物に変えただけだが、それでも普段やらない手法だけに大変な労力で、まだ冒頭すら書き終わっていなかった。

「少し拝見しても?」
「……どうぞ」

 原稿を名出川さんに渡すと、彼女は一礼してすぐに原稿に視線を落とした。
 正直な所、この改稿には全然自信がない。なんせ今まで頭を捻って作っていた世界観を大幅に削除したものだからだ。わかりやすくするためには、余計な情景はノイズになる。見せるのは必要最低限だけ。そう思って削っていく度に、なんだか手を抜いているような気持になってきて、小説に対してとても失礼な事をしているような気分を感じていた。

「――。」

 名出川の様子をちらりと見ると、いつもと変わりなく、ただ黙々と作品を読んでいた。他の誰かに見せる時と違い、名出川に見せている時の沈黙は重く、苦しい。それは当たり前で、彼女の裁量で雑誌に載るか否か、つまりプロの原稿と認められるかどうかという答えを待っている状態なのだ。緊張しない訳がない。入試の合格結果を待つ浪人生のような心境で、彼女が読み終わるのをただ待った。

「――これ、WEBで投稿した作品ですよね。投稿されたものより少し内容が変わっていますが」
「え、見たんですか?」
「たまたまタイミングが合ったので」

 言いながら、最後まで読み終えた名出川は最初の原稿に戻ってそのまま小説を読んでいた。

「いつもとかなり調子が違いますね。わかりやすく簡潔で、見せたいものが伝わってくる」
「あ、ありがとうございます……褒められてるんですよね?」
「そうですけど、何か?」

 信じられずに聞き返すと、棘のある口調で名出川が言う。

「いえ、いーえぇ、ありがとうございます……」

 心配を余所に名出川の反応は良好だった。淡々と伝えてきた彼女は小説に目を通し続けている。それだけ目を引く内容だったということだ。簡潔な文章を見て内心では失望されてしまうとまで考えていただけに。名出川の反応は嬉しく、じわじわと喜びが沸き上がる。
 原稿から目を離した名出川は、長い吐息を吐き出す。

「この感じだったら、掲載も可能かも知れません。少なくとも私は面白いと思います」
「ほ、本当ですかっ⁉」
「えぇ。とりあえず再来月辺りを目安に原稿を仕上げてみましょう。会議で出してみます」
「あ……再来月、ですか」

 具体的な日付を聞かされ、喜びの感情がどんどん萎んでいく。

「……? 二か月あれば問題ありませんよね?」

 俺の様子を見た名出川さんは疑問符を浮かべて首を傾げる。
 普段の俺だったら二か月あれば長編小説を一本上げるのは何も問題はなかった。しっかりと推敲する余裕があるくらいだ。だが、今回に関しては話が別だ。なんせ全く違う手法なのだ。どれくらいの時間がかかるのかは俺自身にも想像がつかなかった。
 完成原稿そのものは余計な文章が削ぎ落されて簡略化されているが、実際の工程は増えている。まず普段通りに書く。そして推敲。読み直して大事な部分以外は削る作業が入る。そこから全体を確認して微調整を行うのだが、ここの部分が大変な労力を割いていた。
 一度省いた文字も、見返せば足りなく感じる。思ったままに追加すればいつも通りの小説になってしまう。簡略化に慣れてない俺は、丁度いいバランスがまだ掴めずにいた。

「間に合うかどうか、わからないです。すいません」

 姿勢を正して頭を下げた。受けれないという意思表示だ。
 締め切りというのは実際の入稿タイミングよりも前倒しされているものだ。今回だってそうだと思う。そうしないと万が一遅れた時に雑誌に穴が開いてしまう。そうなったら作家は勿論、出版社にだって絶大なダメージが入る。まだ手法を確立していない状況で、そんな責任を負う覚悟はなかった。

「……そうですか。まだ試行錯誤の段階みたいですし、仕方ありませんね」

 少しだけ残念そうに声を落とした名出川は、こちらの意図を汲んでくれたようだった。鞄からクリップで止められた小説を取り出して、手渡した原稿と一緒に手渡してきた。

「間違いなく良くなってますので、このまま続けてみてください。持ち込みならいつでも受け取るので、完成したら連絡してくださいね」
「ありがとうございます」

 感謝の意を込めて、もう一度頭を下げた。俺の作品を評価し、どこまでも手を貸してくれる名出川さんには文字通り頭が上がらない。
 名出川は立ち上がると、こちらをに顔を向ける。

「それじゃ、私は帰ります。続きの方も頑張ってください……とても楽しみにしてます」

 口元を弛ませ柔らかな笑顔を見せる名出川は、普段感じる無機質な印象と違い、酷く女性的だった。思わず見とれてしまった俺は、彼女の顔を見たまま固まってしまう。

「……では、失礼します」

 少しの間互いに見つめ合っていると、少しだけ頬を染めた名出川は咳払いを一つしてから玄関に向かった。慌てて後を追いかけて、靴を履く名出川を見送る。

「「あっ」」

 玄関を開けると、ほぼ同じタイミングで女性の声が重なった。一つは名出川の物で、もう一つはなぜか家の前にいた大喜のものだった。大喜さんはスーツ姿で、肩まである髪の毛をハーフアップにまとめていて縁の太い眼鏡を掛けていた。普段のラフな格好と違って、会社員らしいピシッとした姿だ。

「大喜さん? どうかしました?」
「えっ、あ、ちょっとお話が、えっ、えっ???」

 あたふたとしながら俺と名出川さんを交互に見つめる大喜さんは明らかに狼狽していた。そんな彼女に対して名出川さんは淡々と頭を下げる。

「どうも、兎山の担当をしてます名出川です。そちらは?」
「あ、え? んん? うぇ??」

 混乱した様子の大喜さんは名出川さんの挨拶を聞いて更に狼狽した。困惑と驚きが混じったような、複雑な表情を見せながら間の抜けた声を繰り返す。
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