隣の家のありす

FEEL

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名出川なでかわ、台割り出来たか?」

 山積みになったデスクから顔を覗かせた男が言った。先輩の柳田やなぎだだ。雑誌から顔半分だけ覗かせた柳田は疲れた顔でこちらをぎろりと見る。

「もう少しかかります」
「そうか、会議まであまり日がないから急げよ」

 素っ気ない態度で言う柳田に頷いて返した。本来は物腰の優しい温厚な人間なのだが、相当疲れが溜まっているようで所作がなげやりになっている。だが、柳田の態度は仕様がないものだった。
 私が勤めているこの会社は出版会社だ。主に連載、短編小説を取り扱う雑誌を発行している。発行といっても大した部数はなく、大手の会社と比べると雀の涙ほどの流通しかしていないどこにでもいる零細企業だ。
 経営は綱渡り。それでもなんとかやっていけているのは固定層の読者がいるからだ。今の時代、小説誌を発行している出版社は珍しい。必然、小説を求める読者は家の本を購入してくれているのである。

 だが、それも限界が来ていた。売り上げは徐々に落ちていき、このままだと廃刊してしまうのは時間の問題だった。この会社の主力商品である小説誌が廃刊になれば会社も畳む事になる。それを避けるために、会社内では新しい雑誌を作って販売しようと慌ただしくしていた。
 無論、懐事情に余裕がある訳もなく、これを外してしまえば会社はなくなってしまう。だから少しでも良いものを作ろうとみんな必死に働いていた。

「なんだそれ――うわっ」

 柳田は私が手に持っていた原稿を見ると目を丸くして悲鳴のような声を上げた。

「マジでなんだそれ、辞書? 用語辞典?」
「普通の小説ですよ。赤入れてる所です」
「えぇ……入れるところないだろそれ」

 編集部に持ち込まれた原稿は校正・校閲等の作業が何度か入り、ようやく雑誌に掲載される。その前段階で作品に改善点がないかのチェックをしていく。より面白く、わかりやすくするために引っ掛かる部分を見つけて提案を書き込むのだ。こういう作業では主に赤ペンを使う事から『赤を入れる』と言われていて、とても大事な作業なのだが一作品を通しで見る訳だから勿論時間はかかる。

「その原稿、今度の奴に使うのか?」
「いえ。まだ使いません。とてもそんなレベルじゃないですね」

 作品を読みながら伝えると柳田は「はぁ⁉」と素っ頓狂な声を上げた。

「つまりそれ、持ち込み原稿って事か? このくそ忙しいタイミングで何やってんだよ!」

 水中で漂う海藻のように手足を動かして柳田は声を荒げる。

「気分転換ですよ。ちゃんとやる事はやってるのでお気になさらず」
「気になるっつーーーーのっ! こっちは家庭がかかってるんだぞっ」

 今度は顔を真っ赤にしてタコのように口をすぼめていた。柳田は私が思っていたよりも疲れでハイになってるようで、見ていてとても面白い。
 柳田は子供が生まれたばかりで何かと物入りな状態だ。だからこそ会社が無くなったら文字通り命取りな訳で、誰よりも頑張っていた。そんな状況で今進めている仕事と全く関係がない仕事をしていれば、彼の興奮具合も無理はない。

「とにかく、台割りはきっちり用意しますからお構いなく、柳田さんもこっちに構ってる暇ないでしょう?」

 赤くなった顔を見てはっきりと言うと、何も言えなくなった柳田は不満の表情のまま、雑誌の山に隠れていき、タイピングの音が聞こえてきた。改めて小説に目を通す。今見ているのはそこそこ長い付き合いになる作家の原稿だった。
 ペンネームは兎山直久。本名をそのまま使っている彼の作品はとにかくわかりずらく、癖が強い。創作に殉ずる人間ほど個性が強い物だが、彼の作品は明らかに行き過ぎだった。
 複雑な世界観を表現するために古文からはじまり、常用外漢字、はては漢文を駆使して文章を構築している。文章の基本は漢字が三割ひらがな七割と言われているが、彼の文章はその逆を進んでいた。柳田が思わず辞書と言ったのも頷ける。

(でも、話は面白いんだ)

 辞書を片手に作品を読み進めると、兎山直久という人間性が見えてくる。ぶっきらぼうで几帳面、繊細でおおざっぱ、面倒臭がりなのに世話焼き、矛盾する感情がキャラクターに憑依して、読者に語り掛けてくる。人によって感じ方の変わる考え方は何度見ても飽きることはない。間違いなく兎山直久は天才の類だ。だが、

「……癖が強いんだ」

 原稿に赤ペンを走らせる。辛うじて書き込む事の出来る行間はもう真っ赤になっていた。どれだけ精密な世界を作り上げたとしても、理解ができないのなら意味はない。英語が読めない人間に英語小説を読ませるようなものだ。
 実際、精力的に活動している彼は小説投稿サイトにも作品を投稿しているが、周知される暇もなく埋もれていく。すべての作品についているお気に入り件数一件も、恐らく本人によるものだろう。そう考えると少し悲しい気持ちになってくる。

 本来ならこの時点で相手にする時間はない。こちらも仕事なのだ。売れる見込みのない作品に構っている暇もないし、盛り上げる時間も金もない。それでもこうやって赤を入れているのは、信じているからだ。私は運よくダイヤの鉱脈を見つけて、磨き上げているという事を。
 原稿を粗方読み終えてパソコンを起動した。次に掲載する小説の校正に原稿の受け取り、デザイナーとの打ち合わせとやるべき事は積み上げられた雑誌と同じく山のようにある。作業を開始する前に小説投稿サイトに移動して兎山の作品をチェックすると、先ほど投稿された作品があった。

「短編……」

 文字数を見て口ずさむ。普段投稿されている彼の作品は二十万を超える長編だけだ。今しがた上げられた小説はその中で唯一、一万文字程度の短編だった。彼の作風を考えると一万程度の文字数では冒頭も終わらせる事は出来ない。もしかして投稿を失敗してしまったのだろうか。眉をひそめながら小説を開いた。

「――――。」

 開いた瞬間、最初に考えたのは別のだれかの作品と間違えてしまったという事。今までと打って変わって文章は現代用語に置き換えられていて、漢字は必要最低限しか使われていない。だが読んでみると、すぐさま兎山の作品だと理解できた。
 簡略化された世界は無限に広がる大地はなくなり、大衆は見えず、目の前の情景しか捉えられない。でも、だからこそ、彼の頭の中が、彼の見せたいせかいがはっきりと伝わって来る。情報量は減っているはずなのに、それなのに頭の中には濃度の高い世界が溢れこんできて息もままならない。

「――はぁ」

一万文字の物語を読み終えて、私は思い出したように息を吸い込んだ。意識はしっかりしているが、目の前の光景が現実のものとは思えなくて茫然としていた。頭の中では今読んだ作品がぐるぐると周り、帰ってくることが出来なかった。

「んおおぉぉぉぉぉいっ! 何ぼーっとしてるんだよ名出川ぁ!」

 急な怒声に体を弾ませると、急に現実に引き戻された感覚がした。振り向いてみると柳田はフグみたいな表情で頬を膨らましていたと思うと、瞳に涙をためて情けない表情になっていく。
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