隣の家のありす

FEEL

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 すっかり陽の落ちたオフィスで、PCと向き合っていた。時間は夜の八時。大方の人間が帰ったオフィスないはしんとしていて、数人の社員が同じようにキーボードを打ち込む音だけが聞こえていた。今日もまともな時間には帰れそうになかった。
 一ノ瀬涼香いちのせすずかは大きく背伸びをした。派遣社員である彼女の定時は五時なのだが、ここ数か月、既定の時間に帰れた事はない。他の人間がやるべき仕事を引き受けていたからだ。
 無論、好きで引き受けた訳ではない。こうしないと車内での評価が悪くなるからだ。派遣社員である以上、評価が下がれば職場から外される、外されれば給料がなくなる。娘を持つ身としては、それだけは避けねばならなかった。

「一ノ瀬さん、これもお願いできますか」

 山積みの書類を持ってきた男性だ、言いながら書類を机に置いた。拒否権を感じさせない物言いに私は機械のように頷いた。
 机の上には既に書類が積まれていた。同じように人から渡された書類たちだ。あまりの膨大さに、気が滅入る暇もない。ただ淡々と与えられた仕事を消化していった。

 データ整理に資料作成――粗方終わらせて時計と見ると終電間近だった。他に残っていた人は既にいなくなっていて、オフィスに残っているのは私一人だった。まだ仕事が残っているのだが、このままだと帰れなくなるので帰り支度を整える。退社間際、残した資料をちらりと見てオフィスを出た。

 憂鬱だ。

 電車に揺られて思ったのは明日の事。残していった仕事は急ぎの物ではなかったのだが、当然のように明日までに完成させて渡す運びとなっていた。まだ手付かずだと知れたら何を言われるかわかったものではない。それを回避するには明日、誰よりも早く出社して残った仕事を片付けなければならない。そう思うと自然とため息が漏れてしまっていた。ガラガラの電車に揺られるこの時間が、とても勿体なく感じる。

 本当は職場に残って仕事をしたい。仕事を終わらせて近くのネットカフェで仮眠でも取る方が遥かに楽だから。だけど、そんな事をすれば娘を一人で家に残すことになる。娘はまだ六つだ。そんな小さな子供を一人残す訳にもいかない。そう思っていても、仕事に追われていると、どうしてもこの時間が億劫に感じてしまう。またしても口からため息が漏れていた。

(あれ……)

 家に着いて、いつもと同じように鍵を開けた私は部屋を見渡した。娘がどこにもいない。急いで電気を点けると家中を探した。キッチンから始まりリビング、ベランダ、寝室にお風呂場。対して広くもない部屋なのに、どこにも娘はいなかった。みるみる血の気が引いていき、鉛でも詰まったかのように体が重くなる。
その場に倒れこみたくなったが、必死に踏ん張って部屋の外に出た。家にいないのなら外に出たとしか考えられない。

「あっ」

 外に出ると低くて太い男性の声が聞こえて顔を向けた。視線の先には顔を隠してしまうくらいの長髪を左右にかき上げた男性が立っていた。男性は驚いた表情でこちらを見ていたが、私はそれ以上の驚き顔を見せて男性に近づいた。

「ありすっ!」

 男性の胸元には娘が抱えられていた。すやすやと寝息を立てる娘は普段通りの姿でどこも異常を感じられない。よかったと安堵の息を漏らしてから、男性を睨みつけた。

「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「え、いやちょっと、恐らくですけど、何か勘違いしてますよ」
「ど ち ら 様ですか?」
「と、隣のものです……あなたはありすの母親、で間違いないですか?」
「えぇ、そうですけど」

 人の娘を呼び捨てで呼ぶ、馴れ馴れしい態度に眉をひそめる。しかし男性は気にした様子もなく笑みを見せた。

「そりゃよかった。預かっていた娘さんをお返しにきました」
「なっ!」

 男性の言葉に、私は目を丸くした。男性とは初対面だ、勿論子供を預けた覚えなどない。それをさも当然のように言ってのける事に驚いていた。男の容姿はだらしがなく、目も伏し目がちで怪しさを点数で表すならば百点満点の容姿だった。そんな人間が娘を抱えて『預かっていた』なんて……不気味にしか感じない。

「何が目的ですか……?」
「は?」
「娘を捕まえて、何が目的なんですか?」
「待って、ちょっと待って」

 電話を取り出して男性を睨みつけると、慌てた様子でこちらを見る。

「やっぱり勘違いしてますよね⁉ 違いますよ⁉ 娘さんが俺の家で寝てたんですけど、全然起きないから部屋まで送ろうと思って――」
「なんで娘が身も知らぬ男の所で寝てるんですか、おかしいでしょうっ」
御尤もごもっと全くもって御尤もなんですけど、俺とありすは面識があってですね、ちょくちょく部屋にやってきてはこうやって送ってやるくらいの仲で……」
「ロ、ロリコン……!」
「断じて違うっ!」

 110にダイヤルしようとするが、すんでの所で男性に止められた。

「とにかく、怪しいものじゃないから説明させてくれ。あんまり騒ぐとこいつが起きちまう」

 男は軽く腕を揺するってありすを見せる。ありすの寝顔は安らかなものだった。仮に嫌な目にあっていたら、こんな無警戒な姿は見せないだろう。

「……わかりました、とりあえず家に来てください」

 開けっ放しになっていた部屋に男性を招くと、迷いなく寝室まで向かった彼はありすを寝かしつけて戻ってくる。どうやら色々と聞く事がありそうだ。



「大体の話はわかりました。いつも娘の面倒を見てくれてありがとうございます」

 俺がありすと出会った経緯から今までを説明すると、ようやく彼女は納得がいったように頭を下げた。

「ですけど、寝かしつける為とはいえ、部屋に無断で入るのは明らかにやりすぎです。控えめに見ても犯罪行為ですよ」
「……すいません」

 その通り過ぎて何も言えない。とにかく俺は頭を下げる。機嫌を損ねて通報されたら堪ったものじゃない。

「まぁいいです。娘を一人置いて家を空けている私にも非はありますから」
「はぁ……えと、なんてお呼びすれば?」
「一ノ瀬です、一ノ瀬涼香」
「一ノ瀬さんは、今までお仕事を?」
「えぇ、それが何か?」
「いえ、大変だな~って」
「稼げる人間が私しかいないんですから、当然の事です」

 凛とした態度で一ノ瀬さんは言ってのける。その通りなのだろうが、ここまで弱い所を見せずに堂々と言えるのは大したものだと思う。改めて彼女を見てみれば、ピシッとスーツ姿で決めていて、出来る女って雰囲気が滲み出ている。服装だけではなく佇まいもしっかりしたもので、綺麗に背を伸ばした姿は会社員の模範たる姿を思わせた。

「立派ですね。それだけしっかりしてるなら、会社でも頼りにされているでしょう」
「……えぇ、まぁ。それなりに」

 一ノ瀬さんは少しだけ言い淀んだ。何か気に障ったかと思ったが、考えを中断させるように一ノ瀬さんは話を続けた。

「兎山さんのご職業は?」
「あ~……小説家、です。はい」

 最近めっきりフリーター業に勤しんでいるが、気持ちは小説家だ。バイトの方が稼ぎ多いけど、バイトしないと生活費払えないけど!
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