雪解けの前に

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雪解けの前に

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「暖かい?」

 燈は目蓋を閉じる。

「ふふ。美少女鬼谷さんの人肌だぞ。有難く温まり給え」

 子供みたいに微笑んだ鬼谷はそう言うと椅子に座ったようで、パイプ椅子が軋む音と一緒に視界から消えた。
 それから彼女はずっと喋らなかった。燈も喋る事が出来ず。呼吸器の音と廊下の喧騒。壁に掛けられた時計の音。どれもが心地いい音量で聞こえてきていた。

 鬼谷とこうやって静かに過ごすのは初めての事だったが、悪くはなかった。
 このまま、眠るように死ねたならどれだけいいだろうか。そう思えるくらいだった。

「寂しいね」

 だが鬼谷はそうは思っていなかったようで、ぽつりと呟く。

「燈君がいなくなったら、私は本当に一人だ。それは凄く寂しいな」

 淡々とした口調で話す鬼谷に罪悪感が募る。
 しかしそんなことを言われても、もう自分にはどうする事も出来ない。

「だから、私は燈君を生かす事に決めたよ」

 少しの沈黙の後、鬼谷がそう言った。

「これは私の我が儘だ。燈君はそんな事望んでないのかも知れない。なんならもう終わらせようと思ってるかも知れない。それでも私は考えて、考えて。君に生きていて欲しい。そう思ったんだ」

 さっきまで考えていた気持ちを見透かされてしまったようで、燈はどきりとした。

「もう頭の中が大混乱でさ、迷ったよ。燈君を失いたくないし、燈君の気持ちを尊重したい。どうしたらいいのかいっぱいいっぱい考えた。でも答えが出なかった」

 鬼谷の顔が現れてこちらを見つめる。

「だから、君に決めてもらう事にした」

 真剣な表情に燈は面食らった。
 生きるか死ぬか。
 僕の人生の決定権を鬼谷が持ち合わせていると本気で考えている瞳だった。

「片方の目を閉じれる?」

 鬼谷に言われて燈は左目を閉じた。

「じゃあ、まだ生きていたいなら左目を閉じて。……そうじゃないなら、右目を閉じて」

 鬼谷の表情は真剣そのもので、冗談を言っている様子はない。
 燈は――どちらの瞳も閉じなかった。

 自分の将来が想像できなくて、生きる事が決められない。
 苦しいだけの人生だったけど、だからといって終わりにしたくない。

 考えて、考えた。
 だけども結局、どちらの答えにもいきつくことが出来なかった。

「――もしも生きたいのなら」

 息を漏らして鬼谷が言う。

「今日の夜。消灯時間を過ぎる前に屋上に来て。私はそこで待ってる。君を待っているよ」

 鬼谷の腕が伸びてきて頭を優しく撫でられる。

「来てくれると信じてる。一人は寂しいからね」

 そう言い残して鬼谷は視界から消えた。
 ペタペタとスリッパの音が遠ざかっていく。

 去り際の鬼谷の顔が頭に浮かぶ。泣き出しそうな、微笑むようななんともいえない表情。
 いったい、彼女は何を考えているのだろうか。
 燈の容態は見るからに悪い物で、ここから快復するなんて医者じゃなくても無理だと思えるほどだ。
 それなのに彼女は「生かす」と言いきった。自分ですら諦めようとしている命を。
 普段はちゃらちゃらとして言動も軽い彼女だが、そんな人を不安定にさせるような冗談は言わない人だ。だから彼女なりに何か考えがあるのだろうけど、それで容態が良くなるとは到底思えなかった。

 でも――。

 燈は考えを止めて、目を閉じる。
 色々と考えすぎて疲れてしまったのか眠ってしまったようで、次に目を覚ました時には陽が落ちていた。
 部屋の中は暗く。人の声は聞こえない。
 試しに腕を動かしてみると少しづつだが、動かす事ができた。
 久しぶりに身体を動かす事が出来た燈はゆっくりと時間をかけて上体を起こす。

「……そりゃ寒いはずだ」

 窓の外を見ると雪が降っていた。
 鬼谷が寒いと言っていたのを思い出して呟いた。

「ん……ふぅ」

 鉛のように思い足を動かしてベッドから出る。大分体調がいいようで、支えがあればなんとか動けそうだ。
 扉を見ると隙間から光が漏れている。消灯時間はまだ過ぎていない。
 鬼谷が本気で言っていたのなら彼女はこの寒空の中、屋上にいるはずだ。
 そして今まで動かかなかった体は都合よく動いてくれる。まるで運命がそうするべきだと言っているような気がした。

 燈はベッドの上にあるストールを手に取って病室を出た。

「はぁ……はぁ……」

 動く。とはいっても体はとても重く。少し歩くだけで息が上がる。
 同時に頭痛がやってきて、視界がぐらぐらと揺れてきた。
 それでも燈は必死に歩いてエレベーターに乗り込んだ。

 最上階に登るまでの間。鬼谷と過ごした日々を思い出す。
 何年も何年も一緒にいた友達。
 くだらない事で笑い合った。
 一緒に悪戯をした。
 共に苦しんで、孤独を分かち合った。

 燈の中では鬼谷はもう、他人ではなかった。
 彼女は友達であり、姉弟であり、戦友だ。
 そんな彼女が、待っているといったのだ。

 燈は自分の生き死によりも、一人で待つ彼女の為に屋上を目指していた。
 エレベーターを降りて屋上への階段を登る。
 少しは休憩したとはいえ、平地と違って階段はとても辛く。一段登るのに何十秒もかかった。
 それでもなんとか登り切り、燈はやっとの思いで屋上への扉に手を掛けた。

「……お待たせ」

 白くなった屋上に鬼谷が立っていた。
 振り続ける雪と同じくらい白いワンピースを着こんだ彼女がこちらを見る。まるでどこぞのロマンチストが書いた絵画のような光景だった。
 ずっと見ていられそうな光景に燈は踏み込み、鬼谷にストールを差し出す。

「これ、ありがとう。暖かかった」
「そう。良かった」

 ストールを受け取った鬼谷はその場で羽織るように肩にかける。

「来てくれると思ってなかった。もう生きているのに嫌気がさした表情だったから」
「……まぁ。でも、あんな言い方されたら来ないわけにはいかないからさ」
「ごめんね。どうしても来て欲しくて、少しいやらしい言い方しちゃった」
「……まぁいいけど」
「ふふ。少しお話がしたいんだけど、いいかな?」

 燈が頷くと鬼谷と一緒にいつものベンチに腰掛ける。

「話って?」
「うん。私の病気の事。燈君も気になってたでしょ」
「あっ」

 鬼谷に言われて燈はハッとした。
 そういえば、いつかこのベンチで聞いた記憶がある。しかし適当にぼかされてしまって、そのままになっていたんだった。

「実は私ね。どこも悪くないの」
「また……自分で話を振ったんだから、はぐらかさないでよ」
「本当よ。私はどこにも異常はない。例え悪くなったとしても、すぐに治ってしまう」

 そう言って鬼谷は自分のネームプレートを外す。一緒についている安全ピンの針を腕に宛がうと、そのまま自分の腕に突き刺した。

「何してるのさっ!」
「いいから……見てて」
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