雪解けの前に

FEEL

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Missing you

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「――ちょっと、ねぇちょっとっ!」
「む……咲季、少しうるさい……」
「何言ってんの! 風邪引くよ!」
「んあ……?」

 身体を揺すられて目を覚ますと目の前にはベンチを用意してくれた女性がいた。

「あ、目を開けた。良かったー! 動かないもんだから一瞬お迎えがきたもんかと思ったよ」
「……あぁ、これはどうも」

 辺りを確認すると陽が傾き始めていた。どうやら物思いに耽っている間に眠ってしまっていたようだ。

「私はいつからこうしていました?」
「さぁ、私が買い物に行こうと外に出たらいたから……ずっといたのなら3・4時間ってところかしら」
「そうですか。これは失礼しました」
「いえいえ、別にいいのよ。病院通いで疲れてるみたいだし、一緒に検査してもらったら?」
「そうですね。考えておきます」

 言いながらベンチから立ち上がる。身体が固まってしまったようでバキバキだ。
 腕時計で時間を確認するとまだ病院の時間には間に合いそうだった。

「それでは、私はこれで。ありがとうございました」
「はいはい。気を付けてね」

 会釈をしてからバス停へと移動する。
 それにしても随分と懐かしい夢を見たものだ。
 あれから咲季と一緒になり、色々な土地を点々と渡り歩いた。報復を恐れての移動だったが、結局移動している間に暴力団は解散してしまい、逃亡は意味のないものになってしまった。
 しかし外の世界を知らない咲季にはいい刺激だったようで、新しい土地に移り住む度に目を輝かせてこれからの生活に想いを馳せていた。子供みたいに無邪気な姿を見る度に、仕事への活力を貰ったものだ。

 でも、結局はここが一番良い。
 咲季と出会ったこの土地が。

 バス停に着くと丁度同じタイミングでバスがやって来た。座席に座ってバスが発車してからもずっと、泰三は外の景色を眺めていた。どこもかしこも新しく、60年前の面影は全くない。それなのに、毎日のようにこの光景に懐かしさを感じていた。
 この土地に帰って来たのは咲季の提案だった。津々浦々を回ったが、やはり咲季にはこの土地に特別な思いがあったようだった。それは泰三にも同じ事で、咲季の提案に二つ返事で戻って来たのが十年前。思えば咲季はこの時から違和感があったのかも知れない。

「……雪か」

 バスに揺られて少しすると、窓の外に綿のような雪が舞っていた。
 雪は見る間に視界を白く染めていく。このままいくと病院から帰るころには積もりそうだ。

 景色を眺めて暫くすると、目的地の病院が見えてくる。当時の大きさをそのままに縦に伸びた大病院。ここは咲季の屋敷の裏手にあった病院だ。あれから潰れることなく、数多の患者を救ってきた病院は向日葵のように上に伸びて大きなビルになっていた。
 咲季が入院することになった時、彼女はこの病院を希望した。父親との思い出が頭をよぎったのかも知れない。
 結局咲季はあの時から一度も父親と会うことはなかった。彼女は気にした様子を見せなかったけど、多少なりとも心残りがあったのだろう。

 バスが病院の前に着いて止まった。降りようとすると地面には既にうっすらと雪が積もり始めていた。
 病院に入って受付を済ませる。何回も繰り返してきたから看護師もこちらの顔を見てすぐに理解してくれていた。

「いつもご苦労様です、今日は少し遅かったから心配しました」

 体温を測りながら看護師が言う。

「こちらに来る前に少し寝てしまったようで。はは、流石に歳ですね」
「あら、私もそういう事ありますよ。毎日ですから、きっと疲れてたんですね」
「恐縮です」

 微笑む看護師に頭を下げてから、エレベーターを使って咲季の病室へと向かった。
 寒さのせいか廊下を歩く患者は少なく、しんと静まり返っている。
 病室の前に立ち、咲季のネームプレートを確認してからゆっくりと扉を開けた。

「咲季、来たぞ」
「あら、いらっしゃい」
「あぁ。調子はどうだ?」
「とても元気よ。でも少し寒いかしら」

 ベッドに座った咲季はこちらを見てシワを寄せる。

「外で雪が降ってるからな、今日は特別寒くなるぞ」
「あら本当に!? 私、雪が好きなの」
「そうだな……そうだった」

 咲季は手を伸ばしてカーテンを開ける。雪はしとしとと降り続けていて、咲季は笑顔を作るとこちらに振り向いた。

「ねぇ、あなた・・・は雪、好き?」
「……あぁ、好きだよ」
「本当に!? 嬉しいわ、あなたとはお友達になれそう。こっちに来て一緒に見ましょう」

 無邪気に笑う咲季の笑顔が歪む。目頭が熱くなったのを感じて顔面にぐっと力を込めた。

「うん、いいとも」

 咲季は認知症を患っていた。
 今は症状が安定して穏やかな状態を維持しているが、もう何年も咲季は泰三の事を認識出来ていない。
最初の違和感は60代になって間もなくの頃、咲季の物忘れが酷くなり、些細な忘れ物や何回も同じ事を聞く事が増えていた。
 本当に些細な違いで、咲季は元々抜けたところもあったから大して気には留めていなかった。しかし、それが何年も続いたころ、ボタンのかけ間違えや、ご飯を食べたのか忘れるといった聞き覚えのある症状が出てきて泰三は咲季を病院に連れて行った。
 その時点で相当認知症が進んでいたらしい。医者からの一般的な質問に咲季は頻繁に頭を傾け、わからないと言った様子で悩んでいた。その姿を見て泰三は絶望に近い感情を抱き、咲季の肩に手を触れた。すると咲季は、

「どなた? どうして泣いているの?」

 心配そうに声をかける咲季を見て、泰三は大粒の涙を流した。その様子を見ていた医者の勧めで、そのまま入院することになった。
 何かがあればこの病院に、咲季はそういってこの町に引っ越すのを希望した。その心境にもう少し敏感になっていれば、まだ彼女はまともでいられたかも知れない。咲季を見る度に後悔の念が込みあげる。

「綺麗ねぇ……積もるかしら」
「うん、雪も大きいしきっと積もるよ」
「本当っ、積もったら雪だるまを作りたいわ」
「あぁ、積もったら一緒に作ろう」

 咲季と話すたびに涙腺が壊れてしまいそうだった。
 楽しそうに話す彼女には泰三の存在が認識できていない。ずっと共に過ごしてきた彼女は姿形をそのままに霞のように消えてしまったのだ。
 一緒に過ごした日々。辛いときもあった。楽しいときもあった。料理に不慣れな彼女の手料理を何度も食べた。日がな一日、空を眺めて過ごした日々もあった。半生を超える日々を過ごした思い出が、今の彼女には殆ど無くなっている。それが泰三には辛くて、苦しくて、ただただ感情のままに泣き叫んでしまいたかった。

 でもそれは出来ない。
 一度涙を流してしまえば咲季の顔を見る度に涙を堪える自信がなくなるし、何より彼女との約束があった。

 神様が迎えに来るまで笑い合う事。

 屋敷から彼女を連れ出した時に言った言葉。
 婚姻関係しか咲季との繋がりを証明できなくなってしまった今では、この約束だけが咲季と泰三の心を繋ぐ唯一のものだった。
 それを失う訳にはいかないと、泰三はこの日まで泣き出しそうな気持を抑えていた。
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