雪解けの前に

FEEL

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Missing you

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 杉本泰三すぎもとたいぞうは病院行きのバスをベンチに座って待っていた。今年で76歳。喜寿も近くなった泰三は重くなった身体を動かして毎日病院に通っていた。
 病院といっても別に体が悪くなった訳ではない。あちこちガタがきているが動くことも出来るし意識もしっかりしている。目的は通院ではなく妻の見舞いだ。

「あら、おはようございます」

 ホースを持って家から出てきた女性に会釈をされると泰三は、「ああ。どうも」と挨拶を交わす。毎日病院に通う泰三を見かねて、わざわざ家の前にベンチを置いてくれた親切な方だ。おかげで辛い待ち時間が幾分も楽になった。

「今日もお見舞いですか?」
「えぇ」
「そうですか。毎日大変ですねぇ」
「はは、まぁ……でもこいつのおかげで楽になりましたよ」

 泰三はベンチをぺしぺしと叩くと女性は嬉しそうに笑みを浮かべる。

「良かったわぁ。たまに見かけた時、いつもしんどそうだったもの。置いた甲斐があったわ」
「恐縮です」

 椅子に座ったまま膝に手を置いて頭を深く下げる。正直なところを言うと、こういうお節介をされるのは苦手だった。しかし実際に助かっているので無下にはできない。「いいのよいいのよ」と言いながら女性は玄関先のプランターに水を撒いて家の中に戻って行った。
 息を吐いてから空を見上げる。季節は冬。空っ風がふきつけてくるが、空は綺麗な青色をしていた。いつ何時、地面の上で何が起きていたとしても空色は変わらない。空を見上げながら泰三は過去を思い返していた。

 60年前、冬。
太平洋戦争が終わってから戦後の復興に尽力していた日本は朝鮮戦争による特需によって奇跡的な経済的回復を見せた。そこで得た資金を元手に、僅か数年で国を立て直した日本は「奇跡の復興」を成し遂げて先進国の一つとして並び立とうとしていた。
 しかし、急激に成長するというのは何事もリスクが伴う。身体の成長痛しかり。急激な経済復興を見せた日本もまた、特需による揺り返しの不況や海外の文化を取り入れて急速に変わっていく文化。
そしていち早く金の匂いを嗅ぎつけた商人や反社会的勢力たちが水に落とした墨汁のように数を増やしていた。

 16歳になった泰三もその内の一人だった。戦後まもなく、食糧難で喘いだ両親は泰三を食わせる為に窃盗や強盗など、悪事に手を染めることがあった。もちろん好んでやっていた訳ではない。仕事はあれど物資の足らない混乱期では配給も満足に行き届かない時もあり、家族の多いところでは乞食の真似事をする家庭もあった。
 調味料は貴重品で多用等以ての外。米もなく、蒸かした芋が食えたら言うことはないという状況で、食料の無くなった時だけ泰三の家族は罪を犯すようになっていた。

 泰三はそんな事を知らずに健康に成長して、近所の子供と比べても一回り体が大きくなりはじめた時、泰三が気に入らない子供たちがどこから聞きつけたのか両親の悪事を泰三に話す。
 泰三は驚いて両親に問い詰めると否定はせず、言いずらそうに表情を曇らせるばかりで、そんな両親がみっともなく思えた泰三はその日の内に家を飛び出した。

 子供一人でこんな時代を生き抜くには地獄のような思いをしないといけなかった。皮肉にも両親の悪事に落胆して家出した泰三が16になる頃には、両親のやっていた事など霞んで見えるくらいの悪事を働く悪党に育っていた。
 体の大きかった泰三は窃盗だけでなく暴力行為も行い。近所ではちょっとした有名人となっていた。その腕を買われて賭博の未払い金を取り立てる金貸しの用心棒みたいなこともしたりした。
 そんな生活を続けていると当然、住民はもちろん泰三を警戒する。泰三を連れ歩けば悪党の仲間だと囁かれるものだから、悪党連中が声を掛けてくる機会も次第に減っていった。

「はぁ……」

 泰三は人のいない神社に入り込み空を見上げる。空はいい。じっと見ていても勝手に景色が変わっていくから飽きないし、なによりも金が減らない。
 暇が増えた泰三は一日のほとんどを空を眺める時間に費やしていた。腹が減れば少ない貯金をポケットに詰めて飯を食い、適当な寝床を見つけて再び空を眺める。泰三はその時間が好きだった。
 地面の上でどれだけ汚い事が行われていても、空は変わらず綺麗なままだ。じっと見ていると今いるところがとても綺麗で、空のように澄み渡る世界に感じられる。荒んだ生活をしていたが、その瞬間だけは心を落ち着かせることが出来た。

「……あの」

 なんと、今日の空は景観を楽しませてくれるだけではなく話しかけてきてくれた。

「あの、あのっ!」

 しかし話しかけてきてくれたのはいいが、なんとも煩そうな物言いだ。

「あの、そこの人! 無視しないでくださいっ」
「……あん?」

 ため息を吐いてから泰三は声の方向に振り向いた。
 流石に人の声だとは気づいていたが、放っておけばどこかに行くと思っていたのに。存外にしつこい。

「はぁ、よかった。てっきり耳の聞こえない方かと思ってしまいました」

 胸に両手を添えてそう言う少女は安堵してから肩に乗せた布地を直す。着物に交えた西洋の小物を着込んだ少女はみてくれだけでどこぞの金持ちだというのがわかる。
 ゆるりと結った黒髪は日に当たり仄かに#黄丹おうに#の色を混ぜる。椿油が反射しているのだろうか、光沢を交えた髪色はとても日本人のものとは思えない。垢ぬけた色をしていた。

「お前みたいな奴がこんなところに何の用だ?」
「あら、ここは神社ですよ。神社に来ると言えば参拝に決まっているじゃありませんか」

 至極当たり前のように嘯く少女に悪意は見当たらない。それが泰三の琴線にどうにも引っ掛かっていた。

「参拝ね。お嬢さんは全然物を知らないと見える」
「まあ、失礼な物言いね。では何が至らないのか教えて頂けないかしら?」
「まず神社というのは参拝する場所ではない。昔はそうだったかも知れないが、少なくとも今は違う。ここは俺たちみたいなゴロツキの安宿だ」
「あなたはここに泊まっているということですか?」
「あぁ、もちろん許可なんて取ってない。大きな建物が立ち並んできたこの時代。境内にやってくる人間なんてすっかりいなくなってしまった。だから俺たちみたいな悪タレが身を隠すのにはもってこいなんだよ。この国には腐るほどの神社があるからな」
「そうなんですか。確かにそれは知りませんでした……」

 少女は驚いたような、感心したような表情を見せていた。本当に物を知らない所を見ると相当な箱入りなのかも知れない。
 だが、これで彼女も理解しただろう。こういう人に忘れられた神社というのは今となれば婦女子が簡単に入り込んでいい場所ではない。俺みたいに隠れ住んでいる奴がこんな金持ちの良さそうなお嬢を見れば、ひとたび奴らの餌食になってしまう。そうなれば最悪だ。捕まえられてそいつらが満足するまで弄られて、その挙句に金目のものまですべて奪われてしまう。丹念に甘やかされたお嬢様にはそんな辱めには耐えられずに自決する。
 これもまた、この時代によく見られる光景だった。
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