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雪月花
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月が綺麗ですね。
夏目漱石がI love you という言葉をそうやって訳したとか訳してないとか。そういう話があるけれど、少なくとも僕にはその言葉が心に突き刺さっていた。
ある時は綺麗な丸になって周りを明るく照らし、かと思えば姿を隠して世界を暗く染めてしまう。
美しく、陰があり、どれだけ望んでも手は届かない。これはまさしく恋心と同じものだと思った。
「――さっきからジロジロ、何見てんのよ」
「あっ……」
学校の授業中。横の席にいる立花奏が怪訝な表情でこちらを向いた。
ギロリと睨みつける瞳は蛇のようで、思わず僕はそんな目で見るなよと委縮してしまう。
とはいえ、先に見ていたのはこっちだから口に出す事は出来ないのだけど……。
「別に……」
「何か用事がないとそんなにガン見しないでしょ。何よ?」
「本当に何でもないって」
「嘘つけっ!」
言いながら急いで目を逸らしてみたが奏は納得する訳もなく、席に座ったままこちらに身を乗り出して肩を掴まれた。
「そういうモゴモゴと意見しないところ本当に直した方がいいよ、気分悪いからっ!」
「別にモゴモゴはしてないよ、意見しないのだって必要ないからしないだけで……」
「うっさい! あんたの意見は聞いてないっ!」
えぇ……。つい今さっき意見しろって言った癖に。だけどこれを口にしたら奏のボルテージがもっと上がることは目に見えていたので押し黙る。そうすると「無視すんな!」と掴まれた肩口を激しく揺さぶられた。僕に一体どうしろと。
「立花奏さん。森本流星君」
教壇に立つ男の先生が落ち着いた口調で僕たちの名前を呼んだ。
二人して先生の方向へ振り向くと、口調とは裏腹に呆れたような。込みあげる怒りを抑えるような。そんな表情を見せている。
「盛り上がってるところ申し訳ないんだけど、今は何の時間かわかるかね?」
「現国の授業です」「すいません」
「そう、授業中。授業が遅れると他の生徒が迷惑だから夫婦喧嘩は廊下でしてもらっていいかな?」
「「夫婦じゃない」です」
先生の軽口に対して二人同時に反論すると教室内に笑いが起きた。「息ぴったりじゃん」と冷やかされたのが聞こえて奏はギャーギャーと反論をしていたが、僕は燃料を投下しないようにずっと黙っていた。
そして、騒ぎが一段落してから僕と奏は無事に廊下に立たされてしまった。
「今時廊下に立たされるとかマジでないわ……元はと言えばあんたが変態みたいにこっちを見てたのが原因なんだからね」
「ごめんって……悪かったよ」
怒り心頭の奏をなだめるように僕は丁寧に謝った。奏に対して謝るのはもう慣れたものだ。
僕と奏が最初に出会ったのは子供の時。厳密に言えば生まれた時からお互いの両親の付き合いがあったから、その時には顔を合わせる仲だった。俗にいう幼馴染というやつだ。
初めは両親と付き添いで、それから自然と二人で遊ぶことが増え、幼稚園に上がる頃にはどちらかの家で一緒に遊ぶのが日課になっていた。
その頃の奏は好奇心旺盛なれど自分から何かを始めるのが苦手で、何かしら遊びを始める時は決まって僕に主導権があった。ごっこ遊びをしたりただ家の庭先を走ったり、そんな他愛のない遊びに一生懸命についてくる奏はとても愛らしく、可愛かった。
僕はその時から、彼女に恋をしている。
「で、何でこっち見てたのよ?」
「まだ気にしてたの……本当に何でもないよ」
「いーや、絶対何かある。じゃないとあんなにじっと見ないでしょ」
じっと、という言葉にドキリとした。
「いつから見てたことに気付いたの?」
「最初から。こっちを振り向いたのが視界の端から見えて、それからずっと視線を感じてた」
「……そう」
平常心を保ちながら相槌を打つ。だが実際のところは顔から火が出そうなほどに焦っていた。
まさか最初から気付かれていただなんて、どれくらいの時間見ていただろう。五分? いや十分……十五分くらいかも知れない。
その間ただ黙って視線に耐えていたのなら、そりゃ何で見てたのだろうと思うのは理解できた。
「――見てたんだ。顔を」
誤魔化すのは無理そうだと観念した僕はとうとう真実を打ち明けた。
すると奏は「顔?」と言ってから自分の顔を触って納得いったように笑った。
「あー! これね。今日はマスクもしてないし少し目立つかな?」
「そんなこと、ないよ。ただ――」
話している途中でチャイムの音が響き始めた。
「あ、授業終わった」
終業のチャイムが鳴り、奏は教室に戻って行った。僕は言いそびれた言葉を飲み込んでから、遅れて教室に入った。
奏の顔には大きな傷がある。普段は背中まで伸ばした長髪で隠れてはいるが、皮膚には棒がめり込んだように不自然な痕がある。
子供の時、僕が「探検しよう」と言い出して遠出をしたことがあった。奏はいつものように二つ返事でついてきて、深く考えずに遠くの公園まで一緒に遊びに出た。
辿り着いた公園はとても大きくて、色々な遊具が置いてあった。
今まで遊んでいた公園には小さな滑り台が一つしか置いてなくて、見た事ない遊具の数に僕の心は踊っていた。だから、奏の事を深く考えずに遊んでしまっていた。
元々身体を動かすのが得意だった僕は新しい遊具でも問題なく遊ぶことが出来た。しかし奏はどちらかといえば運動オンチの部類で、登り棒や雲梯等、初めてみる遊具で遊ぶ僕についていくのが必死だったのだ。
そんな事も知らずに僕は調子にのって雲梯の上に登り、橋を渡るように歩き始める。それを見て奏は僕の真似をするが、普通に遊ぶだけでも必死だった彼女にそんな器用なことができるはずもなく、
「あっ……」
雲梯を渡る僕の背後で気の抜けた呟きと金属音、遅れて靴底に振動が伝わって来た。
振り向いた時には奏は雲梯の上にはおらず、地面でうずくまって呻き声を上げていた。幸い命に別状はなかったが、その時出来た傷が深く。高校生になった今でも古傷となって彼女の顔にくっきりと残っていた。
席に着くと既に奏は女友達と談笑を始めていた。
笑顔を作る彼女の口元から目頭にかけて歪な線を描く傷痕が目に入る。それを見る度に僕の心は締め付けられる思いだった。
彼女が美しく成長して、顔立ちが整っていくほどに傷痕は異物感を増していく。それを感じるほど、女性の顔を傷物にするという重大さが抱えきれないほどの重荷になってのし掛かっていた。
だけど彼女はそんなことをしでかした僕を一度も責めた事がない。気にした様子もなく自然に接してくれていた。まぁ口調は悪くなったけど……。
奏に対して責められても、縁を切られても仕様がないことをしたというのに、それでも変わらず友達でいてくれる姿に、僕はますます恋心を膨らませていた。
だけど、この気持ちを決して外に出してはいけない。
一生モノの傷をつけた男に恋愛感情を抱かれるなんて、きっと奏は嫌がる。何より僕自身がそれを許せない。
だからこうして、今日も彼女を見つめていた。どこまでも美しい彼女の姿を。
夏目漱石がI love you という言葉をそうやって訳したとか訳してないとか。そういう話があるけれど、少なくとも僕にはその言葉が心に突き刺さっていた。
ある時は綺麗な丸になって周りを明るく照らし、かと思えば姿を隠して世界を暗く染めてしまう。
美しく、陰があり、どれだけ望んでも手は届かない。これはまさしく恋心と同じものだと思った。
「――さっきからジロジロ、何見てんのよ」
「あっ……」
学校の授業中。横の席にいる立花奏が怪訝な表情でこちらを向いた。
ギロリと睨みつける瞳は蛇のようで、思わず僕はそんな目で見るなよと委縮してしまう。
とはいえ、先に見ていたのはこっちだから口に出す事は出来ないのだけど……。
「別に……」
「何か用事がないとそんなにガン見しないでしょ。何よ?」
「本当に何でもないって」
「嘘つけっ!」
言いながら急いで目を逸らしてみたが奏は納得する訳もなく、席に座ったままこちらに身を乗り出して肩を掴まれた。
「そういうモゴモゴと意見しないところ本当に直した方がいいよ、気分悪いからっ!」
「別にモゴモゴはしてないよ、意見しないのだって必要ないからしないだけで……」
「うっさい! あんたの意見は聞いてないっ!」
えぇ……。つい今さっき意見しろって言った癖に。だけどこれを口にしたら奏のボルテージがもっと上がることは目に見えていたので押し黙る。そうすると「無視すんな!」と掴まれた肩口を激しく揺さぶられた。僕に一体どうしろと。
「立花奏さん。森本流星君」
教壇に立つ男の先生が落ち着いた口調で僕たちの名前を呼んだ。
二人して先生の方向へ振り向くと、口調とは裏腹に呆れたような。込みあげる怒りを抑えるような。そんな表情を見せている。
「盛り上がってるところ申し訳ないんだけど、今は何の時間かわかるかね?」
「現国の授業です」「すいません」
「そう、授業中。授業が遅れると他の生徒が迷惑だから夫婦喧嘩は廊下でしてもらっていいかな?」
「「夫婦じゃない」です」
先生の軽口に対して二人同時に反論すると教室内に笑いが起きた。「息ぴったりじゃん」と冷やかされたのが聞こえて奏はギャーギャーと反論をしていたが、僕は燃料を投下しないようにずっと黙っていた。
そして、騒ぎが一段落してから僕と奏は無事に廊下に立たされてしまった。
「今時廊下に立たされるとかマジでないわ……元はと言えばあんたが変態みたいにこっちを見てたのが原因なんだからね」
「ごめんって……悪かったよ」
怒り心頭の奏をなだめるように僕は丁寧に謝った。奏に対して謝るのはもう慣れたものだ。
僕と奏が最初に出会ったのは子供の時。厳密に言えば生まれた時からお互いの両親の付き合いがあったから、その時には顔を合わせる仲だった。俗にいう幼馴染というやつだ。
初めは両親と付き添いで、それから自然と二人で遊ぶことが増え、幼稚園に上がる頃にはどちらかの家で一緒に遊ぶのが日課になっていた。
その頃の奏は好奇心旺盛なれど自分から何かを始めるのが苦手で、何かしら遊びを始める時は決まって僕に主導権があった。ごっこ遊びをしたりただ家の庭先を走ったり、そんな他愛のない遊びに一生懸命についてくる奏はとても愛らしく、可愛かった。
僕はその時から、彼女に恋をしている。
「で、何でこっち見てたのよ?」
「まだ気にしてたの……本当に何でもないよ」
「いーや、絶対何かある。じゃないとあんなにじっと見ないでしょ」
じっと、という言葉にドキリとした。
「いつから見てたことに気付いたの?」
「最初から。こっちを振り向いたのが視界の端から見えて、それからずっと視線を感じてた」
「……そう」
平常心を保ちながら相槌を打つ。だが実際のところは顔から火が出そうなほどに焦っていた。
まさか最初から気付かれていただなんて、どれくらいの時間見ていただろう。五分? いや十分……十五分くらいかも知れない。
その間ただ黙って視線に耐えていたのなら、そりゃ何で見てたのだろうと思うのは理解できた。
「――見てたんだ。顔を」
誤魔化すのは無理そうだと観念した僕はとうとう真実を打ち明けた。
すると奏は「顔?」と言ってから自分の顔を触って納得いったように笑った。
「あー! これね。今日はマスクもしてないし少し目立つかな?」
「そんなこと、ないよ。ただ――」
話している途中でチャイムの音が響き始めた。
「あ、授業終わった」
終業のチャイムが鳴り、奏は教室に戻って行った。僕は言いそびれた言葉を飲み込んでから、遅れて教室に入った。
奏の顔には大きな傷がある。普段は背中まで伸ばした長髪で隠れてはいるが、皮膚には棒がめり込んだように不自然な痕がある。
子供の時、僕が「探検しよう」と言い出して遠出をしたことがあった。奏はいつものように二つ返事でついてきて、深く考えずに遠くの公園まで一緒に遊びに出た。
辿り着いた公園はとても大きくて、色々な遊具が置いてあった。
今まで遊んでいた公園には小さな滑り台が一つしか置いてなくて、見た事ない遊具の数に僕の心は踊っていた。だから、奏の事を深く考えずに遊んでしまっていた。
元々身体を動かすのが得意だった僕は新しい遊具でも問題なく遊ぶことが出来た。しかし奏はどちらかといえば運動オンチの部類で、登り棒や雲梯等、初めてみる遊具で遊ぶ僕についていくのが必死だったのだ。
そんな事も知らずに僕は調子にのって雲梯の上に登り、橋を渡るように歩き始める。それを見て奏は僕の真似をするが、普通に遊ぶだけでも必死だった彼女にそんな器用なことができるはずもなく、
「あっ……」
雲梯を渡る僕の背後で気の抜けた呟きと金属音、遅れて靴底に振動が伝わって来た。
振り向いた時には奏は雲梯の上にはおらず、地面でうずくまって呻き声を上げていた。幸い命に別状はなかったが、その時出来た傷が深く。高校生になった今でも古傷となって彼女の顔にくっきりと残っていた。
席に着くと既に奏は女友達と談笑を始めていた。
笑顔を作る彼女の口元から目頭にかけて歪な線を描く傷痕が目に入る。それを見る度に僕の心は締め付けられる思いだった。
彼女が美しく成長して、顔立ちが整っていくほどに傷痕は異物感を増していく。それを感じるほど、女性の顔を傷物にするという重大さが抱えきれないほどの重荷になってのし掛かっていた。
だけど彼女はそんなことをしでかした僕を一度も責めた事がない。気にした様子もなく自然に接してくれていた。まぁ口調は悪くなったけど……。
奏に対して責められても、縁を切られても仕様がないことをしたというのに、それでも変わらず友達でいてくれる姿に、僕はますます恋心を膨らませていた。
だけど、この気持ちを決して外に出してはいけない。
一生モノの傷をつけた男に恋愛感情を抱かれるなんて、きっと奏は嫌がる。何より僕自身がそれを許せない。
だからこうして、今日も彼女を見つめていた。どこまでも美しい彼女の姿を。
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