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1巻

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「契約を解除……ですか?」

 静まり返った午後の会議室に、かすれ気味の自分の声が響く。ぴっちりと揃えた膝に載せた手を、莉緒りおは固く握りしめた。

(まずい。本当にまずい。これじゃあ私、再来月から無職だよ……!)

 ここは莉緒が勤める市立図書館――その中にある、事務スペースに隣接した会議室だ。
 会議室と言っても、薄いパーテーションで区切られただけの小さな部屋であり、プライバシーなんてまるでない。それでもほかに使える部屋がないので、休憩に使われたり、接客スペースになったり、時には個人的な問題を抱えた職員と上司とのあいだで面談をしたりと、多目的に利用されている。
 一時間ほど前、莉緒は昼食をとるために、何人かの職員と一緒にこの部屋に入った。皆それぞれに持参したお弁当を食べ、歓談をして――と、いつもと変わらぬ日だったのだが。
 その安寧あんねいは、五分ほど前に破られた。
 休憩時間が終わる少し前、ほかの職員たちに続いて莉緒が会議室を出ようとしたところ、市役所から派遣されている生涯学習課の楢崎ならさき課長が入ってきて、莉緒だけを呼び止め、こう言ったのだ。

『君の雇用契約の件だけど、来月限りで打ち切りになったんだ……』
『……え? は、はい!?』

 青天の霹靂へきれき、とは言うまい。
 この図書館が閉鎖・移転することは前々から決まっていたし、それに伴い、たったひとりの契約職員である莉緒の雇用がどうなるかは、ずっと待ったがかけられた状態だったからだ。
 法律上、同じ勤務先で五年以上契約社員を続けていれば、無期契約に切り替える申請ができると決められている。
 当然莉緒にも申し込みの権利はあったが、書類を提出していなかった。市立図書館の閉鎖に伴って、非正規以外の職員の契約は打ち切られるとのうわさがあったため、二の足を踏んでしまったのである。

「これまで頑張ってやってくれたのに、君には本当にすまないと思ってるよ。でも、市の財政も苦しいみたいでさ、正規の職員以外は契約を解除するって言われちゃって」

 ひととおり話を終えた楢崎課長は、会議机を挟んだ向こうで縮こまった。ただでさえ小柄な彼が、いつもの半分くらいの大きさに見える。

「そんな、謝らないでください。課長が悪いわけじゃないんですから」

 莉緒は顔の前で手を振った。けれど、楢崎は下を向いたままだ。

「市の職員を代表してお詫びするよ。閉館の話は何も今決まったことじゃないんだから、せめて三か月前には言ってほしいよなあ。俺だったらそう思うもん」

 そう言って口をゆがめる彼を前に、莉緒は苦笑いを浮かべる。
 実際、この件に関しては誰も悪くはなかった。
 契約上、雇い主から雇用契約の解除をする際は、一か月前に予告をすればいいことになっている。それに、楢崎が何度も上に掛け合ってくれていたことを、莉緒は知っていた。本来こうして謝る必要なんてないのに、彼はまったく人がいい。
 楢崎は会議机の上で手を組んで、ため息を吐いた。

「俺としては、君に新しい図書館でも活躍してもらいたかったよ。仕事は早いし、利用者からの評判もいい。何より『おはなし会』に来る子供たちの人気のまとだろう?」

 莉緒が慌てて首を横に振る。

「そんな、めすぎですって。それに、おはなし会の担当は私ひとりじゃありませんから」
「それはそうだけどさ。でも、君の担当する回が一番好評なのは確かだ。新しい図書館でも人気イベントになること間違いなしだったのになあ」
「課長、それくらいにしてください。とりあえず、あとひと月はあるんですから。残りの仕事もしっかりやって、新しい職場を頑張って探しますね」

 しょぼくれる楢崎を励まそうと、莉緒は小さくガッツポーズをしてみせた。

「うん。俺も陰ながら応援してるよ。中條なかじょうさん、このたびは本当に申し訳ない」

 彼が立ち上がって頭を下げたので、莉緒も慌てて席を立ち、腰を折る。

「こちらこそ、いろいろとありがとうございました。では、仕事に戻りますので、失礼します」

 そそくさと会議室から出て、莉緒は洗面所へ駆け込んだ。扉に背を預け、ふう、と息を吐く。

(謝られるのって、どうも苦手だなあ。しかも、課長が決めた人事じゃないのに、一体何を言えばいいのやら……)

 莉緒の勤める市立図書館は老朽ろうきゅうのため、ひと月と数日後――つまり十月末をもって閉鎖することが決まっていた。
 鉄筋コンクリート造り三階建ての建物は、一見すると大して古そうではないが、よくよく見れば、中にも外にもがたがきている。
 外壁のタイルはいくつかがれ落ちているし、地盤が緩いせいか入り口ドアの建てつけが悪く、階段とアスファルトのあいだにおかしな段差ができている。しかも天井は低く、どことなく薄暗かった。壁のコンクリートには稲妻いなずまのような亀裂がいくつも走っていて、板張りの床もしみだらけだ。
 もう何年も前から建て替えの話が出ていたが、移転先がなかなか見つからず難航していたらしい。
 それが昨年になって、別の公共施設の閉鎖が決まり、そちらに図書館の機能をまるごと移転することで、ようやく決着がついたのだ。
 そんなわけで、この図書館は来月の末に閉鎖する。蔵書やAV機器の運び出しなどを行ったのち、解体して公園にするのだとか。

(はあ……寂しい)

 そのことを思い出した途端、急にセンチメンタルな気分になった。洗面所の鏡を前にして、深いため息を吐く。
 莉緒にとって、図書館で働くことは小さな頃からの憧れだったし、ここはそんな夢を実現させてくれた。
 両親が共働きの上、姉とは歳が離れていて話が合わず寂しい日々を過ごした子供時代。そして、その両親を相次いで病気で亡くした高校二年の春も、いつだって図書館は莉緒をあたたかく迎えてくれた。
 いつか図書館で働くことで、恩返しがしたいと思っていた。ようやく夢叶って、司書の職にけたのが、大学を卒業した年の春のこと。以来、二十八歳になるまでの六年あまりを、この市立図書館と歩んできたのだ。
 憧れの『図書館のお姉さん』として、子供から大人まで、本を愛する人たちとともに、たくさんの絵本や書物に囲まれて過ごす毎日は本当に楽しかった。その思い出深い場所が、跡形もなくさっぱりなくなってしまうことには、翼がもがれるような辛さを覚える。
 しかし、感傷にひたってばかりもいられない。天職だと思っていただけにショックだが、莉緒の事情は利用者には一切関係がないのだ。三時からは恒例のおはなし会もあることだし、いつもどおり明るい顔で子供たちを楽しませないと。
 莉緒は鏡に向き直ると、化粧ポーチからブラシを取り出し、背中まである黒髪を結び直した。白いシャツのえりを正して、お仕着せのグリーンのエプロンも整える。そして、歯磨きと化粧直しを手早く済ませ、最後の仕上げに、にいっと笑顔を作った。

「……よし。待っててね、子供たち!」


 図書館に戻りはしたが、おはなし会が始まるまでにはまだ時間がある。そこで莉緒は、本の修復に手をつけることにした。
『要メンテ』の札が貼られたラックに手を伸ばして、持ち出し禁止のシールが貼られた分厚い学術書を手に取る。ぱっと見た感じでは特に修復が必要とは思えなかったが、ぱらぱらとめくってみて目をみはった。

(……ひどい!)

 書物のページには、利用者が書き込んだと思われる文字があちこちにあった。それを発見するたび、怒りを通り越して深い悲しみが胸につのる。
 長年にわたってたくさんの子供たちに愛された絵本が、ぼろぼろになるのは仕方のないことだ。子供だから、落書きすることだってあるだろう。けれど、専門書や史録などを読むくらいの大人の中にまで、書き込みや折り目をつける人がいるのは許しがたい。
 莉緒は本が大好きだ。通勤の途中でも、家でも、四六時中本を読んでいる。
 学生時代お世話になった教授には、一冊の本が世に出るまでには、執筆者や挿絵さしえ担当だけでなく、編集者や出版社、校正者、印刷所といったあらゆる部門のエキスパートが血のにじむような努力をしているのだと教わった。そうして生み出された本は、人々にものを教えるだけでなく、生活にうるおいを与えたり、感動させたり、時には心を救ったりしてくれる。だから、莉緒は本が大好きだ。本は人生を豊かにしてくれる。
 ひとつため息を吐くと、気を取り直して消しゴムを手にした。書き込みの量は多いが、鉛筆で書かれていたのがまだ救いだ。ページを破かないよう、慎重に取り除いていく。
 次々と業務をこなしていくうちに、あっという間に時間が過ぎた。ふと顔を上げれば、幼稚園帰りの園児たちが、ぞくぞくとロビーに集まってきている。
 小さな姿がかわいらしくて、莉緒はにんまりと頬を緩めた。
 お揃いの紺色こんいろの園服、黄色い帽子に黄色いかばん。身体の小さな年少さんから、大きな年長さんまでみんな、おはなし会目当ての子供たちだ。中にはまだ就園前の幼児もいて、母親の注意も聞かずに大きな声を上げている。
 元気なのはいいが、図書館は本来静かに本を読む場所だ。あまり騒がしくすると迷惑になる。
 莉緒から見て三年後輩にあたる司書の瀬田佑美せたゆみが、慌ててロビーに飛び出していった。

「みんなー、静かにしようねー」

 小声で注意をするけれど、子供たちはどこ吹く風だ。
 何度言って聞かせても一向にらちが明かず、瀬田が莉緒へ助けを求めてきた。

「だめだ。莉緒さん、なんとかしてください」
「はーい。じゃあ代わりにカウンターお願いね」
「了解です!」

 莉緒は瀬田と入れ替わりにカウンターを出て、ロビーへ向かう。途端、今日のお目当てである莉緒の姿を見つけた子供たちがはしゃぎ出した。
 莉緒は子供たちの前に到着すると、両腕を勢いよく広げた。そして右手をゆっくりと、大きく顔の前に回し、人差し指を唇に当てる。

「みんな、しーっ、だよ。しぃーー……」

 すると、騒がしかった子供たちが、一瞬にして静まり返った。
 莉緒につられて、唇に人差し指を当てる子、胸の前で両手を握る子。皆、『図書館のお姉さん』が次に何を言うのかと、固唾かたずをのんで見守っている。
 その顔をぐるりと見渡してから、莉緒は口を開いた。

「今日のお話はね、『とんころとん』と『おじいさん犬ジョン、空を飛ぶ』のふたつだよ。でもまだ時間が早いから、その前に紙芝居をひとつ読みます。じゃあ、静かにできた人から順番に入ってもらおうかな」

 ピッ、という掛け声とともに、『前へならえ』のように両手をまっすぐに突き出す。
 すると、子供たちが自然と列を作った。莉緒がきびすを返して図書館の奥へ歩いていくと、彼らはひと言も発しないまま、ぞろぞろとあとをついて進み出す。
 カウンターの横を通過する時、瀬田と事務職の男性が話す声が耳に入ってきた。

「さすが莉緒さん、幼稚園の先生みたい」
「すごいよね。それだけ子供たちの信頼が厚いってことなんだろうなあ」
(やめてやめて、意識しちゃう!)

 顔が熱くなるのを感じつつ、ギクシャクした歩き方で前進を続ける。
 やがて目的の『おはなしのへや』に到着し、子供たちと保護者が全員入ったのを確認して扉を閉めた。ホッとする瞬間だ。扉はしっかりしたスチール製だから、よほどの大騒ぎにならなければ、他の利用者の迷惑にはならない。
 莉緒がクレヨンで大きく『3』と書いたスケッチブックをかかげると、また少し騒ぎ始めていた子供たちが、ハッと息をのむ。

『2』
『1』

 ページをめくるごとに子供たちはおしゃべりをやめ、カウントが『0』になる頃には完全に静まった。

「はい、お待たせしました。じゃあ、まずは約束の紙芝居を読むことにします。今日はこれだよ」

 さっとテーブルの下から取り出したのは、『ヒヨちゃんとカラスウリくん』というお話だ。
 表紙に相当する一枚目には、やや青みがかった灰色の鳥と、オレンジ色をした楕円形だえんけいの実のイラストが描かれている。

「では、読みます」

 莉緒はわくにセットした紙芝居をかかげて、息を吸い込んだ。

「ヒヨちゃんとカラスウリくん 作 あいもとゆうこ」


 ヒヨちゃんは 元気いっぱいのヒヨドリの子
 もう ひとりで飛べますが 自分でえさを探すことができません
 だから 今日もお母さんと一緒に えさを探しに行きます……


 最初の紙芝居と、定刻から読み始めた二冊の絵本を読み終わる頃には、午後四時近くになっていた。
 紙芝居は自然の生き物の助け合いを描いた話で、絵本のうち一冊は年少向けの、カラフルなイラストを用いた楽しいお話だった。もう一冊は、年老いた犬が最後に雲に乗りたいと願い、たくさんの渡り鳥の協力によって空を飛ぶという、感動の物語だ。
 子供たちは終始大人しくしていたし、皆目を輝かせて話を聞いてくれたので、今日も大成功だったと思う。
 莉緒にとって、おはなし会の時に見られる子供たちの笑顔は何よりの宝ものだ。それを見るたびに、『生きている』ということを実感できる。

「では、今日のおはなし会はこれで終わりです。次回は土曜日の十時からありますので、また来てくださいね」

 莉緒の言葉に、子供たちが「はーい」と元気な声で返事をする。駆け寄ってきた子たちの、紅葉もみじのような手とたくさんのハイタッチを交わして、会はお開きになった。
 カウンターに戻った莉緒は、貸し出しや返却といった通常業務についた。夕方以降は利用者もさほど多くないため、ここから退館時間の六時まで、まったりとした時間が続く。
 こうなると思い出すのは、やはり職探しのことだ。
 六年も勤めていただけあって、莉緒はこの市立図書館をとても気に入っていた。一緒に働くメンバーとも仲がよかったし、仕事の面でも、イベントや特設コーナーのレイアウトなどを自由にやらせてくれるので、やりがいがあったのだ。

(また同じようなところが見つかればいいけど、そうそう素敵な巡り合わせはないだろうな……)

 そんなことを頭の片隅で考えつつ、貸し出しリクエストと蔵書とを、コンピューターで照合していた。
 そこへ――

「こんにちは」

 カウンターの向こうから声を掛けられて、莉緒はハッと顔を上げる。

「はい。……何か、ご用でしょうか」

 言葉に詰まったのは、その人物の姿を見て一瞬驚いたからだ。
 目の前に立っている初老の男性は、黒のタキシードに蝶ネクタイという、図書館には似つかわしくない格好をしている。さらに、きっちりと七三に分けられた白髪しらがまじりの髪に、丸い銀縁ぎんぶち眼鏡。口ひげをやした上に、手には白い手袋と、まるで映画にでも出てくる執事のような出で立ちだ。
 執事風の男性は両手を前で組み、穏やかな顔で言う。

「当家の坊ちゃま専属の、朗読係を探しております」
「は、はあ」

『当家』『坊ちゃま』『専属』――見事なまでに期待を裏切らない言葉が並んだ。莉緒は、ごくりと唾をのむ。

「朗読係というと……本の読み聞かせか何かでしょうか?」
「はい。そのようなものです」

 男性は人のよさそうな笑みを浮かべて、軽く腰を折った。普通、読み聞かせとは図書館や学校などで、大勢で聞くものではないだろうか。それをお抱え執事が専属の人間を探して歩くなんて、世の中にはとんでもないセレブな子供がいるらしい。

「では、求人広告のようなものがあれば、あちらの掲示板に貼らせていただきます」

 莉緒は左手を差し出して、男性の肩越しにある数々のチラシが貼られた掲示板を示した。しかし彼は、そちらを見ようともしない。

「あなたがいいのです」
「……はい? わ、私ですか?」

 頓狂とんきょうな声を上げると、男性が深くうなずく。そして一歩カウンターに近づいてきて、眼鏡の奥にある両目をきらめかせた。

「あなたの声は大変素晴らしい。抑揚よくようも、間の取り方も絶妙でした。もちろん、賃金はたっぷりと弾ませていただきます」
「え……。あ、あの、えーと、えーと――」

 そう言ったきり言葉が続かなくて、莉緒はどきどきする胸を押さえる。められて悪い気はしないが、いくらなんでも唐突すぎやしないだろうか。

(もしかして、さっきのおはなし会を聞いてたのかな……)

 とはいえ、こんな格好をした男性があの場にいれば、絶対に気づくはずだ。とすると、部屋の外で聞き耳を立てていたのだろうか。『おはなしのへや』の扉はきっちりと閉まっていたはずだが、防音室ではないから多少の音れはある。
 莉緒が固まったままでいると、男性は名刺を差し出した。家紋が箔押はくおしされた、やけに立派な名刺を。

たかむら家執事……青戸あおとさん」
「はい。江戸時代から続いております篁家の執事を、先代の頃から四十年にわたり務めさせていただいてます、青戸でございます」
「中條莉緒と申します」

 戸惑いつつも、深々とお辞儀をする青戸執事に合わせて腰を折る。ふたたび顔を上げたところ、いかにも人のよさそうな笑みを浮かべる執事の顔が目に飛び込んできた。

「では、中條様のお仕事が終わる頃に外でお待ちしておりますので。失礼いたします」
「わかりまし……えっ!? ちょっ、あの――」

 優雅な動きできびすを返した篁家の執事は、歳に似合わぬ颯爽さっそうとした足取りで去っていく。

(ちょっと待って。勝手に待たれても困るんですけど……!)

 慌ててカウンターを飛び出して追いかけようとしたところ、「すみませーん」と、利用者から声が掛かった。

「は、はーい、ただいま!」

 利用者の対応をしながら、ちら、と振り返ってみたが、青戸の姿はもう見えない。
 カウンターを放棄するわけにいかない莉緒は、仕方なくその場に留まったのだった。


 図書館の閉館時間は午後八時だが、契約職員である莉緒は、午後六時に退館時間を迎える。
 今日も残りのメンバーに挨拶あいさつをして、バックヤードにある更衣室に引っ込んだ。この図書館に制服はないけれど、揃いのエプロンを保管するために三帖ほどの小さな部屋があり、そこを更衣室として使っているのだ。
 エプロンを外してハンガーにかけ、入り口付近にあるタイムカードを押す。続いて身だしなみを整えようと、すぐ隣にある鏡に向かった。
 そこに映る莉緒の姿は、量販店で買ったなんの変哲へんてつもない白いシャツに、紺色こんいろのチノパンという動きやすさに特化した出で立ちだ。後ろで結んでいた長い髪をほどいてみても、さほど印象は変わらない。こんな格好では、とても名家のお坊ちゃまの専属朗読係にはふさわしくないだろう。
 数時間前の奇妙な誘いについて考えている自分に気づき、苦笑いを浮かべる。あれはきっと何かの間違いだ。真に受けるなんて、どうかしている。
 気持ちを切り替えようと、手早くリップを引き直して更衣室を出た。途中、すれ違った課長の楢崎に挨拶あいさつをして、通用口のドアを開けたのだが――

「えっ」

 一歩外へ足を踏み出して、勢いよく立ち止まる。
 図書館の入り口前には、黒塗りの高級セダンが停まっていた。その車の隣には、先ほどやってきた青戸執事が、両手を前で組んで姿勢よく立っている。

(嘘でしょう? まさか本当に待ってるなんて……!)

 こういう時、一体どうしたらいいのだろう。本物の執事なんてはじめて見たし、その執事に『坊ちゃまの朗読係』を依頼されたことは、たちの悪い冗談だと思っていたのだ。
 とりあえず様子をうかがおうと、裏口を出てすぐのところにある植え込みに身をひそめる。
 するとしばらくして、運転席からドライバーらしき人物が出てきた。紺色こんいろのスーツタイプの制服を着て、白い手袋をした女性だ。
 と、突然、その女性がこちらに向かって深々とお辞儀をした。それに気づいた青戸執事が、やはりこちらを向いて頭を下げる。

「ええっ。ちょっと待って……!」

 思わず声を出して、口を押さえた。まさか、隠れているのが見つかってしまうなんて想定外だ。
 居たたまれなくなって、うろたえつつ植え込みから飛び出す。誰かに見られたら何事かと思われそうなので、きょろきょろとあたりを見回しながらふたりに駆け寄った。

「青戸さん、本当にお待ちになっていらしたんですか?」
「ご迷惑をおかけいたしまして、まことに申し訳ございません」

 ふたたび青戸が腰を折ろうとするので、莉緒は慌てて制した。

「別に迷惑ではありません。でも、あの……私に朗読係を依頼したいという件は、本気でおっしゃっているのでしょうか?」
「はい、でも。中條様にいらしていただければ、坊ちゃまも大変に喜びます」
「はあ……お気持ちはありがたいのですが、ちょっと急な話なので……」
「そうおっしゃると思っておりました。では、まずは篁家にお越しいただいて、一度就労環境をご覧になってはいかがでしょう。こうして女性ドライバーの運転で屋敷に向かいますので、ご安心いただけるかと。もちろん、お帰りの際は中條様のご自宅までお送り申し上げます」
「えーと、でも、ですねえ」
「どうか、なにとぞ。ほかを当たるつもりもございませんので」
「は、はあ」

 やんわり断ろうとするが、青戸がいかにも好々爺こうこうやといった感じの笑みを浮かべて頭を下げるので、拒否の言葉をのみ込んでしまう。
 どうやら彼の方が一枚上手うわてのようだ。自分の二倍以上の年齢の人に丁寧な口調でものを頼まれたら、無下むげには断りづらい。
 穏やかな表情で待つ青戸を前に、莉緒はこの話について改めて考えてみる。
 彼の依頼は、莉緒に篁家のご子息の専属朗読係になってほしいというものだ。はじめは彼の言うことを信じていなかったし、あまりに突然の話なので断るつもりでいた。しかし、読み聞かせは得意分野だし、個人相手の朗読係というものに興味がないわけではない。
 それに、早速今夜から新しい勤め先を探そうと思っていたのだ。候補のひとつに入れるつもりで、ひとまず篁家とやらに行ってみようか。

「じゃあ、とりあえず……お邪魔してみるだけ――」
「ありがとうございます!!」

 突然青戸が大声を上げたので、莉緒はびくっと身体を震わせた。彼は今にも泣き出しそうな顔をして、拝むように両手を胸の前で合わせている。

(どうしてそこまで!?)

 切望される理由がわからず、ただただ戸惑ってしまう。たかが一介の図書館司書である自分に、一体何を求めているのか。ちょっと恐ろしい。

「では早速ですが、こちらへご乗車ください」

 青戸はいそいそと運転席側の後部座席に回り、ドアを開けた。しかも頭をぶつけないよう、白手袋をはめた手で上部のフレームをガードしてくれる。
 莉緒は礼を言って車に乗り込んだ。
 広々とした車内は清潔で、ちりひとつ落ちていない。黒い本革シートはつやつやに磨かれているし、目隠しのカーテンがついているあたりは、政治家が乗る車みたいだ。
 運転手に続き、青戸が助手席に乗り込んで、車は走り出した。

「三十分ほどで到着いたします。何かございましたら、お声掛けください」

 わかりました、と返事をして、莉緒は車窓を流れる景色に目をやる。
 確か名刺に書かれていた住所は、ここから電車で五駅ほど離れたところにある高級住宅地だった。とはいえ、テレビやニュースなどでよく聞く地名というだけで、実際に行ったことがあるわけではない。
 幼稚園から大学までをすべて公立で過ごした莉緒には、セレブの友達なんてひとりもいなかった。だから、執事やお抱え運転手がいるお屋敷がどんなものなのか、想像もできないのだ。
 車はにぎやかな大通りを抜けて、片側一車線の公道をひた走っている。小さな交差点をいくつか曲がるうちに、左前方に小高い森のようなシルエットが浮かび上がった。
 莉緒はそれを、公園か博物館でもあるのだろうと、ぼんやり眺めていたのだが……

「中條様。そろそろ篁家の敷地に入ります」

 振り返った青戸がそう告げる。
 間もなく車は減速し、左折して先ほどの森の中に吸い込まれた。莉緒はシートに預けていた背中を起こして、暗闇に目をらす。

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