わけあって極道の妻になりました

ととりとわ

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1巻

1-3

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「もしかしてお前、先生でもやってるのか?」

 何を言われるのかと思ったが、他愛たわいもない質問だ。いちかは警戒を緩めないよう、意識して真面目な顔を保つ。

「そうです。申し遅れましたが、わたくし、小学校の教員になって五年目の二十七歳、萬木いちかと申します」

 龍臣が一瞬眉根を寄せ、白目がちな目を見開いた。

「ゆるぎ……? もしかして、万の旧字体に、木って書く?」

 龍臣が人差し指で、『萬木』という漢字を宙に書く。
 いちかは驚きのあまり目を丸くした。思わず手を口に持っていきそうになり、慌てて膝の上に戻す。

「どうしてわかったんですか? 一度で聞き取ってもらえたことなんてほとんどないのに、漢字まで当てられるなんて」

 龍臣は少し得意そうに口の端を上げた。

「昔、同じ名前の知り合いがいたんだ。しかし――」

 そう言って一旦言葉を切り、地味な紺色のスーツを着たいちかを眺める。

「今日は休みだろう? なんでスーツなんだ?」

 いちかは肩から力を抜いて、笑みを浮かべた。

「今日はちょっと用事があって学校に行ってたんです。どこかで教え子の親御さんに会っても困らないように、そういう時はきちんとスーツを着ていないと」
「ふうん……俺の中学の時の担任も、ちょうどお前みたいな鉄仮面女だったな」

 いちかは短く息を吸い込んだ。

「鉄仮面とか……ひどい!」

 怒った顔をしてみせると、龍臣がくすくすと笑う。普段は恐ろしい形相だが、笑顔は意外にも屈託くったくがなくて、彼がヤクザだということを一瞬忘れてしまいそうになる。

「いちいちおもしろいやつだな」
「もう、失礼ですよ」

 いちかは呆れ半分で言って、背中をバックシートに預けた。その反論を完全にスルーした龍臣が、口元に笑みを残したまま、車を緩やかに発進させる。

「ああ、さっきの十四万の件だけどな、それはお前にくれてやる。一度渡した金を返してもらうなんて、俺の美学に反するからな」
「美学」
「ま、身体で返してくれるってんなら話は別だ」

 いちかはガバッと身を起こして、龍臣のほうへ勢いよく顔を向けた。

「それはお断りします!」

 首まで真っ赤になって抗議する。それがよほどおもしろかったらしく、龍臣は今度は口を開けて笑った。
 いちかを乗せた車は、一路九条組の事務所へ向かう。未知の世界への不安とともに。


 東京三本木組と違い、飲食店や美容室、古着や輸入雑貨を売る店などが立ち並ぶ、割と賑やかな通りに九条組の事務所はあった。
 このあたりは都内有数の繁華街ということもあって、夕暮れ近くになっても人の足は途絶えない。メイン通りからは少し外れているものの、人気のスイーツ店やカフェにはこの時間でも行列ができていた。
 一階に貴金属買取店が入っているビルの前で、龍臣が後ろを歩くいちかを振り返る。

「ここの二階がうちの事務所だ。三階が若いやつらが寝泊まりするフロア。四階は俺専用のフロアだが、半分倉庫みたいになってる。この奥が入り口だ」

 龍臣に続いて、いちかも自動販売機の脇から狭い通路へ入った。
 ビルに囲まれた通路には、近くの飲食店から流れてくる油の匂いと、繁華街特有の悪臭が垂れ込めている。青いポリバケツが並んだコンクリートの上を進み、右に曲がると鉄製の古い外階段があった。

「なんだか静かですね」

 足音を忍ばせて階段をのぼりつつ、いちかが龍臣の背中に声を掛ける。彼は低い笑いをらした。

「建物の裏側だからな。俺たち日陰者にはぴったりだよ。――ここだ」

 龍臣はなんの特徴もない灰色の鉄扉の前で足を止め、カメラ付きインターホンのボタンを押した。応答を待つあいだに足元を見ると、ドアの両脇にはきれいな円錐型えんすいがたに盛られた塩が置かれている。上の隅には監視カメラが取りつけられていた。龍臣が言っていたとおり、このほかにもたくさんのカメラが設置されているのだろう。
 インターホンには返事がなかったが、しばらくすると電子ロックが開く音がした。建物は古いのに、セキュリティシステムは最新らしい。

「入れ」

 先に足を踏み入れた龍臣が、いちかを手招いた。

「おじゃましまーす……」

 小声で言って、静かに中へ入る。龍臣がいちかの身体越しに扉を閉め、あたりは暗闇に閉ざされた。
 窓はないのだろうか――目をらしていると、突然腰を掴まれて悲鳴を上げそうになる。

「こっちだ」

 顔のすぐ近くで龍臣の声がした。大柄な彼の胸は、いちかの顔のあたりにある。ただでさえ恐怖で心臓が潰れそうなのに、スーツの胸元からただよう香水の香りと彼の体温に、さらにどきどきが増す。
 龍臣が木製の扉を開けて声を張った。

「おう、帰ったぞ」
「おかえりなさい!」

 一斉に野太い返事があって、いちかは入り口で足を止めた。

(どっ、どうしよう……やっぱり怖い!)
「何してんだ。ほら」
「きゃっ」

 ドアの外でとどまっていると、龍臣に腕を引かれた。つまずきそうになりながら事務所へ入った途端、ひとりの若い男が上げた大きな声に跳び上がる。

「ああっ、あねさん!」
(あ、あねさん⁉)

 目をぱちくりとしばたたいて、龍臣の背中に隠れた。茶髪の若者はずかずかと近寄ってきて、今にも泣き出しそうな顔をしてみせる。

「はあ~、無事だったんスね! よかったあ~! 俺、もうヤラれちゃったかと心配で心配で」
「ヤラ、れ……?」

 いちかが困惑していると、若者の後ろにいたスキンヘッドの男が、スパーン! と彼の頭を引っぱたいた。びっくりしたいちかは、思わず龍臣の背中にしがみつく。

「いってえ! 何するんスか、兄貴!」

 後頭部を押さえつつ振り返った若者を、スキンヘッドの男がにらみつけた。

「バッカ野郎、下品なこと言ってんじゃねえよ! 手籠てごめにされる、と言え」
手籠てごめに?」

 若者がくるりと振り返り、いぶかるように眉を寄せる。

「……されてないっスよねえ、あねさん?」
「は、はい。九条さんが助けてくださったので何も……」
「はあ~、よかったっス」

 若者はふにゃりと相好そうごうを崩した。
 ショートレイヤーを明るい色に染めた今どきのヘアスタイルに、スカジャンとジーンズという格好のこの男は、かなり若く見える。もしかして、大学を卒業したばかりのいちかの弟と歳が近いかもしれない。

「お前ら、いい加減にしろ」

 龍臣が静かにたしなめる。彼に引っぱられて、いちかは壁際の洗面台へ連れていかれた。丁寧に手を洗ったのち、龍臣に続いて応接スペースの黒い革張りのソファに腰を下ろす。

「いちか。この若いのがシンジだ。こいつが、東京三本木組の前でお前がうろついてると教えてくれた」
佐々木慎二ささきしんじといいます」

 ぴょこ、と茶髪の男――シンジが頭を下げる。いちかは小さく咳払いした。

「シンジさん、本当にありがとうございます。お陰で助かりました」

 腰を上げて丁寧にお辞儀をすると、若者が照れたように頭をく。

「いやあ、買い出しの途中でたまたま近くを通りかかったら、とんでもないところにあねさんがいたんで……。あいつら女と見たら見境みさかいないし、武闘派でマジ危ない連中なんで、ヤバかったっスよ」
「武闘派、ですか」

 いちかは震えながらふたたび腰を下ろし、ぽつりと呟いた。
 武闘派とはどういう意味なのだろう。いずれにしても、龍臣が来てくれなかったら本当にどうなっていたかわからない。

「だったらてめえで助けりゃよかったじゃねえか」

 スキンヘッドの男が横から口を挟んできて、シンジが頬を膨らませた。

「んなこと言ったって、もしも奴らに囲まれたら、俺なんかが勝てるわけないじゃないっスか。兄貴だって絶対逃げるっしょ?」
「俺は頭脳派だから奴らが気づく前になんとかできんだよ」

 と、スキンヘッドの男がうそぶく。シンジは不服そうにしているが、年下であるせいか強く言い返せないようだ。
 ふたりのやりとりに呆れた様子の龍臣がいちかに視線を戻し、スキンヘッドの男をあごでしゃくる。

「このうるさいのがユウタだ。こいつらうちの部屋住みなんだが、いつもこうやって喧嘩けんかばかりしてやがる」

 いちかが苦笑いを浮かべてユウタを見ると、彼は恥ずかしがり屋なのか、ぎこちなく頭を下げた。
 ユウタは縦にも横にも大きく熊みたいな体型で、口ひげをやしている。上下黒のジャージを着たこの男は、シンジよりも少し年上の二十代なかばといった歳頃だろう。寄ると触ると喧嘩けんかばかりというふたりは小学校の生徒にもいるので、あまり怖い気がしない。
 龍臣がポケットから煙草たばこを取り出すと、すかさずシンジがライターで火をつけた。するとユウタが巨体を揺すってテーブルの端まで行き、ガラスの灰皿を龍臣の前へとずらす。
 さっきまで小競こぜいをしていたふたりが阿吽あうんの呼吸で動くのがおもしろい。シンジが何かを思いついた顔でこちらを振り向く。

あねさん。部屋住みってのは、事務所に住み込んで雑用をこなす係ってことっス。つまり、俺たちは駆け出しの極道ってわけで――」
「てめえと一緒にすんじゃねえよ。あと、しゃしゃり出んな」
「さっきからうるせえぞ、ユウタ」

 龍臣が低い声で一喝いっかつすると、気をつけの体勢になった若者ふたりがぴたりと口をつぐむ。
 いちかが奥歯を噛んで笑いをこらえていたところ、事務所のインターホンが鳴り響いた。シンジが壁面にずらりと並ぶ防犯カメラのモニターへ飛んでいく。

みつるの兄貴、お帰りっス」

 シンジが言ってすぐに、事務所のドアが開いた。

「ただいま戻りました」

 渋い声とともに入ってきたのは、グレーのスーツにネクタイ、銀縁ぎんぶち眼鏡というパッと見ヤクザには見えないビジネスマン風の男だ。歳は龍臣よりもいくらか上だろう。青白い頬に細い鼻柱が神経質そうな男は、いちかを一瞥いちべつしたのち、靴音を立てて龍臣のもとに進んだ。

「ご苦労さん」

 龍臣が手のひらを上に向けて差し出すと、A4サイズの封筒がのせられた。彼は煙草たばこくわえ、封筒の中身をあらためる。
 スーツの男がいかめしい目つきでいちかを見た。

「社長、そちらの方は?」
「兄さん、あねさん相手にメンチ利かせちゃまずいですよ」

 ユウタが前に出るのを、龍臣が右手で止める。

「充、お前は先週の俺の祝言しゅうげんの時にいなかったから知らないだろう。萬木いちかだ」
若頭わかがしら澤田さわだ充と申します」

 男が深く頭を下げた。いちかは急いで立ち上がり、両手をふとももの前で合わせる。

「萬木いちかと申します。九条さんには危ないところを何度も助けていただいて。……あ、あの、私――」
「表向きは俺の嫁だから、あねさんと呼べよ」

 龍臣の発言に、いちかは慌てて言葉をのみ込んだ。
 いちかが口を開きかけたのは、まさにそれについて言おうとしたからだった。たとえ表面上の話であっても、事情を知っている組員に『あねさん』などと呼ばれたくないのだと。
 よろよろと腰をソファに下ろしたいちかは、片方の膝に手をついて身を乗り出している龍臣の顔を凝視ぎょうしした。
 龍臣が充に真剣な表情を向け、言葉を続ける。

「親父と叔父貴おじきたちは、殴り込み自体なかったことにしたいらしい。よりによって幹部が集まった義理事をけがされちゃ、メンツが立たねえって言うんだろう。もう一度叔父貴たちを呼び寄せて仕切り直すのも難しいしな」
「ええ。俺もそう思いますよ、社長」

 充がビジネスマンのような同意の声を上げる。何も言えなくなったいちかは、どんよりと深いため息をついた。

「なんだ?」
「い、いえ……」

 こちらに視線をよこした龍臣に、力なく答える。四人のヤクザに囲まれたこの状況で、反論などできるわけがない。それに、『親父』『叔父貴』とは、宴会場に集まっていた紋付袴姿の強面こわもての男たちのことだろう。龍臣の庇護下を離れれば、東京三本木組のみならず、九条組系列のほかのヤクザからも狙われかねないのだ。

「ところで社長」

 微妙な雰囲気を充が打ち破った。龍臣が彼に視線を戻す。

「さっき、法務局で若本わかもと組の若衆と会いました。同じ中央二丁目の土地謄本とちとうほんを取っていたので、おそらく競合すると思われます」
「だろうな。その件はお前に任せるからうまくやってくれ。……ああ、先週三栖田みすだ建設から話があったラブホの売りの件な、買いたいと言ってきた客がいるんだ。今持ってる貸しビルが赤字続きで、この先首が回らなくなる可能性が高いらしい。もっと高利回りの物件を買って、その収益でなんとか採算を合わせたいんだと」

 龍臣が渡した名刺を見て、なるほど、と充が頷く。

「ドツボにはまるタイプですね」

 ふたりがビジネス――と言っていいのかわからないが――の話を始めたのを幸いと、いちかはさりげなく事務所の様子をうかがってみることにした。
 小学校の教室の半分ほどの広さの室内には、応接セットを中心にして、壁面には事務机がふたつ、ロッカー、スチール製の棚、それと、ごく普通の流し台がある。
 事務机が置かれた前の壁にずらりと並んでいるのは、監視カメラのモニターだ。いちかがさっき通ってきた一階の通路やビルの前の通り、事務所入り口付近などの様子が映し出されている。
 視線を上げて天井近くの壁を見ると、大きくて立派な神棚の隣に、金色の額縁がくぶちと木目の額縁がくぶちが掛かっているのが目についた。金色の額縁がくぶちには、二重円の中に『龍』の文字をかたどった家紋に似たものが。また、木目のほうには筆文字でこう書かれている。

『誠心誠意』
『勤労奉仕』
『社会貢献』
(これは……社是しゃぜ?)

 いちかは眉を寄せてまばたきをした。それっぽいことが書いてあるし、隣でなされている会話はまっとうな仕事の打ち合わせであるかのように聞こえるけれど。
 ヤクザというからには、やはり彼らも法律やモラルに反した手段でお金を稼いでいるのだろうか。
 龍臣と充の話はまだ続いている。

「で、買い手はいくらまで出せますかね」

 充が尋ねた。
 龍臣は適当に眺めていた資料をテーブルに放り投げ、新しい煙草たばこを取り出した。傍に控えていたシンジが火をつけると、ふたたび充のほうへ引き締まった顔を向ける。

「先方は四億と言っているらしい。三栖田建設――売主のほうはどこまで叩ける?」
「三億、でしょうか」

 煙草たばこの煙をふーっと天井に向かって吐く龍臣の横顔を、いちかはちらりと盗み見た。意外とまつ毛が長い。

「二億五千まで引っ張れ。売主も急いでるし、売主と三栖田に一千万ずつバックして文句は言わせないようにしろ。で、買主に一億貸しつける」
「わかりました。貸しつけは先方が希望してるんで?」

 いや、と龍臣。

「借りていただくんだよ」

 彼はわざとゆっくり言って、革張りのソファにどっかと身を預けた。その姿を見て、いちかはごくりと唾をのむ。

(うわ、悪い顔してる……!)

 いちかに対してはこれまでのところ紳士的にふるまっている龍臣の、裏の顔を見た気がした。
 きっと法外な金利で金を貸し、最後にはビルも自宅もすべて取り上げるのだろう。
 親切なようでも、所詮しょせんヤクザはヤクザだ。彼らは善良な市民をだまして私腹を肥やす、ハイエナみたいな人種なのである。

「すぐにアポを取ります」

 充が言って、ポケットからスマホを取り出した。

「ああ、頼む。俺が直接行くから、移転登記に必要なものと預金通帳、自宅の権利証を用意するよう言っとけ。あと、白紙の委任状もな」
「でも、その人返済できるんっスかねえ」

 ずっと黙って聞いていたシンジが、遠慮がちに口を挟む。するとユウタが手のひらにこぶしを打ちつけて息を巻いた。

「うちから借りた金踏み倒すようなやつは、俺がタマぁ取ってやるぜ!」
「た……ま?」

 いちかは呟いて、慌てて口をつぐんだ。全員が一斉にこちらを向き、おかしなことを聞いてしまったのでは、と頬を熱くする。
 一拍おいて、シンジがげらげらと笑った。

「やだなあ、あねさん。極道の世界でタマといったら、『命』のことっスよ! つまり、ウチから借りた金を踏み倒すやつがいたら、俺たちがブッころ――いてっ!」

 ごつん、とユウタの鉄拳がシンジの頭に振り下ろされて、いちかは思わず立ち上がった。

「コラッ、暴力を振るっちゃいけません!」

 その瞬間、ハッと口を押さえる。ヤクザ相手に、一体なんということを――

「ご、ごめんなさい。つい、いつもの癖で……!」

 ぺこぺこと頭を下げる横で、龍臣が噴き出すのが聞こえた。彼は片手で顔をおおい、込み上げる笑いをこらえつつ説明をこころみる。

「悪いな。小学校の先生をしてるんだ」
「先生⁉」

 シンジとユウタは一瞬顔を見合わせると、すぐに声を上げて笑い出した。

「マジっスか! あねさんが先生だなんて最高っスよ! 俺ら、頭は小坊のガキと変わんないっスもん」
「おめえと一緒にすんじゃねえよ」

 げらげら笑いながらもいつもの調子になったふたりだが、ユウタも今度は手を出さない。

「ち、ちがっ……別にそういうわけじゃなくて」

 いちかは慌てて言い訳をした。小競り合いを繰り返すふたりを、年端としはもいかぬ小学生と一緒くたにしたとは、間違っても言えない。

「ではあねさん、これからよろしくお願いします」

 成り行きを見守っていた充が、両膝に手を当てて頭を下げる。テレビでよく見掛けるヤクザ式のお辞儀だ。よろしくなんてされたくないいちかは、戸惑いつつ口をとがらせた。

(もう、あねさんって呼ばないでってば!)


「基本は組長からさかずきをもらったら『親父』と呼ぶもんだが、充は好きで俺を社長と呼んでるんだ。実際に会社登記はしてるから間違いじゃねえし、『社長』だろうが『九条さん』だろうが、俺は気にしないたちだから自由に呼ばせてる」
 龍臣が『社長』と呼ばれていた理由について尋ねたいちかに対する彼の答えが、これだった。
 いちかは今、龍臣が運転する車に揺られている。
 行き先はわからない。
 何度か尋ねたものの、龍臣が真面目に答えようとしないので、どこへ行くとも知らずに連れ回されている。
 時刻は夕方の五時半。外はさすがに冷え込んできたが、車内は暖房が効いていてあたたかい。
 まっすぐに夜の道に目をせる龍臣の姿を、いちかはちらりと盗み見た。
 彼は夕方事務所を出る際に身なりを整え、別人のようにスタイルを変えている。それまでオールバックにしていた髪は下ろし、眼鏡を掛け、ネクタイをきっちりと締めて。
 今の龍臣は、どこからどう見てもカタギのサラリーマンにしか見えなかった。それも普通のサラリーマンなどではなく、とてつもなくデキる営業マンか、若くして管理職にいたエリートといったところだ。

「じゃあ本業――と言っていいのかわかりませんけど、不動産業が九条組の主な仕事なんですか?」

 いちかは前を走る車のテールランプを見つめたまま龍臣に尋ねた。彼が曖昧あいまいうなる。

「どっちかっていうと、俺個人のシノギだな」
「シノギ?」

 龍臣がちらりとこちらをうかがって目が合った。

「シノギってのは、極道の食い扶持ぶちを稼ぐ手段のことだ。みかじめ料って言葉、知ってるだろう?」
「ああ」

 いちかは合点がてんしたと示すため、大げさに頷いた。車は信号で右へ曲がる。

「飲食店とかの用心棒をする代わりに、お金をもらうってやつですよね?」
「そうだ。だが、最近じゃ取り締まりがきつくて昔みたいにはみかじめも取りづらくなってる。だからみんな、何かしら別のシノギを探しちゃ、汗水たらして働いてるのが現状なんだ」
「へえ……別のって、どんな?」

 食いついたいちかの顔を、龍臣が少し驚いた目をして見る。
 意外に思ったのかもしれないが、教職にくような人は元来知りたがりなのだ。聞いたことがない言葉があれば辞書で調べるし、知っていそうな人がいたら尋ねる。知らないままにしておくのが一番苦手だ。

「たとえばうちの組だと、シンジはたまに個室ビデオの店員をしてる。ユウタは知り合いの土建屋でユンボ動かしてるし、今日いなかったメンバーも、それぞれ建設現場で働いたり、実家の仕事を手伝ったりといろいろだ。不動産関連や金貸しのほうは、俺とナンバーツーの充がメインで動いてるが、若手も立ち退きや滞納家賃の取り立てなんかはやるんだぜ」

 なるほど、といちかは頷いた。
 こうして聞くと、ヤクザとしては割とまともな部類と言えなくもない。実際には、大声で恫喝どうかつしたり、迷惑料という名目でとんでもない大金を請求したりするのかもしれないけれど。
 ひととおり探求心が満たされたところで、そろそろ本題に入りたかった。
 この車がどこに向かっているのか、龍臣に聞き出さなければならない。道に慣れている様子から、ただやみくもに走っているのではなく、どこかへ向かっているのは明白だ。

「ところで九条さん。いい加減に教えてもらってもいいですか?」
「何をだ」

 いちかは素早く龍臣に身体を向け、あごをしっかりと上げる。

「とぼけないでください。どこへ向かってるのか、まだ聞いてないですよ」
「家に帰ってんだよ」

 彼がめんどくさそうに答え、窓を開けた。スーッと冷たい風が入ってくる。
 いちかは目をぱちくりさせて龍臣を見た。

「家に? ……え? 九条さんの家に向かってるんですか?」
「ああ」

 彼が煙草たばこに火をつけ、長々と吸って煙を吐き出す。信号待ちで停車した途端にこちらを向いた。

「お前、実家住まいなのか? それともひとり暮らし?」
「……ひとり暮らし、ですけど」

 ふふん、と龍臣が妙な笑いをらす。

「なら都合がいい。アパートだかマンションだかに戻って、何かあったら困るだろう? だから、今日からしばらくお前を自宅にかくまうことにした」
「ええっ」

 いちかは頓狂とんきょうな声を上げた。

(ことにした、って……!)

 カッと頬に熱が差し、全身から一斉に汗が噴き出す。ぶんぶん! と激しく首を横に振った。

「そっ、それはまずいですよ。だって――」
「だって?」
「だって……その……」

 そこで言葉を切ったはいいが、あとが続かない。
 こういう場合、一体なんと返せばいいのだろう。
 自宅に連れていくと言われただけで『何もしませんよね?』なんて聞いたりしたら、逆にその手のことを期待しているみたいではないか。
 ……いや。

(男女が密室でふたりきりの夜を明かすと、必ず身体の関係になるものなの……?)


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