1 / 21
1巻
1-1
しおりを挟むたった今自分の身に起きている災難を予知できたとしたら、絶対にこの道を通らなかっただろう。
穏やかな小春日和の、昼下がりの路地裏。ここは、都心から少し離れた駅の近くにある料亭の前だ。
表通りの喧騒も届かない、趣に満ちた古い家々が軒を連ねる閑静な通り。本来ならば、自分は今頃その先にあるカフェで、まったりとした至福の時を過ごしていたはずだ。それなのに、カフェに向かう途中でなぜか強面の男にいきなり手を掴まれ……
萬木いちかは、じんじんと痛みを発している手首に、震えながら目をやった。
ありきたりなベージュのコートの袖口から突き出た手首は、浅黒く肉厚な男の手に握られている。明らかにその筋の者とわかる、小指の欠けた手に。
「いましたぜ、兄貴!」
その男は通りに面した生け垣の中に向かって声を張り、いちかの腕を強く引っ張った。
通りにひしめく男たちが一斉に道を空ける。我に返ったいちかは、身体を斜めに引きずられつつも助けを求めようとするが、どこを見ても、凶悪な顔つきをした男しかいない。
「は、放してください……!」
黒のパンプスを履いた足を地面に踏ん張って、男の手を振りほどこうとする。男がいらいらした様子でいちかを振り返った。
(ひいぃっ……!)
その顔の恐ろしさに一瞬で全身が凍りつく。
顔面凶器――そう言い表すにふさわしい男の顔は眉がほとんどなく、額と眉間に深く皺が寄せられていた。チッ、と舌打ちした口の中、前歯があるべきところにはいくつかぽっかりと穴が。
「おいこら、大声出すなや。サツ呼ばれたら面倒じゃろうが」
「わわわわわかりましたぁっ」
飛び出したのは素っ頓狂な声。恐怖のあまり脚はがくがく震え、心臓が今にも張り裂けそう。男に手を引かれ、敷居に突っかかりそうになりながら料亭の数寄屋門を潜る。
「今日は兄貴の祝言なんじゃがのう、新婦がビビって直前に逃げよったんじゃ。客がようけ集まっとるけん、そのまま帰らせるわけにゃぁいかんからの」
「しゅ、祝言⁉」
(どうして私をそんな場に⁉)
「あ、あの、その新婦さんとは連絡がつかないんですか?」
「それができんからアンタに代わりになってもらおうと声掛けたんじゃろ。元の新婦は組の若いモンがその辺から無理やり引っ張ってきた女じゃけえ、ケータイ番号もわからんしな」
敷き詰められた砂利の上を進む男の背中を凝視しつつ、ごくりと唾をのむ。
こんな恐ろしい男たちに囲まれたら、誰だって逃げ出すだろう。いちかだって悲鳴のひとつも上げたかったが、喉に綿でも詰まったように声が出ない。抵抗も虚しく、料亭のだだっ広い玄関に足を踏み入れたのだった。
カポーン。
庭の鹿威しが、場違いなまでに優雅な音を響かせている。
若い畳の匂いに満ちた部屋で、いちかは身じろぎもせずに座っていた。
二十帖はありそうな和室の両側にずらりと居並ぶのは、紋付袴姿の男たち。彼らは部屋の真ん中に敷かれた赤い絨毯を挟み、向かい合って胡坐をかいている。
角刈り、スキンヘッド、きれいに整えた口ひげ、眉間に刻まれた深い皺。それぞれ違いはあれど、いずれもひと目で一般の人ではないとわかる風貌だ。
いちかにとっては、部屋の中がざわついていることと、何より、頭に綿帽子を被っていることが救いだった。これのお陰でいい感じに視界が遮られ現実逃避ができる。
繊細な鶴の刺繍が施された白無垢は、思わずうっとりと見入ってしまう美しさだった。
ただ、それを着ているのが自分自身、というのが信じられないだけで――
萬木いちかは小学校の教員をしている。二十七歳で独身。男女の出会いは少なく、彼氏はいない。いた経験すらない。現役で小学校の校長をしている父と、元教員である母のもとに生まれ、大学卒業以来、真摯な思いで教育に心血を注いできた。
身長体重ともに平均ならば、顔も平均だと思う。ややコンプレックスに感じているのは、垂れ目と童顔。唯一自分の顔で好きな部分は、笑うと頬に浮かぶえくぼだろうか。
肩下まである黒髪を染めたこともなければ、パーマを掛けたこともない。後ろでひとつに縛るという中学生の頃から変わらぬヘアスタイルのせいもあってか、友人には『真面目すぎる』と言われる。
小中学校と、あだ名は『委員長』だった。確かに生真面目だし、お節介で何にでも首を突っ込むところがある。それに両親に厳しく育てられたお陰で、不正を働いたり、約束を違えたりする自分が許せないのだ。
そんないちかが、ヤクザのような世間の道理の外にいる人たちと関わることなど、一生ないはずだった。それが、あろうことか見も知らぬどこかの組長と、身代わりで結婚させられるなんて……
そもそも、どうしてこんなことになったのか。不安と恐怖に押し潰されそうななか、ここに至る経緯を思い返してみる。
今日は土曜日で学校は休みだった。一週間頑張って働いたので、来週のために英気を養おうと、ひとりで暮らしているアパートの部屋でのんびり過ごしていたところ――
用務員から緊急の電話が入ったのは、昼を少し回った頃だった。いちかが担任をしている一年生のクラスの児童が、朝遊びに出たきり戻らないと、保護者である父親から連絡があったのだ。
急いでアパートを飛び出して電車に乗り、駅に着くなり学校まで走った。
休日開放で校門の鍵は開いていた。近くの公園を探してみようと、職員室から自転車の鍵を取って駐輪場へ着いた時、校庭の隅に見慣れた小さな影を見つけたのだ。
小柄な少年は、ひとり黙々と穴を掘っていた。聞くと、お宝発掘のテレビ番組を見て、校庭にも何かすごいものが埋まっているのでは、と考えたらしい。そういえば、『この小学校は今年で創立一二〇周年だよ』と、いちかは昨日の帰りの会で話した。学校の校庭にも何かお宝が埋まっているのでは、と少年が期待したのも無理はない。
その後いちかは、校庭に穴を掘ってはいけない理由と、教室で何度も教えてきた外で遊ぶときのルール――行き先と帰る時間を家族に伝える、できるだけひとりでは遊ばない、などをもう一度話して聞かせ、彼を自宅まで送り届けたのだった。
帰りの電車に揺られつつ、いちかは安らぎと充実感を覚えていた。休日出勤したとはいえ、児童の安全は無事守られ、意味のある指導ができたのだ。平穏な日常が戻ってきたなら、それでいい。
そう、そこまではよかったのだ。
いちかは深くうなだれて、自分が今置かれている境遇を呪った。
この料亭の前さえ通らなければ、こんな目には遭わなかったはずだ。まっすぐに家へ帰ればいいものを、なぜ今日に限って、お気に入りのカフェの存在を思い出してしまったのか……
(もう、もう、私のバカーー!)
心の中で自分の頭をポカスカたたいて、すぐに、いや、と思い直す。
むしろ、休日出勤をした今日だからこそ、自分を癒したかったのだ。
黄金色をした蜜のかかったふかふかのパンケーキ。バリスタが厳選したという深煎りコーヒー豆をサイフォンで丁寧に抽出した豊かな香り……
あの芳醇な香りもビジュアルも魅力的すぎた。早くありつきたいあまりに、物々しい黒服の集団の中を突っ切ろうと考えてしまうほど。その途端、まさか男に手を掴まれるなんて思いもせず――
その時、ふいに廊下が慌ただしくなり、いちかはハッとした。
ついに新郎がやってきたのだろうか。ざわついていた室内から音が消え、静寂が広がる。
とん、とん、と廊下の板張りを踏みしめる音。目の前に居並ぶ男たちよりも、さらに恐ろしいビジュアルの花婿姿が脳裏に浮かび、身を硬くする。
入り口の引き戸が勢いよく開いて、びくっ! といちかは飛び跳ねた。
「大変お待たせいたしました」
朗々と響いた男の声に、胸が割れんばかりに鼓動が激しくなる。想像していたよりも若い声だ。恐るおそる顔を上げて、綿帽子の向こうにその姿を捉える。
光沢のある紋付に身を包んだ男が、身を屈めて鴨居を潜ってくるところだった。部屋の入り口でスッと顔を上げた男の姿に、思わず目を見張る。
ほかの人よりも頭ひとつ分は高いすらりとした背丈。細身だが肩幅が広く、首はがっしりと太い。
歳は三十代前半くらいだろうか。三白眼ぎみの鋭い目つきに精悍な顔立ちで、豊かな黒髪をぴっちりと後ろへ撫でつけている。
姿勢よく背筋をピンと伸ばした立ち姿は、とてもヤクザのイメージとは結びつかない立派な好青年のそれだった。
(これが……ヤクザの組長?)
悔しいけれど、和装の似合うきりりとした表情には、『イケメン』以外の言葉が見つからない。じっと見ていると目が合い、慌てて視線を外した。
男がいちかの隣にやってきて、用意された座布団の上に正座する。一旦は静かになった会場が、またざわつき始めていた。
「おい」
広げた扇子を口元に当てて、男が声を掛けてくる。
「は、はいっ……。なななんでしょう」
慌てて返事をするが、声が馬鹿みたいに震えてしまう。男が鼻で笑いつつ、肩を寄せてきた。
「突然のことで悪かったな。手荒な真似はされなかったか?」
「はい……特には」
いちかは白打掛の袖口を強く握りしめた。男がじっとこちらを見つめているのが綿帽子越しにもわかって、恐怖やら、変にどぎまぎするやらで生きた心地がしない。すると、男が一層距離を縮めてきたので鋭く息をのむ。
「震えてるようだが……大丈夫か?」
低い声が布越しに響く。もし綿帽子を被っていなかったら、男の唇が耳に触れそうだ。
「だっ、大丈夫ですっ!」
自分でも思いもよらない大きな声が出てしまった。どやされるのでは、と勢いよく男を振り向いて、威圧感に満ちた目に思わず釘付けになる。
いちかが男としっかりと目を合わせたのは、これがはじめてだ。
力強い三白眼の眼差しが、揺らぎもせずにこちらを覗き込んでいた。澄んだ白目に、黒々とした瞳。真一文字に引き結ばれた唇は薄く、わずかに口角が上がっている。
最初に思った通り、骨格のがっしりとした凛々しい顔立ちだ。きらきらした瞳に吸い込まれそうになり、目をしばたたく。
男はいちかの目をまっすぐに見て、真面目な表情になった。
「言っておくが、お前に危害を加えるつもりはない。所帯を持つことを条件に親父から新しいシマをもらえる話になってるんだ。式が終わったら解放してやるから安心しろ」
落ち着いた口ぶりのためか、不思議とその言葉に偽りはない気がする。
おずおずと頷くと、男はすっと目を細め、一瞬優しそうな笑みを浮かべた。しかし扇子を下ろすと同時に冷たい眼差しで前を見据える。
「それでは皆様、ご静粛に願います。これより、九条組組長九条龍臣、婚礼の儀を執り行います。本日の司会進行を務めさせていただきます、新藤組若頭、嶋浩一郎でございます」
礼服を着た男の一礼に合わせて拍手が起こった。
新郎の男――九条龍臣というらしい――は座布団から下りると、正座した状態で少し踵を上げ、三つ指をつく。
「本日は蒼龍会本部、並びに系列各組の諸兄方におかれましては、お忙しいなかご参列いただきまして誠にありがとうございます。所用のため、到着が遅くなりましたこと、平にお詫び申し上げ――」
その時、料亭の外の通りから轟音が響いて、いちかは小さく悲鳴を上げた。次いで、ガタン、バタンと何かがぶつかる音。最初に聞こえたのは車が事故を起こしたと思しき音だったが、そのあとのは、料亭の外側にぐるりと巡らされた板塀に、重いものがぶち当たるような音だ。
(な、何……!?)
無意識のうちに、隣に座る龍臣のほうへにじり寄る。
不穏な状況に固唾をのんでいるのはいちかだけではない。会場は一気に色めき立ち、ついさっきまで静かに座っていた紋付袴の男たちが、片膝を立ておのおの顔を見合わせている。
龍臣の大きな身体がいちかの前に立ちはだかり、影を作った。
「下がってろよ。おそらく出入りだ」
「……でいり?」
「出入りってのは、敵対する組のところに襲撃をかけるってことだ。ここんとこ、仕事がらみでトラブった相手にアヤつけられてるんでな。しかし――」
白目がちな龍臣の目がぎらりと輝き、口角がにんまりと上がる。
「この俺の盃事を穢すとはふてぇ野郎だ……」
(ちょ――)
その笑顔があまりにも残忍そうだったので、息を吸い込み両手で口を押さえる。
さっき一瞬でもこの男を優しいかもしれないと思ったことを、いちかは後悔した。所詮ヤクザはヤクザ。市井に生きる一般人とは違うのだ。
いちかにとって、今はこの状況を生き伸びるのが何よりも大事なことだった。ここで泣き叫びでもしたら、一体何をされるかわからない。
料亭の玄関がにわかに騒がしくなった。それを号令にしたかのように、礼装の客たちが一斉に部屋を飛び出していく。大勢の人間が靴のまま廊下を走る音、ドスの利いた怒号が入り乱れ、風雅な料亭は一転して戦場になった。
「オラァ、九条はいるかー!」
派手なシャツを着た太った男が、障子を踏み倒して部屋の中に入ってくる。いちかは震え上がった。男が肩に担いでいるのは鉄パイプだろうか。
「いるよ。あいにく取り込み中だがな」
相変わらずいちかを隠すようにして立ちはだかっている龍臣が、しれっとして言う。
太った男は何かをわめき散らしながら、龍臣に襲いかかってきた。
「きゃあ!」
いちかは跳びしさろうとして派手に転んだ。長い時間正座を続けていたせいで足が強烈に痺れている。よりによって、こんな時に。
龍臣は三々九度のために置かれていた塗り盆を取り上げて応戦した。男の攻撃を受けた瞬間に真っ二つに割れた塗り盆を投げ捨て、同時に男の手首を掴み背中側にひねり上げる。太った男は鉄パイプを取り落とし、丸々とした顔を真っ赤に染めて呻いた。
「おい、何してんだ、早く逃げろ!」
龍臣がいちかに向かって叫ぶ。
「そ、それが、足が痺れて」
と、言いながら立ち上がろうとして、またその場にくずおれる。まるで膝から下が棒切れか何かにすり替えられたみたいだ。
「はあ? どうにかして逃げろよ。怪我するぞ」
「そんなこと言われても――」
そこへどかどかと靴音が響き、障子のなくなった入り口に別の男たちが現れた。
「いたぞ! 九条を狙え!」
それぞれ武器を手にした男たちが踏み込んでくる。龍臣は太った男の腹を蹴り飛ばし、さっき男が落とした鉄パイプを拾った。
半ばパニックになったいちかは、男たちが入ってきたのとは反対側の廊下へ這うように向かった。今や脚だけでなく、腰からも力が抜けそうだ。
やっとのことで廊下に出ると、そのまま奥へと向かう。なんとか端の部屋にたどりつき、障子を開けて中に飛び込む。ぴしゃりと障子を閉め、震える息を吐き出した。
部屋の中には誰もいない。ここはいちかが最初に連れてこられた、控えの間として使われているらしき狭い部屋だ。料亭に引きずり込まれたあと、ここで『姐さん』と呼ばれていた中年の女性に着付けをされたのだった。
部屋の隅に置かれたスチール製のハンガーラックに目をやって、ホッと息をつく。よかった。ここに来るときに着ていたスーツと鞄がちゃんとある。
ようやく脚の感覚が戻ってきたので、ふらつきながらも立ち上がってみた。大丈夫そうだ。急いでハンガーラックへ向かい、花嫁衣裳一式を脱ぎにかかる。
しかしこれがどうにも厄介だった。白無垢なんてはじめて着たし、そもそも浴衣以外の和服は成人式以来だ。綿帽子とかつら、白打掛、帯締め、帯、帯揚げ、長襦袢、肌襦袢……辛うじて名前だけ知っているパーツをひとつひとつ解いていく。手が震えて思うように動かない。だいぶ時間を掛けてすべてを脱ぎ、シャツをハンガーから外した時――
スパーン! と音がして、部屋の障子が勢いよく開いた。鋭く息をのみ、キャミソールの胸元にシャツを押しつける。
「おう、アンタが九条の女か」
ガタイのいい角刈りの男が部屋に踏み込んできた。ギョロッとした大きな目に、過去に骨折でもしたのか、不自然に曲がった鼻。その顔がなんとも恐ろしくて、思わず後ずさりする。
「ひ、人違いです。私は、こっ、この料亭の従業員で――ひっ!」
ずかずかと近づいてきた男の手に小刀が握られているのを見て、いちかは凍りついた。
男が古傷の残る唇を奇妙な形に歪める。値踏みするかのごとくいちかの全身を眺め、そして、誰かの血で汚れた小刀をこれ見よがしにちらつかせた。
「おねえさん、下手な嘘でごまかしてもいいことねえよ?」
「や……やめてください」
男の喉からぜいぜいという笑い声が響く。
「俺も手荒な真似はしたくねえんだけどさ、アンタを組に連れて帰れば、九条にかすめ取られた金、戻ってきそうだと思ってよ」
(……は?)
ヤクザの事務所に連れていかれるなんて、洒落にもならない。いちかは勇気を振り絞って男の目をまっすぐに見る。
「わ、私はあの人と関係ありません」
「……ああ?」
男の表情が急に変わった。
後ずさりを続けるいちかの肩に、ざらりとした砂壁が触れる。左は壁、右側にはハンガーラックがあり、壁際にできたくぼみに身体がすっぽりと嵌った状態だ。逃げ場はない。男はなおも距離を縮めてきて、顎がいちかの額に触れそうなところまで近づいた。
「とぼけんじゃねえぞ、コラァ!」
「きゃあっ!」
ドスの利いた恫喝に心臓が潰れそうになる。さらに剥き出しの二の腕を掴まれて、いちかはいよいよ恐慌状態に陥った。
もうなりふり構ってなどいられない。
胸元を隠していたシャツを放り投げ、出口へ向かって足を踏み出した。しかし相手は男だ。大柄で力も強く、がっしりと掴んだ腕を簡単には放してくれない。男の手を振りほどこうと、肘をぶんぶん振り回す。
「放して!!」
「うるせえ、このアマ!」
知性を持たない獣のような目を輝かせ、男が小刀を握った拳を振り上げた。いちかは鋭い悲鳴とともにその場にうずくまり、目をつぶる。
――終わった。
まさか自分の死が、こんなにも唐突に訪れるとは思いもよらなかった。しかもヤクザに襲われて命を落とすなんて。
いち教師として、自分はそれなりにやってきたと思う。かわいい子供たちに、日々起こる小さなトラブル。それを乗り越えた先にある大きな喜び。
心残りなのは、育ててくれた両親に別れの挨拶とお礼が言えなかったことだ。まぶたの裏に浮かぶふたりの姿に手を合わせる。
(お父さん、お母さん、先立つ不孝をお許しください。神様、ついでと言ってはなんですが、もしも生まれ変われるとしたら、今度はアラブの石油王か、絶世の美女でお願いしま――)
「ギャアッ!」
潰れた蛙のような声が響いて、いちかは心臓が止まるかと思うほどびっくりした。何が起きたのだろうと目を開けてみたところ、小刀を持った男の手が、その後ろにいる何者かによって高くひねり上げられている。
気づけば握られていた腕が軽い。鼻の曲がった男は、うっ血した手を震わせて苦しそうに呻いていた。龍臣だ。男の後ろに、紋付袴姿の龍臣がいる。
「バカ野郎。女に手ぇ出してんじゃねえよ」
彼は低い声で言うと、男の身体をくるりと回し、背中を後ろから蹴り飛ばした。憐れ男の身体は吹き飛んで、襖をぶち破り、隣の部屋にどさりと倒れ込む。
「九条さん……!」
とっさに男の名前が口をついたことに、いちかはびっくりした。
「遅くなって悪かった。大丈夫か?」
目の前に覆いかぶさるようにして片膝をついた龍臣が、いちかの頬に手を当ててくる。あたたかくて大きな手だ。彼の親指が頬をそっと撫でた時、自分が涙を流していたとはじめて知った。
「あ、ありがとうございます」
鼻を啜りつつ礼を述べ、龍臣の目を見る。
白目がちではあるがよく見るとまつ毛が濃く、きれいな二重だ。その眼差しは優しく、わずかに弧を描き……そして、いちかの胸元にとっくりと見入っていた。
「……ちょっ!」
慌てて両手で胸元を押さえる。すっかり忘れていたが、ブラの上にキャミソールしか着ていないのだ。
「残念。いい眺めだったんだがな」
しれっと言って立ち上がる龍臣をいちかは睨みつけた。しかし、彼の後ろにのっそりと迫る影が見え、すぐに息をのむ。
鼻の曲がった男はまだ伸びていなかったらしい。男は手に小刀を取り戻していて、だらだらと鼻血を垂らしながら龍臣を見据えている。
「九条さん、後ろ!」
いちかが声を出すより早く、男が龍臣の背中めがけて突進した。
龍臣が悠然と振り返り、やや上体を倒して男の腹部に向け後ろ足を蹴り出す。しかし今度は敵も警戒していた。すんでのところで龍臣の蹴りをかわし、もう一度勢いをつけて腕を前に突き出す。
「おっと」
すぐに体勢を立て直した龍臣が横にスライドして攻撃をよけ、男の腕を掴んだ。そのまま男を振り回し、思い切り背中から壁に叩きつける。
派手な音を立てて建物が揺れた。男は後頭部を強打したのか斜めによろめきつつ、いちかのほうへやってくる。
「きゃあ!」
男が刃物を握ったほうの手を振り上げた。
刺される――そう思い身を硬くした瞬間。
「うぉらぁあああああ!」
龍臣が雄叫びを上げながらふたりのあいだにダイブしてくる。どすん、と目の前に彼の大きな身体が倒れ込み、衝撃で畳が揺れた。
「おい、大丈夫か?」
龍臣が背中を向けたまま少しだけ首をこちらへ向ける。どういう状況かわからないが、とりあえず助かったようだ。
「え、ええ」
取り急ぎ返事はしたものの、脚が彼の上半身の下敷きになっているため身動きがとれない。こちらを向いた彼の背中はぶるぶる震えている。
(お、重い……一体何がどうなったの?)
いちかは戸惑ったが、すぐに龍臣の身体が向こう側へ回転して、脚がフッと軽くなった。急いで脚を引き抜いて、ふたりの様子に目をやる。
仰向けになった男の上に、龍臣が覆いかぶさるような格好になっていた。刃物を握った男の手首を龍臣が掴み、渾身の力で押し戻そうとしているところだ。ふたりともすごい形相をしている。
男の顔面にぽたぽたと赤い雫が滴るのを見て、いちかは血の気が引くのを感じた。出血しているのは龍臣のほう。いちかと男とのあいだに割って入った時に腕を負傷したらしく、袖口に覗く太い前腕に、ひとすじの赤い川が流れている。
まさか、身を挺して守ってくれたのだろうか。
死を免れた安堵よりも、赤の他人に対してなぜそこまでするのか、という驚きのほうが大きい。
自分がいなかったら龍臣は怪我なんてしなかっただろう。そう考えると申し訳ない気持ちになってしまう。
ふたりの男たちは揉みくちゃになって、互いに上になったり下になったりしながら転げ回っている。ふたりとも血だらけだ。壁に叩きつけられた龍臣の手が、男の腕から離れた。すぐさま男が、刃物を持った手を龍臣の顔の近くで振り回す。
いちかは両手で口を覆い、息をのんだ。が、次の瞬間、素早く身をかわした龍臣が男の手首を畳に押さえつけるのを見て、思わず安堵する。
(いやいや、なんで私がホッとするのよ……!)
なんだか胸がもやもやする。龍臣は自分を守ってくれたけれど、ここを逃げおおせれば今後関わることは一切ない。肩入れする筋合だってないのだ。
「早く、逃げろ」
龍臣がこちらを見ずにかすれた声で言う。
「でも」
「いいから行け」
そう言われたいちかは、揉み合っているふたりを尻目に素早くスーツを着て、転がっている鞄を拾い上げた。
もういつでも逃げられる状態だ。とはいえ、自分をかばって怪我をした龍臣をこのまま置いていっていいとは思えない。
どうするべきかと部屋の入り口でおろおろしていると、下から蹴り上げられた龍臣が目の前に転がってきた。
10
お気に入りに追加
223
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ミックスド★バス~家のお風呂なら誰にも迷惑をかけずにイチャイチャ?~
taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。
お互いの部屋のお風呂で、人目も気にせず……♥
えっちめシーンの話には♥マークを付けています。
ミックスド★バスの第5弾です。
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
性欲の強すぎるヤクザに捕まった話
古亜
恋愛
中堅企業の普通のOL、沢木梢(さわきこずえ)はある日突然現れたチンピラ3人に、兄貴と呼ばれる人物のもとへ拉致されてしまう。
どうやら商売女と間違えられたらしく、人違いだと主張するも、兄貴とか呼ばれた男は聞く耳を持たない。
「美味しいピザをすぐデリバリーできるのに、わざわざコンビニのピザ風の惣菜パンを食べる人います?」
「たまには惣菜パンも悪くねぇ」
……嘘でしょ。
2019/11/4 33話+2話で本編完結
2021/1/15 書籍出版されました
2021/1/22 続き頑張ります
半分くらいR18な話なので予告はしません。
強引な描写含むので苦手な方はブラウザバックしてください。だいたいタイトル通りな感じなので、少しでも思ってたのと違う、地雷と思ったら即回れ右でお願いします。
誤字脱字、文章わかりにくい等の指摘は有り難く受け取り修正しますが、思った通りじゃない生理的に無理といった内容については自衛に留め批判否定はご遠慮ください。泣きます。
当然の事ながら、この話はフィクションです。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。