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昔の愛人の暮らしぶり ⑧
しおりを挟むその八
「すっかりお客さんにプライベートを話してしまったわね、ごめんなさい」
B子は少し紅潮した顔で謝るのだった。
「そんなことはないですよ、ママさんがご自身のことを、こんなイチゲン客
に話してくれて嬉しいですよ。僕もこれまでの滅茶苦茶な人生を披露したくなってきたけど、もう遅いですからね」
「いいわよ、時間なんて。まだ11時半じゃないの。時々日付が変わっても、お客さんによっては店を開けている日もあるから。でも宮津にまた出張があるんでしょ?」
「もちろんまた来る機会がありますよ。その時はママさんとその男性との話の続きが聞きたいものですね」
もう二度と来ることはないかもしれないが、いつからかB子も私も丁寧語を使わず、友達に話すみたいな口調になっていた。
そういう気さくな雰囲気をB子は持っていた。
おそらくこの店はそこそこ繁盛していることだろう。
色香漂う美貌があり、気取らず話し上手。料理も悪くないし、これで繁盛しない訳がない。
「続きはないわよ、その人とはそれっきりだしね」
B子はカウンター内に戻り、片付けを始めながら悪戯っぽい顔で言った。
「実家はこの近く?」
「そう、この先の商店街の向こうなの」
「何故実家に住まないの?」
「実家はいったん大阪に就職した弟が帰ってきて、結婚して両親と住んでいるのよ。家は広いけど、そこに私たち親子が同居できないでしょ。私はこの店の前のアパートでいいのよ」
B子はあっさりとした口調で話す。
B子の現在の暮らしぶり、実家の状況、変わらない人柄など、もう既に依頼人が満足するだけのレポートを書くのに十分だった。
B子は依頼人A氏に対し全く悪意を持っていなかった。
B子から恨みに該当する言葉は一つも出なかった。
恋愛に真面目や不真面目があるとすれば、二人の恋愛は極めて真面目なものだったのだろう。
B子は相手の家庭を壊してまで愛に生きたくはなかった。
自分の幸せは、もう一人の女性だけではなく、その女性を含む家族をも不幸にしてしまうことが分かっていたのだ。
B子はA氏と別れる際に、お互い連絡を取り合わないことが二人の関係が純粋だったことを証明することであると考え、それを二人で決めた。
そして二人はそれを実行している。
恋愛が本物であるほど、その取り決めを実行する苦しみはついて回る。
だが今日まで二人はその苦しさを乗り越え耐えてきた。
時間の経過はその苦悩を和らげ、日常生活にやがて埋没して行く。
B子は私のような全く利害関係のない客がある日やってきて、その客がプライベートな部分を語りだしたことで、自分の身の上話を語りだした。
でもきっと、普段はこの宮津の常連客やイチゲン客がきたとしても、決してA氏との関係、約束事などは話さないだろう。
さて、そろそろ店を退いて宿に帰ろうと思っていたところ、入り口がガラッと開いた。
そこにはジャージ姿の丸刈り少年が立っていた。
「なに、あんた。先に寝ていたらいいじゃないの。すみませんお客さん、息子なんですよ」
B子は再び私に丁寧語で言った。
「こんばんは」と息子は軽く頭を下げて私に言った。
浅黒い賢そうな顔をした少年は、中学一年生にしては立派な体格に見えた。
「雨が降ってるし、ちょっと遅いから後片付けを手伝おうと思って・・・」と息子は言った。
「そんなのいいっていつも言ってるでしょ、明日も朝レンでしょうが。いいから帰って早く寝なさい」
少年は野球部に入っているらしく、早朝練習が毎日あるとのことだった。
私はとっさにカバンからコンパクトカメラを取り出し、「ママさん、今日は楽しかったです。良い酒だった。ちょっと悪いが写真を撮ってくれませんか?」
と言った。
前掛けで手を拭きながらカウンターから出てきたB子は「ああ、いいですよ。こんな店でも楽しんでくれたら私は嬉しいです」と言ってカメラを受け取り、私が一本の徳利を手に持って顔の辺りに掲げたポーズをパチリと撮った。
「今度は僕が撮らせて。ママさん、息子さんとそこに並んでください」
息子さんをママさんの隣に立つように誘導して、一気にシャッターを押して念のため二枚撮った。
間髪を入れない流れが必要だが、運よくうまくいった。
依頼人が望んだ調査はこれで完璧である。
「ありがとう」と一言残して、私は店を出た。
傘を持っていなかった私に、息子は自分が持ってきた傘を手渡すのだった。
礼儀正しい、素直な息子であることに間違いはない。
このように育てあげたB子は立派だ。
赤ん坊の時から今日まで、きっと辛く苦しい時もあったことだろう。
A氏に連絡を取りたい、力を借りたい、そばにいて欲しい、と何度も何度も思ったはずである。
失って初めて相手の存在の大きさが分かったとしても、守らなければならない約束に苦しんだはずである。
だが、B子はA氏との約束を守り通した。
A氏も同様だった。
仮にA氏がB子のことや息子のことを思わない心無い人間だとしたら、今回のような調査依頼はしてこなかっただろう。
関係が本物だと、交わされた約束は必ず果たされるものなのだ。
B子とA氏の場合、出会いも別れも、いわば最初から決まっていたのだ。
それでも二人は純粋に愛し合ったのだろう。
わずか三時間足らずのB子との接触だった
が、私には二人の関係が細部まで分かるような気がしたのだった。
私は静かに降り続ける小雨の中、宿に向かってゆっくり歩いた。
街はすべての家々や商店の明かりが消えてしまっていた。
ところどころに立つ街灯だけが心寂しく舗道を微かに照らしていた。
夜になると本当に寂しい町だ。
このような町でたったひとりで息子を育てて生きてきたB子は凄いなと、素直に私は思った。
ところがそのとき、なぜかうしろからB子が駆けて来た。
「お客さん、ちょっと待って」と言いながら小走りに近づいてきた。
忘れ物などないはずなのだがどうしたのだろう。
「これ、宮津名産の黒ちくわとかまぼこ。少しだけど持って帰って」
彼女は持っていたひとつの袋を私に差し出した。
「どうしてこんなものまで・・・」
「いいのよ、いろいろと話を聞いてくれてありがとう。それから、あの人によろしく言っておいてね。そして、私はなんとか元気にやっているからって。じゃあね、ありがとう」
B子はそう言って立ち去った。
私が礼を言う間もなく、身を翻して行ってしまった。
私は呆然と佇んだ。彼女は気づいていた。
なぜなんだ?
どういうわけか感付かれてしまったようだ。
道理でいろいろと喋ってくれたわけである。
初対面の客に、あんなには次々とプライベートな事柄を話さない。
どうしてそんなことに気がつかなかったのだろう。
きっとB子は途中から、私がA氏から頼まれて様子を見に来たと思ったののだろう。
しかし何故なんです?
私はB子のうしろ姿が見えなくなるまで見届けた。
翌日、宿をチェックアウトした私は、昨夜借りたB子の息子の傘を店の入り口にそっと立てかけて宮津をあとにした。
-完-
次号からは「昔の男の縁切り証明依頼」というヘンテコな調査案件をお届けします、よろしくお願いします😊
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