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サヨナラの終わり その53
しおりを挟む時刻は午後五時を少し過ぎていた。僕たちは鉄道高架をくぐって銀座へ通じる大通りの角にあるビアレストランに入った。
広々とした店内には、まだこの時間では客は数組いただけだった。店には様々な国のビールがメニューに用意されていた。
昔、大阪の梅田あたりの店で江美の会社帰りによくビールを飲んだことを思い出した。あのころの僕はどうしようもない大学生だったなと思った。
「浩一、今夜私の泊まっているホテルに来てくれるでしょ?」
「もちろんそのつもりだよ」
江美が朝言っていた「覚悟して」の意味は予測したとおりだった。
僕たちはグラスビールを二人で十五杯ほども飲んでふらつきながら店を出た。有楽町駅から有希子に電話をかけて帰れない理由を説明した。
彼女は「分かったわ。あまり飲み過ぎないようにね」と言っただけだった。有楽町駅から品川駅へ山手線で向かった。
電車の中で江美は僕にキスを求めてきた。なぜ十年以上も空白があったふたりが、あたかも別れた時点と時間がつながったかのように関係が戻るのが不思議だった。
僕たちは人目をはばからず身体を寄せ合い、ときどき軽くキスをした。周りの乗客が見ているような気がしたが、江美となら全く気にならなかった。
ふたりとも完全に酩酊しながらも江美の泊まっている品川のホテルにたどり着き、そして倒れ込むように部屋に入った。
「浩一、これが本当に最後よ。そして私たちやっと友達になるの」
江美を抱きしめた。酔いで意識が朦朧としながらも、僕の胸でつぶれる江美の大きな胸の膨らみを懐かしく感じた。昔とただの一ミリさえも変わっていなかった。
江美を抱いていると、十年余りの年月が過ぎ去ったことが、まるで錯覚のような気がした。僕は有希子と結婚してから初めて妻以外の女性を抱いた。それが江美だったのはおそらく必然に違いなかった。
「江美、日比谷公園を出てから君が言った言葉が気になるんだけど・・・もしかして君は僕のためにわざとお腹の赤ん坊を・・・」
「浩一、もう言わないで。何もないのよ、終わったことだし」
江美は僕の言葉を遮るように強く言った。僕は江美をしっかり記憶にとどめるためにこれ以上ないくらいの力で抱きしめた。
「私、浩一と最後にエッチしたあと誰ともしてないのよ」
「十年以上も?」
「そうよ、おかしい?」
かなり酔いがまわった頭の中でぼくは混乱し、深い悲しみが襲ってきた。「江美、許してくれ」と僕は心で叫んだ。
僕は知らず知らずのうちに泣いていた。江美の頬にも涙がつたっていた。僕たちふたりは同時に大きな悲しみに包まれていた。
江美とつながると懐かしい感覚が僕を包んだ。江美の身体以外の何かが、僕のものを優しさで包もうとしているような、懐かしくて心地よい不思議な感覚だった。
そしてそれは次第に大きくなった。僕と江美の大きな悲しみは、ふたりが深くつながってしっかり抱き合っていると、その不思議な感覚とともに薄れていくのだった。
まるでふたりが十年以上も経って再び愛し合ったことで、失われたひとつの命によって免罪符を与えられたかのように消えていった。
「江美やっぱり友達にはなれないよ」と僕は心の中で呟いた。江美は僕の身体にしがみついて震えていた。
翌日、僕は品川のホテルから出勤した。僕も江美もひと晩で命のすべてを吐き出してしまったかのように虚脱感に陥っていた。
「私はもう昔みたいに体力がないわ。でも浩一はよっぽど溜まっていたのね。凄かったわよ」と軽口を叩いた。
僕は出社してからも身体のあちこちのネジが緩んでいるような気がして、何かの拍子にバラバラになってしまいそうだった。江美とは今夜もう一度会う約束をしていた。
昼過ぎに有希子から会社に電話が入った。「今夜は家で食べるの?」と確認の電話だった。
まだ友人が滞在しているからもう一日案内しないといけないと説明し、「でも今夜はどんなに遅くなっても必ず帰るから、心配しなくていいよ」と言った。
有希子は「わかったわ、あなたも大変ね」と少し弾んだ声で言った。午後六時ごろに僕は江美の泊まっているホテルに着いた。彼女はロビーで待っていた。
僕たちはホテル内のレストランで食事をした。これが最後の食事になるだろうと思った。
「今日は東京タワーや浜離宮公園にいったのよ。もう東京に来ることもないかも知れないと思うと寂しいわ」
「僕が島根へ行くよ」
「いいわよ、いつでも待っているわ。友達だからね」
食事のあと僕たちはもう一度抱き合った。もう悲しみに襲われることはなかった。ひとつの失われた命が僕と江美をようやく許してくれたのだと思った。
「君は結婚したら僕が今まで君とエッチした何十倍何百倍もの回数、相手の男とするんだな。殺してやりたいよ」
「馬鹿ね」
「どうして馬鹿って言うんだ?」
「私は、本当は浩一と暮らしたかったのよ」
そう言って江美は涙を流した。僕はもう何も言わなかった。僕だって江美と同じ気持ちだ。
でも、人生とは多くのことが自分の意思や希望とは違う別の方法へ進んでしまうのだ。今の僕の姿を十年以上前に想像できただろうか?流れのままに生きていくしか術はないとまでは言わないが、自分の望みをひと欠片ずつ諦めていくのが人生なのだと僕は思った。
「江美、僕とこのままどこか遠くへ行って、ひっそりと暮らそうか?」
「そんなことが浩一にできる?」
「簡単なことだよ。何の躊躇もない」
「馬鹿ね」
江美はすべてを悟りきったかのような微笑みとともにそう言った。
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