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サバイディー、南方上座部仏教国の夕陽 ㊶
しおりを挟む第一章 2001年 春
四十一
プーシーの丘とは、ルアンパバーンの街の中心部に、うまい具合にポツンとある小さな山の頂上を指す。
メインストリートに面した登り口から階段を三百段以上も登った頂上には小さな寺院が設置され、そこから見下ろす眺めは絶景だとの話である。
僕達三人は民芸品屋の軒下でしばらく雨宿りをしたあと、ちょっと小雨になったのを確認して石段を登りはじめた。
トントントンと半分ほど登ると再び雨が激しくなり、ちょうど入場料を支払った小屋でしばらく休憩しながら、何とか頂上までたどり着いた。
ふたりは若いから、このような石段も何ということなくドンドン登って行くのだが、何しろ僕は中年だし、しかも目下のところ体調は最悪ということもあって、頂上にたどり着いた時にはほぼ瀕死の状態であった。
しかし無理をおして登ってきた甲斐があり、そこからの景色は本当に最高だった。
雨が降ってややモヤがかかっていたことがさらに映えて、まるで緑溢れた箱庭のような感じで、世界遺産に登録された町であることが十分納得できた。
しばらく頂上から東西南北の景色を堪能し、写真を撮ったり物思いに耽ったりしたが、何しろ頂上といってもゆっくり一回りしても五分もかからないのだから、長くいても仕方がない。
それにますます下痢がひどくなり、汚い話だが、お尻の括約筋に力を入れてなんとか止まっている状態で、いよいよ苦しくなってきた。
ひとりの男性とは、「これからも良い旅を」とここで別れ、僕はO村君とフラフラしながら階段を降りて、下痢止めを買いに薬局を探すことにした。
O村君が確か市場の近くに薬局らしき店があったというので、タラートの方向に歩いた。
薬局は結局、僕のゲストハウスから通りに出てタラートのほうに曲がった通りの店の並びにあった。
店には若い娘さんが一人で店番をしており、僕はちょっと恥ずかしい気がしたが、ともかく言葉が通じないようなので、おなかを手で押さえて次にお尻の辺りを指で示しながら、「Loose!」と何度も言ったら分かってくれたようだった。
時刻は午後6時を過ぎたので、僕達は近くのレストランに入った。
O村君はフライドライス・ウイズ・チキンとビアラオ、僕はオニオンスープとオレンジジュースを注文し、先ほど購入した下痢止めと思われる薬をミネラルウオーターで流し込んだ。
O君は、「大丈夫ですか?宿に帰って休んだ方が良いのではありませんか。僕だけビールを飲んでごめんなさい」と気を遣ってくれ、優しい人柄にこちらが恐縮してしまうくらいだった。
このO村君は横浜の人で、年令は二十八才、阪神タイガースの藪投手に顔立ちや身体つきが似ている好青年である。
落ち着いた物腰で静かに考えながら話し、粗野で言いたい放題の僕とは対照的で、きっと女性にモテるに違いないと思った。
彼は僕に、「どのようなお仕事ですか?」と訊いてきたので、正直に探偵調査会社に勤めていると答えた。
「日本にもそういう仕事があるのですねぇ」と、やっぱり彼も少し驚いた反応をした。
彼は大学卒業後、コンピュータ関係に従事し、主にハード面のメンテナンスを行ってきたらしい。
以前から旅の魅力に取り付かれているため、雇用形態が気分的に楽な派遣会社に登録して、一定期間派遣で仕事をして貯蓄し、契約が切れると旅に出るという生活を繰り返しているとのことだった。
今回は1年間の計画で、アジアを横断して最終的にトルコからギリシャに向かうという、いわゆるユーラシア大陸横断旅行の目的で、ニ週間程前に日本を発ったらしい。
一時間あまり、彼と人生や旅について有意義な話をして、とても良い夜を過ごせたが、体調は一向に良くならず、オニオンスープも殆ど残してしまった。
お互いにメールアドレスなどを交換してからレストランを出て、しばらく歩くと彼が、「甘味屋がありますから、ちょっと寄りましょう」と言い、僕が脂っこいものを全く食べられないことに気を遣ってくれるのであった。
甘味屋はアジアでは所々に見かけ、店先にはフルーツや寒天や色とりどりの甘味食材が容器別に並んであり、食べたいものを指差して容器に入れてもらい、それに砕いた氷をガサッと入れて出来上がりである。
僕はあんみつのようなものを注文し、全部食べることは無理だったが、体調が悪い時の甘いものは本当に美味しく感じた。
甘味屋を出て僕の宿の方向に歩き出し、彼のドミトリーはその先にあるらしいのだが、いよいよお別れだ。
僕は明日の午前便の飛行機でHさんとビエンチャンに向う。
「それじゃあ、くれぐれも身体に気をつけて良い旅を」
「藤井さんもお元気で。いつかまた日本で会いましょう。必ずメールを出します」
言葉を交わして別れた。
僕は暗闇の中、O君の大きな背中が闇の中に消えてゆくまで、ずっと立ち尽くしていた。
僕は体調が悪いこともあってか、何故か悲しかった。
大きな寂しさに覆われていくような気がして、宿に帰ってもベッドに腰掛けて茫然と外の暗闇を眺めていた。
今日は爽やかな明るさを持ったHさんの顔を一度も見ていないからかもしれなかった。
僕は暗闇だと切なさに耐えられなくなってしまいそうなので、情けない話だが部屋の電気をつけたまま寝た。
旅もあとニ日となってしまった。
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