あなたと秘密の吉原で

蝶々

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銀嶺の章

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 静まり返った部屋にほのかな御香の香りがだだよっていた。すやすやと眠る彼女のそばで複雑な顔をした男三人が何も言えずただ…その時を過ごす。
 それぞれがそれぞれの思いを抱え、今この時を過ごしている。今も形のないものに苦しめ続けられる彼女に自分たちは何もしてあげることはできない。仕事を終え疲れきった己の身体の重さなど今は感じない。何か…何かしてあげられれば。そう思っても…
「夜天、桔梗。あなたたちも疲れているでしょう…もう部屋で休みなさい。この子は私が見てます。店の者たちにも私は顔を出せませんが、休むように伝えて下さい。」
 静かな沈黙を破るように柳様が声を出した。
「あぁ…それから、この子のことを言うのはもう少し待って下さい。今は静かに休息が必要ですから。皆さんへは後ほど」
 自分も桔梗も…中々返事を返せなかった。やっと戻って来た大切な宝物。けれど…ボロボロに傷つき壊され帰ってきたかけがえのないもの。許されるなら…もう少し彼女のそばにいたい。何もできなくても…せめてそばで。そんな俺達のあがきを柳様も分かっているのだろう。何も言わずただ…自分たちに微笑んでいるのだから。
「……そうね。夜天、私たちは部屋で休みましょう」
 折れたのは桔梗だった。
「…でも…」
 ごねる俺に桔梗は子どもをなだめるような笑みを浮かべる。
「気持ちは分かるけど。今私たちがこの子のために何かできることは多分ないわ。それに私たちがここに長居すると皆に怪しまれる。それじゃあ、この子も眠れないでしょ?今度は自分たちが体を壊したらどうしようもないし…大丈夫よ。この子のそばには柳様がついてくださるじゃない。だから…ひとまず私たちは今やるべきことをやりましょう」
 促されるままに立ち上がる。確かに今自分たちにできることはない。もどかしくてもそれが事実で…桔梗の言う通り、俺達はあまりに長居し過ぎている。このままだと誰かが様子を見に来てもおかしくない。だったら今するべきことは…
「分かった。柳様…俺達は下がります。皆にも俺達から指示を出しますから、彼女をお願いしますね」
 もう一度眠る彼女を見ると、俺達はその場を後にした。


「ねぇ、夜天。あの子が戻ってきてくれて嬉しいって言ったら不謹慎かしら」
 部屋を出てしばらく歩くと、不意に桔梗が口を開いた。
「…いや。俺も同じだ。だけど…」
 だけど…素直に喜んでいい状態じゃなかった。
「あの子の…あんな姿は見たくなかった」
「…私もよ。私たちは、あの子の幸せを願って『あの時』送り出した。それがこんな形で返されるなんて…時間とは皮肉なものね。確かにあの子と離れた期間は寂しかったし悲しかった。だけど…ここの時間軸だと、つい昨日のことのようで。私達が過ごした短い時の中で…あの子はどれだけ長い苦しみを背負うことになったのかって考えてしまう」
 この場所『吉原』。その時間軸は曖昧で現世のような時の刻みはない。鈴の音を聞きそれを柱にここの生活は回っている。朝も昼も夜もあるにはあるが…この職業柄明るいか暗いかそれだけになってしまう。明るい中鈴の音がなれば終業で…暗い中鈴の音がなれば始業。だからこそ…時の刻みに俺達は鈍感だ。彼女と離れた期間…実際は十何年と経つはずなのにほんの数年…数ヶ月にすら感じる時がある。
「随分と成長していたが…それでもまだ小さい」
 あの子の手を持った時、少し大きくなったと思ったその手は相変わらず柔らかく。自分が触れば潰してしまいそうなほどで。その感覚は昔と変わらない。
「確かに…私達に比べればまだまだ。でもね、女は誰だっていずれ蛹から蝶へ変化するのよ。小さくてもあの子はもう…大人の仲間入り。今は休んで心が癒えれば、きっと素敵な蝶になって飛び立ってしまうかもしれない」
 分かっている。けれど…ようやく戻って来た宝物をまだもう少し懐に置いて置きたいと願うのは罰当たりなことだろうか。

「おーい 二人共。柳様はいらっしゃらないのか?」
 同僚の声が廊下に響いた。仕事を終えた同僚たちはそれぞれお客を見送ったり、自らの軽装を整えたり化粧を落としたりと。各々が動く。いつもなら柳様がほがらかに挨拶をして回っているが今日は難しいだろう。
「あら、お疲れ様!柳様は仕事が立て込んでるみたい。今は顔を出せないから先に休んでるようにですって」
 軽やかな声で桔梗がいつも通りに答えた。
「相変わらず、お前は元気だな~俺はもうくたくたで」
「私はいつも元気よ!」
「あははは!確かに。それじゃ、俺ももう休むわ」
 そう言って同僚は皆に言伝を伝えながら帰っていった。
「お前の切り替えには叶わないよ」
「この職業、切り替えが大事よ。柳様の朝食どうしましょうか…今は食べられそうにないし。後で作り直してもらいましょう あの子の分もね」
「そうだな」

沈んでいた心も少しばかり落ち着きを取り戻す。あの子が来たこと以外はいつもと対して変わらない日常。だけど…その出来事は今までで一番の嬉しさでもありまた悲しさや怒りでもあり。感情の高ぶりだった。俺も桔梗のように切り替えて動かなければ。そうでないと…敏いあいつに気づかれそうだ。
「ねぇ、夜天。蘇芳には気をつけなさいよ?あいつは聡いからすぐにあなたの今の顔を見れば気づくわ。何がかは分からなくても何かがあったとね」
やれやれとばかりに、桔梗が俺の眉間を押した。
「こんな深妙な面持ちをしてたら、あいつじゃなくても気づくかも…変に気を張り詰めなくてもいいと思うけど…少しは肩の力を抜いたら?」
俺ははぁ…とため息をついた。確かに変に力が入ってしまい冷静さを失っていたかもしれない。
「はぁ…だな。俺はもう部屋に行くわ」
「朝食は?」
「…いい。寝る」
桔梗がまたやれやれと頭を振った
「食べないと力が出ないわよ?今日の夜も普通に仕事あるじゃない。ちょっとしたら握り飯でも頼んで持って行って上げるから。それだけでも食べなさい」
こいつのお節介は今に始まったことではないが今は断る力もあまり使いたくなかった
「あぁ…」
その一言を言うと俺は部屋に歩いていった。
「ほんとに…いつまでも世話が焼けるわね…」
そういった声も聞こえたが今は聞こえないふりをしよう。
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