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第37話 爺、己の甘さに苛立つ
しおりを挟むアレが口にした通りだ。魔人と人間の関係は至ってシンプル。
殺すか、あるいは殺されるか。
人が社会を形成するよりもはるか以前。弱肉強食の摂理の真っ只中にあった頃と同じだ。故に、戦いの開始を示し合わせる合図もなく。淡々と命の奪い合いが始まる。
「──────」
魔人が動く。
言葉も無ければ初動もなく、力任せ故に前触れなく跳躍すると、肉鎧と化した剛腕をイリヤに叩きつける。整えられた床板が激しく砕かれ部屋の全域を揺るがした。どれほど鍛えていようとも人間の強度では掠っただけでも致命傷であろう。
だが、イリヤの姿はそこにはない。
「そういえば誰かに言ったが」
声を発したのは、練り上げた魔力で既に気がつかれていると分かっているからだ。
「儂って案外動けるんじゃよね」
驚異的な瞬発力で跳躍した魔人の、さらに背後を取るイリヤ。鳴らした指から放たれたのは爆炎。衝撃に煽られた魔人が派手に吹き飛ばされる。が、巨腕の指を床に突き刺しブレーキをかけてすぐさまに止まった。
肌の表面がわずかに焼けた程度。魔人は自身の被害を気に留める風でもなく、興味深そうにイリヤを見据えた。
おそらくその目には、小柄な体の全体に張り巡らされた魔力の流れが写り込んでいるのだろう。
「身体強化……本来ならば戦士が扱う技だ」
「前衛に任せて悠長に後ろで構えてると、普通に飛び越えて殺しに来るからなお前ら」
人に近しい形をしながら、魔人の身体能力は人間を遥かに超越する。何より、魔人はモンスターにはない明確な知性を有している。故に、対抗するためには身体強化魔法は必須技能であり、それは前で戦う戦士も後ろで構える魔法使いも変わらなかった。
より厳密にいえば、シリウスのような戦士が扱う身体強化魔法とは毛並みがいささか異なる。
一口に身体強化魔法とはいうが、これにはいくつか種類がある。
シリウスが扱うのは身体能力の全てを強化する魔法。対してイリヤが使っているのは、脚力を中心に速度を上昇させることに特化した魔法だ。
難易度は前者の方が高いが効果も高い。後者は強化の範囲を限定しているだけあって制御も容易く魔力の消費も少ない。加えて、肉体にかかる負担も抑えめだ。魔人の攻撃を回避し、前衛職が駆けつける時間を稼ぐのであればこれで十分である。
イリヤがシリウスを連れて独断専行したのはこれが大きな理由の一つだ。魔法で身体強化を行わなければ、魔人の動きに対応できない。強力な魔術機を有していたところで、振るう間も無く殺されていただろう。たとえ攻撃を当てられたとしても、生半可な魔術機では傷の一つもつかない。
もしかすれば第二位、第一位の猟兵であれば話は別かも知れないが、いない者のことを考えるのは無駄だ。
とはいえ、である。
「若返りすぎた体にはちょいとキツいな。明日は筋肉痛で動けんじゃろう。あーやだやだ」
体の節々がじんわりと熱を帯びるのを感じるイリヤ。待ち受ける地獄のような痛みに辟易としつつも、目の前の地獄を乗り切るためにやむなしと割り切る。
「明日の心配をするとは、随分と余裕があるな」
「今のところはまぁまぁあるでな」
再び繰り出される魔人の腕を回避しながら、イリヤは立て続けに魔法を発動していく。風の刃。炎の礫。石の槍。水の鞭。さまざまな属性や形の魔法を打ち込んでいく。
「やっぱり硬いのぅ」
「この程度ならどれほど喰らっても無駄だ」
「じゃろうな」
ほぼ魔法の全てを魔人にぶつけているというのに、当人の動きに全く澱みがない。ほとんどダメージが入っていない証左だ。
魔人の脅威的な能力は身体能力に限らない。体内には膨大な魔力を宿しており、溢れ出した分が常に体の表面を覆っている。モンスターと同じ天然の付与術を無意識に用いているのだ。
一見すればイリヤが圧倒しているように見えるが、実際の状況はあまりよろしくない。
イリヤの攻撃はどれほど当たったところで魔人にはほとんど通用していない。対して、魔人攻撃はイリヤにあたればほぼ一撃で終わる。そしてイリヤの魔力も体力も無限ではない。時が経過すればそれだけ形勢は魔人に傾いていく。
「やっぱり手数だけじゃ押し切れないか」
額に汗を流しながら、指鳴らしで幾度も魔法を発動していくイリヤ。対して魔人は、イリヤの魔法が己に通用しないと理解したのか、意に介した素振りもなく、イリヤの魔法が眼前に迫るのも構わず剛腕を振るう。まるで痛みを知らぬ狂戦士さながらの猛攻だ。
(楽な相手とは思うておらんかったが、それ以上に儂自身がへぼくなっておる)
魔人の強さに関しては、実は割と想定通り。目の前の存在が一個師団級には及ばない。それはこの場に来る以前からわかっていたことだ。しかし、想定外だったのは自身の弱さだ。
イリヤは己の甘さを思い知らされた。
意図せずに新たな肉体を得て、のんびりと過ごしてきたツケが回ってきていた。若返った今の己の限界を把握しようともせずに、それを気に止めようともしなかった。無論、イリヤが本気を出せるような相手にこれまで遭遇してこなかったというのもあるが、それにしても今の己を知る手段は他にもいくらでもあっただろうに。
魔法一つ一つの完成度や起動の速度。どれをとっても度し難いほどに未熟。かつての老いた自分が今の自分を目の前にすれば、問答無用でボコ殴りにする醜態だ。
(やりようはあるが──)
どれほどに衰えていようが、これでも勇者の仲間をやっていた自負がある。攻撃が通用しない程度で諦めていられるほどに耄碌したつもりはない。
だが、戦っているのはイリヤだけではない。
シリウスもまた、戦っている最中なのだ。それを考えると、悠長に構えてもいられない。
──その時だった。
ウォォォォォォォォォォォオオオッッッッ!!
どこからか声が響く。
それは……まるで狼の遠吠えであった。
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