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4巻

4-3

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 ぼやいたラウラリスの前には、長いハンガーラックに並ぶドレスとせわしなく動く女性たち。

「さぁラウラリス様、時間もありませんし早速さっそく始めましょう」
「……お手柔らかに頼むよ」

 一番年長らしい女性の満ちたやる気に反比例するように、ラウラリスの声には力がなかった。
 ――領主の開もよおするパーティーの通達があった一週間後。パーティーまでは暇潰しに手配犯を捕まえようかと考えていたラウラリスだったが、それに待ったをかけたのがまたもやケインだった。
 他のハンターよりも先行して屋敷に向かってほしい、と。眉をひそめつつも素直に従い、屋敷を訪れ案内された部屋に向かったらこの状況だ。
 部屋にいる女性は全員、仕立屋の従業員。彼女たちはパーティーに参加するラウラリスのドレスを用意するために招集された、貴族御用達ごようたしの装飾のプロだった。
 さすがに一から衣装を用意するには時間が足りない。そこで既存のドレスに手を加え、ラウラリスのサイズに合わせて調整するということとなった。
 最初は気乗りしなかったラウラリスだったが、少しすれば考え直した。
 ラウラリスとて女なのだ。おしゃれに興味がないわけではない。折角の機会であるし、今のラウラリスはうら若き少女。たまにはこうしてドレスで着飾るのも悪くはないだろう。

「この手の衣装に袖を通すのは何年ぶりか……いや、違う系統のはこの前に着たな」

 ここではない、とある商人の屋敷に忍び込むために特別な服装をしたが、それはまた別の話だ。人に見せることを前提にした衣装ドレスは今世では初めてかもしれない。
 ――ガシャンッ!

「きゃぁっっ⁉」

 重苦しい硬質な物が床に落ちる音。その直後に悲鳴が上がった。室内の誰もがそちらを見ると、壁に立てかけていたはずのラウラリスの長剣が倒れており、側には両腕を縮めて硬直している若い女性。

「何をしているの! 勝手にお客様の物に触れる人がありますか‼」
「す、すいません!」

 先輩らしき者がピシャリと叱ると、凍り付いていた女性がはっとなりペコペコと頭を下げる。もしかしたら、仕立屋に入ったばかりの新人なのかもしれない。ラウラリスの長剣が物珍しく、また彼女が軽々しく扱っていたのを見て興味本位で触ってしまったのだろう。

「申し訳ありません、ラウラリス様。ウチのものが大変な粗相そそうを」
「今後、同じことをしなけりゃそれで結構だ」

 ラウラリスは倒れた長剣の元に向かう。その間に、女性が数人がかりで長剣を立て直そうとしたが、あまりの重さにビクともしない。鍛えたハンターであろうとも、一人では扱えない代物しろものだ、無理もない。

「やめときな。下手に頑張るとからだを痛めるよ」

 女性たちを下がらせると、ラウラリスは「よいしょっ」と長剣を持ち上げ、再度壁に立てかけた。数人がかりでも動かなかった重量を、自分よりも若く可憐かれんな少女が軽々しく扱う様に驚く従業員たち。
 先ほどの位置に戻ったラウラリスは、こちらもやはり驚いている年長の女性に言った。

「さ、時間がないんだろ? さっさと始めようか」
「は、はい。では計らせていただきます」

 最初に若干のトラブルはあったが、そこから先はさすがにプロ。テキパキとラウラリスのからだを採寸していく。

「嘘……この背丈でなの?」

 胸囲を採寸ロープで計っていた従業員が戦慄せんりつしていたり。

「腰細っ……腕も細っ。……本当に同じ女なのかしら」

 ブツブツと独り言を呟く者もいたり。

「…………この筋肉……良い(ジュルリ)」

 怪しげな笑みを浮かべる者もいたりと。

(大丈夫なのか、この仕立屋)

 若干心配になるラウラリスだったが、仕事そのものは至極真面目だ。最初に剣を倒してしまった新人も、先輩が読み上げる数値とコメントを余さずメモに書きしるしている。仕事さえちゃんとこなせれば、人間性は考慮しない職場なのかもしれない。
 その後も様々な部位の計測が終わり、年長の女性がハンガーラックにかかっていたドレスを何着か選ぶ。

「ラウラリス様のスタイルですと、この辺りのドレスが良いかと思われます。もちろん、他にご希望があれば考慮いたしますが」
「そうだねぇ……」

 選ばれたドレスを見て、ラウラリスは困ったように眉をひそめた。

「悪いけど、全部無理だね」

 確かに、プロだけあって見立ては素晴らしい。どれもラウラリスを飾るに十分すぎるものだった。
 ただ一点だけ問題がある。
 背中の露出が大きすぎるのだ。
 美しい女性がその肉体を見せつけるという点で、このチョイスは普通だろう。パーティー衣装としては何ら不自然ではない。

「……失礼ですが、理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」

 己の見立てが叶わなかったことにプロとしてのプライドを刺激されたのか、年長の女性が口調を硬くする。

「ああ、言葉が足りなかった。文句を言ってるわけじゃぁないよ。あんたの選んだドレスはバッチリだ。ただちょっと、私に問題があってね」

 どう伝えたものかと僅かばかり考えた後、ラウラリスは纏っていた服を脱ぎ出した。彼女の突然の行動に目を丸くする周囲をよそに、ラウラリスの上半身は下着のみになった。
 そのあまりにも完成されすぎたプロポーションに恍惚こうこつの溜息をらす者もいたが、ラウラリスのとある一点を目にすると息を呑んだ。
 それは芸術品とさえ称させるほどの肉体美にはそぐわない、胸元と背中に刻まれた一筋の傷跡だった。

「とまぁ、こんな具合でね。私自身は見られても気にしないが、かと言って好き好んで見たがるやつもいないだろうさ」


「そう……ですね。失礼いたしました。では改めて選ばせていただきます」

 年長の女性は一度、ラウラリスへと頭を下げてから、再びドレスを選び始めた。おそらく、ラウラリスが強がっているとでも思っているのかもしれない。
 女性にとって、からだの傷はそれこそ一生残る汚点として扱われる。貴族の世界であっても、肉体の傷が残ることを理由に婚約が破局を迎えるという話はさほど珍しくはない。
 ただ、ラウラリスにとってこの傷は違う。

(個人的には、が残っててくれて嬉しいんだけどね)

 コレはかつてのラウラリスが、勇者にち取られた際にできた傷跡。
 誇って良いものではないが、それでも彼女はこの傷を大事に思っている。彼女が大罪を犯した証であり、本懐ほんかいを遂げた証でもあったからだ。


「我が領にひそ悪辣あくらつな者どもを倒してくれたこと、誠に感謝する。今日は無礼講だ。皆、存分に楽しんでいってくれ」

 格式張った長々しい話など誰も聞きたがらないとわかっているようで、領主の手短な挨拶の後、ハンターたちをねぎらうパーティーが始まった。
 無礼講とは言われたが限度はわきまえているらしい。服装こそ普段通りだが、先日に行われた酒場での打ち上げとは打って変わって、ハンターたちは落ち着いた雰囲気で用意された料理や酒を楽しんでいた。
 近場に構える他領の貴族も招かれているのか、貴族同士の話に花を咲かせる者もいれば、めぼしいハンターとの繋がりを得ようと接触をこころみる者もいる。
 つまりは、どこにでもあるような貴族のパーティーである。
 そんな中、ねぎらわれる側であるハンターたちが皆、一様に落ち着きなくそわそわし始めた。仲間と話していたり、貴族を相手にしていたりする者も、時折会場内をキョロキョロと見回している。まるで誰かを捜しているかのようだ。

「みんな落ち着きがねぇな。まぁ、気持ちはわかるけど」
「そういう君は落ち着いている様子に見えるが」
「他の奴らよりもちょっとだけ付き合いが長い分、心構えみたいなもんができてるだけさ。どうせ驚くんだから、今から慌てても疲れるだけだろ」
「驚くのは決まっているのか」
「当然。だってアレだぞ?」
「まぁ……アレだからな」

 会場の一角で、共に酒の注がれたグラスを手に言葉を交わすグスコとケイン。どちらも他の面子メンツに比べれば周囲を観察する余裕はあった。

「それにしても、物好きだな。俺のような奴よりも、貴族のご子息ご令嬢と話せば良いものを。そのためにここに来たのだろうに」
「最初は俺もそのつもりだったんだが……実はこの手のパーティーってのは初めてでね。銀級シルバーになりたてにはちょいと難易度が高い。今日はこの空気に慣れることに専念するよ」

 この二人、拠点襲撃の作戦終盤から酒場での会話をて、なにやら仲が良くなっていた。人間というのは、共通の話題があると話が盛り上がるものだ。

「それに、隊長さんと繋がりを持つのはそう無駄なことじゃないと俺は思ってる」
「そういうものか……」

 ケインの表の立場は、国から派遣された騎士。ただ、グスコの言葉に含まれたニュアンスは、単にそれだけではないようにケインは感じた。

「で、皆がお待ちかねのはいつになったら来るんだ……まさか、直前でやめたという話にならないだろうな」
「ああ見えて義理堅いし、土壇場どたんばで逃げ出すようなことはないだろ」
「そうであってほしいものだ……いや本当に」

「だが、いやしかし……」と不安げに顔をしかめるケイン。この人も苦労させられてるんだな、と改めて妙な共感を覚えるグスコだった。
 そんな時だった。
 穏やかな会食だったはずなのに、城内の隅から落ち着きのない気配が染み渡る。談笑の声がいつしかひそまり、ささやき声ばかりが聞こえ、ついに中央にまで到達する。
 もちろん、その原因がなんなのか、ケインとグスコは考えるまでもなかった。
 考えるまでもなかったが――

「…………ああうん、さすがはお嬢さんだ。予想通りに予想の上を行くなぁ」
「本当に目立ちたくないのか、あいつは」

 パーティー会場の空気を一変させたのは、やはりラウラリスだった。
 この手のパーティーで、淑女しゅくじょよそおいと言えばきらびやかなドレス。胸元や背中を露出させ、アクセサリーでいろどったゴージャスなものが相場。
 だがラウラリスのよそおいはその真逆だ。
 業界では『ホルターネック』と呼ばれるたぐいのドレス。
 首元から下半身までスリムなドレスで覆い、露出しているのは肩から腕のみ。装飾も皆無に等しく、よそおいのきらびやかさはない。
 だからこそ、纏う者が本来持つきらびやかさが引き立てられる。露出は少なく装飾もない。それゆえに、当人の備えた女性的なラインが際立つ。
 会場の空気がおかしくなるのも当然だ。

「魔性の女ってのを絵に描いたら、多分あんな感じだろうなって俺は思ったね」

 グスコの率直な感想に、ケインは言葉はなくとも頷いた。
 間違いなく今のラウラリスは美しい。普段の可憐かれんさとは打って変わって、持ちうる女性らしさを全面的に押し出している。だが、あまりにも美しすぎる。強すぎる光が時折、見る者の目をむしばむように、ラウラリスの美しさは強烈すぎる。
 どこからか現れた美女に国の王が入れ込みすぎ、国政が傾いて国が滅んだという逸話は数知れない。誰もラウラリスに声をかけようとしないのは、もしかしたらその時の王の気持ちがわかってしまうからかもしれない。不用意に声をかければ、身の破滅を招くと危機感を覚えているのか。

「まるで傾国の美女だな。下手に手を出したら国が滅ぶ」
「お嬢さんの場合、本当にやっちまいそうで怖い」

 実際にやらかしている系美少女(中身はババァ)であることなど、二人は知るよしもない。
 ラウラリスはそのまま、領主の元へと向かう。遅れた詫びと出席の挨拶でもするのだろう。
 普段の豪胆さはどこへやら、完璧な立ち振る舞いで、領主に頭を下げるラウラリス。主催者としての立場もあり鷹揚おうように対応する領主だったが、よくよく見ると顔が引きつっている。
 興味本位でやぶを突いたら、大蛇が出てきてしまったという心境だろう。冷や汗をかきながらラウラリスに言葉を返している。

「悪いが俺はここで。一応、無理矢理に参加させた手前、放っておくのはな」
「了解した。俺は適当にやっとくから、お嬢さんによろしくな」

 グスコに別れを告げると、ケインはラウラリスの元へ向かった。


「やれやれまったく。お偉いさんとの話は堅苦しくて仕方がない」
「その割には慣れた対応だったな。お前がいつやらかすかと、こちらはヒヤヒヤしていたくらいだ」
「私だって時と場合くらい考えるさ」

 パーティーでの会食も一段落。領主との挨拶や、来賓らいひんの貴族たちの会話をそれなりにこなしたラウラリスは、疲れを理由に会場の外に出ていた。ケインも付き添いとして同行している。

「けどやっぱり、何人かは今後に何らかの形で接触してきそうだ」

 あらかじめケインを通して勧誘のそういった話が出てこないように領主に伝えてはいたが、会話をした貴族の幾人かは、油断ならない視線をラウラリスに向けていた。

「こいつはデカい貸しにしとくからね、ケイン」
「それは承知しているが……だったらなんで衣装に気合を入れてきたんだ」
「そりゃぁ私も女だからね。おめかししたくなる時だってあるさ。せっかく衣装を用意してくれるってんで、お言葉に甘えさせてもらっただけだよ」

 ラウラリスはドレス姿を見せつけるようにクルリと回る。相変わらず恐ろしいほどの美貌だが、その仕草だけは外見相応に可憐かれんであった。

「おめかしというレベルを超越しているだろ」
「おっと、惚れたかい?」
「お前に惚れたら、身を滅ぼしそうで怖い」
「失礼だねまったく。こんないい女を前にして」

 文句を言いつつも、その表情は明るい。ケインも今のラウラリスが格別に綺麗であるのは認めるところであり、それを彼女もわかっているからだ。
 夜半の空を見上げながら、ラウラリスは大きく息を吸い込む。星空を眺め、清々すがすがしさを感じさせる吐息をらす。

「さっきはああ言ったけど、こういうのもたまには悪くない。剣を振り回すだけが人生じゃないってね」
「好き好んで剣を使っていると前に聞いたが?」
「悪党や馬鹿をぶちのめすのはもちろん好きさ。けどせっかくこうして生きてるんだ。いろんな経験をしなきゃぁ損だろ」

 かつてのラウラリスにとって、貴族との会食は政治的な手段の一つに過ぎなかった。着飾ることも貴族との談笑も全て、陰謀の一部。貴族にとってのパーティーとはむしろそういうものだとわかっている。
 今回のパーティーも似たようなものだろう。それでも、今のラウラリスにはそれを含めて楽しむ余裕があった。普段であれば目立つのは避けるところを、こうしてドレスで着飾ったのも、なんだかんだでラウラリスがパーティーを楽しむためであった。

「そう考えりゃぁ、あの腹黒さが見え隠れする雰囲気もなかなかに愉快だね」
「趣味が悪くないかそれは……楽しんだなら借りはなしでいいだろ」
「それはそれ、これはこれさ」

 顔をそむけて舌打ちをするケインに、ラウラリスは「うひひひ」と意地悪く笑う。
 そうしているとふと、使用人姿の女性がこちらに近付いてきた。

「ケイン様。ご領主様がお呼びです。申し訳ありませんが、来ていただけますか」

 使用人の言葉を受け、ケインは一度ラウラリスの方を見る。対して彼女は気怠けだるげな仕草で手をヒラヒラとさせる。ぞんざいな扱いにいささかムッとなりつつも、ケインは屋敷の中へと向かう。使用人もラウラリスにうやうやしい礼をしてからケインの後を追った。
 一人残されたラウラリスは夜風を感じながら、またぼんやりと夜空を見上げる。
 己が今世において新たな生を得てしばらくの時間が経過した。かつて生きた八十余年にはまだ遠く及ばず、だがそうであっても多くの体験ができた。

「やってることはまぁ……昔と変わらない気がするけど。でも不思議だね、前よりもずっと楽しいんだな、これが」

 この世に新たな生をけた時、己を転生させた『神』が告げた言葉を思い出す。
 ――義理も義務も持たず、好きに第二の人生を謳歌おうかしてください。
 言い方は変だが、今の自分はそれができているのだろう。これならあの妙ちくりんな神様も文句はないはずだ。
 ただどうせなら、前世ではできなかったこともしてみたいと思うのは贅沢ぜいたくな悩みだろうか。
 悪党退治も危険種討伐も、ご馳走を味わうのもパーティーに参加するのも、なんだかんだで前世で全部やってきたことだ。もちろん、今世ではずっと楽しんでいるのだが。

「商売に手を出すか……元手はそれなりにあるけどねぇ。不正経理を見つけるのは大得意でも、売買に関しては現在の経済状況を調べる必要があるし」

 相変わらず、外見に似合わない酷く現実的なチョイスだ。中身が齢八十過ぎのババァであるがゆえに、当然と言えば当然なのだろうが。


「少しよろしいでしょうか、お嬢様」

 ふと、声をかけられる。
 ケインではない。
 背後を見やると、青年が立っていた。

「ああ、コレは失礼しました。会場の外にお連れもなく美しい女性がいたので、つい声をかけてしまったのですが」

 一目でわかった。
 この男は、今回のパーティーに参加している誰よりも『上等』であると。
 身に着けているものはシンプルであるが、細部を見ればどれも非常に最高品質。そしてそれを纏う人間が参加者の誰よりも様になっていた。容姿端麗ようしたんれいというだけではない。それを着ることが当然という日常に身を置いていることの証左だ。

「まさか、このパーティーの主役である剣姫けんきであるとは知らずに。無礼な我が身をお許しください」

 大仰おおぎょうな手振りを交えながら頭を下げる青年。
 ケインとはまた違った方向に顔立ちが整っている。あれは他者に愛想が良いタイプではないが、こちらは人のふところにするりと入り込むような笑みを浮かべるタイプだ。
 おそらくは、開催者である領主と同等かそれ以上の立場にいる人間。どこかの大貴族が、お忍びで遊びに来ているようなものか、と推測できる。
 言葉の所々に軽薄な印象を受けた。第一印象で言えば、女好きの優男やさおとこといったところか。初心うぶな娘であれば、笑みを浮かべるだけでと傾いてしまうだろう。

「とはいえ、アナタのようなお美しい方に声をかけないという選択肢は、自分にはないものでして」

 ここまでは、皇族としての経験を重ねたラウラリスの見立て。だが同時に、武人としての目が青年を鋭く見据える。
 百戦錬磨のラウラリスだ。如何いかに非戦闘中であろうとも、周囲への警戒は無意識レベルで行っている。近付く者があればわからないはずがない。
 だが、殺気がなかったとはいえ、これほど近付かれるまで全く気がつかなかったのだ。
 ラウラリスは口端を吊り上げる。

「どこかのお坊ちゃんが、気配を殺して近付いてくるとか、警戒しない方が無理じゃないか?」

 内心に抱いた感想を率直に伝えると、青年は驚いたような表情を浮かべ、それから愉快そうに笑った。

「ははは、まさにうわさ通り。いや、それ以上に手強い相手だ」

 一頻ひとしきり笑い声を発した後、青年はラウラリスの眼前にまで足を踏み入れていた。相変わらず殺気はないが、それでも無遠慮にここまで踏み込まれたというのは、少女のからだになってからというものあまり経験がない。その前に、長剣でぎ払っているからだ。

「だからこそ、その美しさがより一層に輝くというもの。どうでしょう、私と一緒に夜の散歩でも」

 青年はおもむろにラウラリスの手を取ると、口付けをしようと顔に近付ける。

「そこまで許した覚えはないよ」

 調子に乗るなと、ラウラリスは青年のからだを投げ飛ばそうと腕に力を込める。彼との体格差は一回り近くあるが、彼女にとっては酒精の注がれた杯も成人男性のからだもさほど変わりはない。
 肉体稼働の極みで得た、圧倒的膂力りょりょくで投げ飛ばすだけ――

「――――ッ」
「っと、随分と手荒いお嬢様だ」

 ギシッと、どこからか響く。それは、ラウラリスと両者のからだから発せられた拮抗きっこうの音だった。

「あんた……」
「まったく、その可憐かれんからだにどれほど力を秘めているんですかね」

 いよいよ目を見開くラウラリスに、青年は女好きする笑みは崩さず、だが、頬に伝わる冷や汗は隠しようもなかった。
 傍目はためからすれば青年がラウラリスの手を取り、至近距離で見つめ合っているような図。素人しろうとであれば、劇中の一幕と言われても素直に納得できるほど絵になる光景だ。
 一方で、武に通ずる者が目にすれば息を呑んでいただろう。今の二人の状態はまさに、一流の戦士が剣と剣を交錯させた鍔迫つばぜいのような状態だ。
 互いの筋肉、骨、関節が噛み合い、激しい力が発せられていた。相手の力の強さや呼吸を読み取り、その一歩先を行こうとする。さらにそれすらも読み取り己の力を変化させている。

「ちっ――」

 ラウラリスは舌打ちをする。相手に怪我をさせないような力加減ではラチが明かない。少しばかり本気を出そうかと気持ちを切り替え、さらに力を込める。

「っとぉっ、危ない危ない」

 ところが、青年はパッと掴んでいた手を離してしまった。

(こいつ……寸前で逃げやがったか)

 ラウラリスの舌打ちに反応した――のではない。青年おのれの力がラウラリスに負ける直前の刹那せつなを見計らい、ギリギリのタイミングで手を離し、投げ飛ばされるのを逃れたのだ。

「いや本当に凄い。これなら確かに、調教されて牙の抜けた竜なんて相手にならない」
「……私を挑発したのは、わざわざそれを確かめるためか」

 ラウラリスの警戒心を強めた視線を受けながら、青年は確かめるように手の平を開閉する。

剣姫けんきうわさは貴族の間でもささやかれていますよ。ただ、今日のアナタを見て、そのうわさは尾ヒレが付いたものだと考える者も多い。もっとも、目の肥えた者ならその立ち振る舞いだけでアナタがただ者ではないと確信しているだろう」
「そのうちの一人がお前というわけか」
「いやいや、僕は前からアナタに興味があったんですよ、ラウラリスさん」

 青年は現れた時と同じ大仰おおぎょうなお辞儀をする。

「では、今日はここで失礼させていただきます」
「好き勝手に言うだけ言って帰るのかい」
「いえ、おそらく近日中にお会いできるかと思いますので、その時に改めてご挨拶をさせていただければ。では、良い夜をお過ごしください」

 青年はそう言って、ラウラリスに背を向け去っていった。
 その背中に跳び蹴りでも食らわせてやろうか、と一瞬だけ考えたラウラリスだがさすがに自重した。今のラウラリスはドレス姿で激しい動きはできない。もし仮にやったとしても、あの青年相手だと回避されそうだ。
 さらに、だ。
 先ほどの力の鍔迫つばぜいで、ラウラリスは一つの確信を得ていた。それが幸運であるか不幸であるかはこれからの展開次第だ。

(こうも立て続けに現れるか。いよいよ何かにかれてるんじゃないだろうね、私)

 いているなにがしに若干の心当たりはある。もしかしたら今の様子も面白おかしく観客気取りで見ているのかもしれない。

「本当に、この人生は飽きないね、まったく」


   ◆◆◆


 屋敷の廊下を歩く青年。その足取りは軽い。ラウラリスとのやり取りは、思い返せばほんの一時。かくも短き時間でありながら、非常に有意義な時間であった。

「次に会うのが楽しみだなぁ」

 まるで少年のように弾んだ声で呟く。
 と、その歩みが不意に止まる。
 柱の陰から黒髪の男性――ケインが姿を現した。
 青年は気軽に手を振る。


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