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今日の広報
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落ち着いた店構えの喫茶店が一軒あった。
取引先との打ち合わせを終わって帰るところでちょうど喉が乾いていたので、そこで一休みする事にした。
カラン…
ドアベルの音が店の中に心地よく響く。
「いらっしゃいませ」
優しそうな目をしたマスターが、親しげな笑顔で迎えてくれた。
その心地よい雰囲気に包まれながら、マスターのいるカウンターに腰を落ち着けると、
「外は暑いでしょう」
メニューとお冷やを置きながらマスターは話しかけてきた。
「ええ、まったく。外は暑くてかないませんよ。こんな日は冷たいものを飲むに限りますね」
そう言いながらお冷やを一口飲むと、レモンのほのかな香りが口の中に広がっていった。
優しそうな笑みを浮かべながら、
「ご注文は何にしましょう」
とマスター。
メニューを見ずに、
「アイスコーヒー」
と頼んだ。が…
その言葉を聞いたとたん、マスターの顔が一瞬凍り付いたかと思うと、見る見るうちに笑みが消えていった。
「…出てってくれ」
「…え、でも…」
マスターはぶすっとした表情で、
「でもも何もない、今日はうちにはアイスコーヒーなんか置いていない。警察に言わないだけありがたいと思え。さぁ、さっさと出てってくれ」
と言った。
何か言い返す間もなく、店から追い出されてしまった。
そのままいると塩でもかけられそうな勢いだった。
…仕方がない。アイスコーヒーはあきらめるか。
軽く溜め息をついて歩き出す。しばらくすると掲示板が目に入ってきた。そこには大学ノートくらいの大きさの紙が一枚貼ってあった。
『今日の公報』
公報852号
―アイスコーヒーを飲まない事―
なおこれに違反したものは、公報施行法264条に基づき処罰される
…なるほどね。これじゃ仕方ないか。確かに警察に言われなかっただけありがたいかもしれないな。
それにしても…
何が『飲まない事』だか。いつ誰が何を飲もうが勝手だと思うけど…
と考えていた時、
「ちょっと、兄さん」
呼び止める声がしたので振り返ると、若者が一人立っていた。
「『アイスコーヒー』あるよ。飲みたくないかい?」
返事をしようとして口を開きかけると、
「おい、そこのお前。公報施行法違反容疑だ。ちょっと来てもらおうか」
どこからともなく警官が現われて、有無を言わさず若者を連行していった。
参考人として警察で事情聴取を受けたので、一時間ほど過ぎた。
やれやれ、たかがアイスコーヒー一杯で一時間も無駄な時間を過ごす羽目になっちまった。
軽く溜め息を一つついて、歩き始めた。
別に悪い事をした訳じゃないけど、警察というところは妙に緊張する。喉が乾いてしまったので、何か飲み物が欲しくなった。
自動販売機でもないかとしばらくぷらぷらと歩いていると、
「ちょっと兄さん、『アイスコーヒー』あるよ」
別の男が呼び止めた。
次に警察から出てきたときは、もう辺りは暗くなっていた。
会社には理由を告げて、直帰扱いにしてもらった。
食事に立ち寄った家の近所のファミリーレストランで、ウエイトレスをおちょくるつもりで食後のアイスコーヒーを頼んでみたら、頭からホットコーヒーをかけられそうになった。
そうなったら熱いので、さっさと会計を済ませて店を出た。
家に帰ると、ポストに回覧板が差し込んであった。
その場で開いて中を見ると、明日の公報が挟み込んであった。
公報853号
―横断歩道を渡る時は、必ず3秒待ってから渡る事―
…ばかばかしい。小学生じゃあるまいし…
「情報化社会」と言われるようになって随分経つようになったが、まさかこんなになるとはね…。
溢れる情報を管理しようとした政策で採用された『公報』制度も、最初のうちはよかったが、今度は「情報中毒」にでもなったかのように情報を求める者が増え続けたせいで、情報無しには生活できないものさえ現れてきた。それで今度は情報を操作して与えてやらなければならなくなった挙げ句、こんな下らない事にまでいちいち指図するようになるとはね。しかも一体誰が考えているのか疑いたくなるようなモノばかり…
「アイスコーヒーはダメ」、「横断歩道で3秒待ちましょう」…
そのうち「今日のネクタイは花柄にする事」なんてのが出てくるんじゃないのかね。
そうなると困ったな、花柄のネクタイ持ってないぞ。
とかくすべてがこの有様。これじゃ情報を管理するというよりも、情報にもてあそばれているようなものじゃないか。
笑っちゃうよなぁ…こんな政策、今どき三流SF小説の作家だって思いつかないよ。
ま、とにかく横断歩道で3秒待つのを忘れないように、と。
回覧板を隣の部屋のポストに突っ込んで、部屋に入った。
翌日。午後。
取引先に行くはずだったのが、午前中の会議が延びてしまって時間に遅れそうだった。
取引先に連絡を入れれば済むのだが、何とか急げば間に合いそうな時間だったので、連絡を入れずにそのまま出てきてしまった。
しかしそんな時に限って目の前が赤信号だったりするのはよくある話だ。
まったく、こっちは急いでいるっていうのに。
その気持を知ってか知らずか、信号機は相変らず赤のままだ。
気ばっかり焦っているから、普段よりも余計にゆっくり感じる。
やはり間に合いそうもないので、連絡を入れた方がいいだろうと思い辺りを見回すと、道路の向こうに公衆電話があった。
そこで連絡を入れようと思ったが、相変らず信号は赤のままだ。
『…この信号機、あんまり暑くてのぼせちまったんじゃないだろうな…』
などとあまりにも下らない事を考えていたら、どうやらそうではなかったらしく、やっと青に変わった。
信号が変わったはよかったが、その時電話の事ばかりを考えていたのか、あまりに暑かったのか、昨日の回覧板の事をその瞬間だけ完全に忘れていた。
横断歩道を渡りきると、警官が怖い顔をして立っていた。
「おい、そこのお前」
次の日、朝一番に部長に呼び出された。
大体どんな用事かはわかっていたが…
「君、昨日は大事な取引先に大変迷惑をかけたそうじゃないか」
「はぁ、申し訳ありません」
「しかもその原因は、君が『公報』を守らなかったからだそうじゃないか」
「はぁ、おっしゃる通りです」
そう答えるしかなかった。全くその通りだったのだから。
「そもそも最近の若い者はケジメと言うものを知らん。しかも自分の事ばかり考えて、私達年配の言う事なんかにはこれっぽっちも耳を貸さない。だから君のように『公報』を守れない者が増えてくるんだ。大体だねぇ…」
その後小一時間ほど部長の説教を聞かされて、お土産に始末書一枚、自宅謹慎一週間をもらった。
昼休み。
「あなた、昨日横断歩道で3秒待たなかったんだって?」
食後のアイスコーヒーを飲んでいる時、社内レンアイというやつで付き合っている彼女が口を開いた。
しかしそれは、いつものふざけてからかう様な口調ではなく、明らかに軽蔑と嫌悪の感情を含んでいた。
そう言えば、食事に誘った時も何となくよそよそしかった、というよりも一緒にいたくなさそうな感じだったし、食事の時もほとんど口を開かなかった。
まぁ、どこか虫の居所でも悪いんだろうと思っていたら、先のせりふが飛び出した。
昨日の出来事は口コミであっと言う間に会社じゅうに広がっていた。
しかもご丁寧に、今朝の社内報にも昨日の一件が載っていたのだから、知っているのも当然だろう。
一瞬どきっとしたが、きちんと説明すればわかってくれるだろうと思って口を開きかけた時、
「私、『公報』を守れない人、軽蔑するわ」
先手を打つように、はっきりと彼女は言った。
とにかく説明しようとしていたら、
「あなただけはそんな人じゃないと思ってたのに…残念だわ」
またも出鼻をくじかれてしまった。
「いや、あの、それは…」
しどろもどろになりながらも言い返そうとするのを完全に無視して、とどめを指すように彼女は続けた。
「もうこれまでね、さよなら」
そう言って、説明する暇も与えずに、彼女はすたすたと立ち去ってしまった。
テーブルにはレシートがきっちりと置かれていた。
せめて自分の分の代金ぐらい置いていけばいいのに、などと妙に冷静な事を考えながらアイスコーヒーを一口飲んだ。
ちょっと苦かった。
夕方、誰もいないので始末書を部長の机に叩き付けるように置いた。
いい木材を使っているらしく、重く、小気味のいい音がした。
これはこれで結構気分がよかった。上司に辞表を叩き付けるときの気分は、きっとこんな感じなのだろう。
何となく気分がよかったので、意味もなくバンバンともう二、三度叩いてみた。
いつもなら帰るときに誘いに寄る彼女の部署を素通りして、会社を後にした。
会社の入口を出ると、目の前の横断歩道は赤信号だった。
立ち止まるとアスファルトの輻射熱で余計に暑い。
何か冷たいものでも飲んだら気持ちいいだろうな、などと考えているうちに、信号が青に変わった。
横断歩道を渡ったら、うしろにいたアベックが横断歩道の前で5秒以上立ち止っていたので警官に捕まっていた。
謹慎三日目。
外交官が町中でくしゃみをした時に、手で口をおさえなかったために公報施行法違反となり、身柄を拘束した警察と領事館との間でひと悶着あった、とニュースで言っていた。
一時は外交問題に発展するかと思われたが、結局「外交官特権」というやつで事態は収拾した(というよりもさせた)そうだ。しかしこの件に関して内外の各種団体からの反発は必至である、とアナウンサーはコメントしていた。
そのバックには誰が撮ったのか、くしゃみをする瞬間の外交官の写真が映されていた。しかも場所が公報掲示板の目の前という、絶好の場面だった。
誰がいつどこでくしゃみしたって知ったこっちゃないけど、くしゃみ一発で外交問題寸前になるとは、嫌な世の中になったもんだ。
夕食の時、この間おちょくったウエイトレスがいるファミリーレストランでアイスコーヒーを頼んだら、キャンペーン中だとかで、これでもかと言うくらいにおかわりをサービスしてくれた。
けれど安物の豆を使っているのだろう、ただ苦いだけだった。しかもちょっと薄めで、あまりおいしいとは言えなかった。
謹慎五日目。
自宅謹慎とファミリーレストランのハンバーグにもそろそろ飽きてきた頃。
「ニュースの時間です」
花柄のネクタイをしめたアナウンサーが、はんこで押したように真面目な顔でニュースを読み上げていた。
何げなく見ていたテレビのニュースだったが、次の瞬間にはハッとしてテレビを食い入るように見ていた。
「まず今日のトップニュースです。公報制度が廃止される事になりました」
と言ったからだ。
アナウンサーが言うには、「諸般の事情により」公報制度を廃止、それと同時に公報施行法も廃止するとの事。
そのニュースを聞いて、ふと部長と彼女の顔を思いだしていた。
ざまーみろ、何が『公報』だ、なにがケジメだ。
『公報』を守れない人は軽蔑する?笑わせるぜ。
今度はどんな人を軽蔑するんだい?
もうこれからそんなもの関係なしだ!
言い様のないすがすがしさを感じながらそのニュースを見ていた。
それで、いつから廃止になるんだ?
ニュースの続きを聞きたくてテレビを食い入るように見ていると、相変らずはんこで押したような真面目な顔でアナウンサーは続けた。
「なお、公報廃止決定の細かい事柄については、明日の公報をご覧ください。それでは次のニュース…」
取引先との打ち合わせを終わって帰るところでちょうど喉が乾いていたので、そこで一休みする事にした。
カラン…
ドアベルの音が店の中に心地よく響く。
「いらっしゃいませ」
優しそうな目をしたマスターが、親しげな笑顔で迎えてくれた。
その心地よい雰囲気に包まれながら、マスターのいるカウンターに腰を落ち着けると、
「外は暑いでしょう」
メニューとお冷やを置きながらマスターは話しかけてきた。
「ええ、まったく。外は暑くてかないませんよ。こんな日は冷たいものを飲むに限りますね」
そう言いながらお冷やを一口飲むと、レモンのほのかな香りが口の中に広がっていった。
優しそうな笑みを浮かべながら、
「ご注文は何にしましょう」
とマスター。
メニューを見ずに、
「アイスコーヒー」
と頼んだ。が…
その言葉を聞いたとたん、マスターの顔が一瞬凍り付いたかと思うと、見る見るうちに笑みが消えていった。
「…出てってくれ」
「…え、でも…」
マスターはぶすっとした表情で、
「でもも何もない、今日はうちにはアイスコーヒーなんか置いていない。警察に言わないだけありがたいと思え。さぁ、さっさと出てってくれ」
と言った。
何か言い返す間もなく、店から追い出されてしまった。
そのままいると塩でもかけられそうな勢いだった。
…仕方がない。アイスコーヒーはあきらめるか。
軽く溜め息をついて歩き出す。しばらくすると掲示板が目に入ってきた。そこには大学ノートくらいの大きさの紙が一枚貼ってあった。
『今日の公報』
公報852号
―アイスコーヒーを飲まない事―
なおこれに違反したものは、公報施行法264条に基づき処罰される
…なるほどね。これじゃ仕方ないか。確かに警察に言われなかっただけありがたいかもしれないな。
それにしても…
何が『飲まない事』だか。いつ誰が何を飲もうが勝手だと思うけど…
と考えていた時、
「ちょっと、兄さん」
呼び止める声がしたので振り返ると、若者が一人立っていた。
「『アイスコーヒー』あるよ。飲みたくないかい?」
返事をしようとして口を開きかけると、
「おい、そこのお前。公報施行法違反容疑だ。ちょっと来てもらおうか」
どこからともなく警官が現われて、有無を言わさず若者を連行していった。
参考人として警察で事情聴取を受けたので、一時間ほど過ぎた。
やれやれ、たかがアイスコーヒー一杯で一時間も無駄な時間を過ごす羽目になっちまった。
軽く溜め息を一つついて、歩き始めた。
別に悪い事をした訳じゃないけど、警察というところは妙に緊張する。喉が乾いてしまったので、何か飲み物が欲しくなった。
自動販売機でもないかとしばらくぷらぷらと歩いていると、
「ちょっと兄さん、『アイスコーヒー』あるよ」
別の男が呼び止めた。
次に警察から出てきたときは、もう辺りは暗くなっていた。
会社には理由を告げて、直帰扱いにしてもらった。
食事に立ち寄った家の近所のファミリーレストランで、ウエイトレスをおちょくるつもりで食後のアイスコーヒーを頼んでみたら、頭からホットコーヒーをかけられそうになった。
そうなったら熱いので、さっさと会計を済ませて店を出た。
家に帰ると、ポストに回覧板が差し込んであった。
その場で開いて中を見ると、明日の公報が挟み込んであった。
公報853号
―横断歩道を渡る時は、必ず3秒待ってから渡る事―
…ばかばかしい。小学生じゃあるまいし…
「情報化社会」と言われるようになって随分経つようになったが、まさかこんなになるとはね…。
溢れる情報を管理しようとした政策で採用された『公報』制度も、最初のうちはよかったが、今度は「情報中毒」にでもなったかのように情報を求める者が増え続けたせいで、情報無しには生活できないものさえ現れてきた。それで今度は情報を操作して与えてやらなければならなくなった挙げ句、こんな下らない事にまでいちいち指図するようになるとはね。しかも一体誰が考えているのか疑いたくなるようなモノばかり…
「アイスコーヒーはダメ」、「横断歩道で3秒待ちましょう」…
そのうち「今日のネクタイは花柄にする事」なんてのが出てくるんじゃないのかね。
そうなると困ったな、花柄のネクタイ持ってないぞ。
とかくすべてがこの有様。これじゃ情報を管理するというよりも、情報にもてあそばれているようなものじゃないか。
笑っちゃうよなぁ…こんな政策、今どき三流SF小説の作家だって思いつかないよ。
ま、とにかく横断歩道で3秒待つのを忘れないように、と。
回覧板を隣の部屋のポストに突っ込んで、部屋に入った。
翌日。午後。
取引先に行くはずだったのが、午前中の会議が延びてしまって時間に遅れそうだった。
取引先に連絡を入れれば済むのだが、何とか急げば間に合いそうな時間だったので、連絡を入れずにそのまま出てきてしまった。
しかしそんな時に限って目の前が赤信号だったりするのはよくある話だ。
まったく、こっちは急いでいるっていうのに。
その気持を知ってか知らずか、信号機は相変らず赤のままだ。
気ばっかり焦っているから、普段よりも余計にゆっくり感じる。
やはり間に合いそうもないので、連絡を入れた方がいいだろうと思い辺りを見回すと、道路の向こうに公衆電話があった。
そこで連絡を入れようと思ったが、相変らず信号は赤のままだ。
『…この信号機、あんまり暑くてのぼせちまったんじゃないだろうな…』
などとあまりにも下らない事を考えていたら、どうやらそうではなかったらしく、やっと青に変わった。
信号が変わったはよかったが、その時電話の事ばかりを考えていたのか、あまりに暑かったのか、昨日の回覧板の事をその瞬間だけ完全に忘れていた。
横断歩道を渡りきると、警官が怖い顔をして立っていた。
「おい、そこのお前」
次の日、朝一番に部長に呼び出された。
大体どんな用事かはわかっていたが…
「君、昨日は大事な取引先に大変迷惑をかけたそうじゃないか」
「はぁ、申し訳ありません」
「しかもその原因は、君が『公報』を守らなかったからだそうじゃないか」
「はぁ、おっしゃる通りです」
そう答えるしかなかった。全くその通りだったのだから。
「そもそも最近の若い者はケジメと言うものを知らん。しかも自分の事ばかり考えて、私達年配の言う事なんかにはこれっぽっちも耳を貸さない。だから君のように『公報』を守れない者が増えてくるんだ。大体だねぇ…」
その後小一時間ほど部長の説教を聞かされて、お土産に始末書一枚、自宅謹慎一週間をもらった。
昼休み。
「あなた、昨日横断歩道で3秒待たなかったんだって?」
食後のアイスコーヒーを飲んでいる時、社内レンアイというやつで付き合っている彼女が口を開いた。
しかしそれは、いつものふざけてからかう様な口調ではなく、明らかに軽蔑と嫌悪の感情を含んでいた。
そう言えば、食事に誘った時も何となくよそよそしかった、というよりも一緒にいたくなさそうな感じだったし、食事の時もほとんど口を開かなかった。
まぁ、どこか虫の居所でも悪いんだろうと思っていたら、先のせりふが飛び出した。
昨日の出来事は口コミであっと言う間に会社じゅうに広がっていた。
しかもご丁寧に、今朝の社内報にも昨日の一件が載っていたのだから、知っているのも当然だろう。
一瞬どきっとしたが、きちんと説明すればわかってくれるだろうと思って口を開きかけた時、
「私、『公報』を守れない人、軽蔑するわ」
先手を打つように、はっきりと彼女は言った。
とにかく説明しようとしていたら、
「あなただけはそんな人じゃないと思ってたのに…残念だわ」
またも出鼻をくじかれてしまった。
「いや、あの、それは…」
しどろもどろになりながらも言い返そうとするのを完全に無視して、とどめを指すように彼女は続けた。
「もうこれまでね、さよなら」
そう言って、説明する暇も与えずに、彼女はすたすたと立ち去ってしまった。
テーブルにはレシートがきっちりと置かれていた。
せめて自分の分の代金ぐらい置いていけばいいのに、などと妙に冷静な事を考えながらアイスコーヒーを一口飲んだ。
ちょっと苦かった。
夕方、誰もいないので始末書を部長の机に叩き付けるように置いた。
いい木材を使っているらしく、重く、小気味のいい音がした。
これはこれで結構気分がよかった。上司に辞表を叩き付けるときの気分は、きっとこんな感じなのだろう。
何となく気分がよかったので、意味もなくバンバンともう二、三度叩いてみた。
いつもなら帰るときに誘いに寄る彼女の部署を素通りして、会社を後にした。
会社の入口を出ると、目の前の横断歩道は赤信号だった。
立ち止まるとアスファルトの輻射熱で余計に暑い。
何か冷たいものでも飲んだら気持ちいいだろうな、などと考えているうちに、信号が青に変わった。
横断歩道を渡ったら、うしろにいたアベックが横断歩道の前で5秒以上立ち止っていたので警官に捕まっていた。
謹慎三日目。
外交官が町中でくしゃみをした時に、手で口をおさえなかったために公報施行法違反となり、身柄を拘束した警察と領事館との間でひと悶着あった、とニュースで言っていた。
一時は外交問題に発展するかと思われたが、結局「外交官特権」というやつで事態は収拾した(というよりもさせた)そうだ。しかしこの件に関して内外の各種団体からの反発は必至である、とアナウンサーはコメントしていた。
そのバックには誰が撮ったのか、くしゃみをする瞬間の外交官の写真が映されていた。しかも場所が公報掲示板の目の前という、絶好の場面だった。
誰がいつどこでくしゃみしたって知ったこっちゃないけど、くしゃみ一発で外交問題寸前になるとは、嫌な世の中になったもんだ。
夕食の時、この間おちょくったウエイトレスがいるファミリーレストランでアイスコーヒーを頼んだら、キャンペーン中だとかで、これでもかと言うくらいにおかわりをサービスしてくれた。
けれど安物の豆を使っているのだろう、ただ苦いだけだった。しかもちょっと薄めで、あまりおいしいとは言えなかった。
謹慎五日目。
自宅謹慎とファミリーレストランのハンバーグにもそろそろ飽きてきた頃。
「ニュースの時間です」
花柄のネクタイをしめたアナウンサーが、はんこで押したように真面目な顔でニュースを読み上げていた。
何げなく見ていたテレビのニュースだったが、次の瞬間にはハッとしてテレビを食い入るように見ていた。
「まず今日のトップニュースです。公報制度が廃止される事になりました」
と言ったからだ。
アナウンサーが言うには、「諸般の事情により」公報制度を廃止、それと同時に公報施行法も廃止するとの事。
そのニュースを聞いて、ふと部長と彼女の顔を思いだしていた。
ざまーみろ、何が『公報』だ、なにがケジメだ。
『公報』を守れない人は軽蔑する?笑わせるぜ。
今度はどんな人を軽蔑するんだい?
もうこれからそんなもの関係なしだ!
言い様のないすがすがしさを感じながらそのニュースを見ていた。
それで、いつから廃止になるんだ?
ニュースの続きを聞きたくてテレビを食い入るように見ていると、相変らずはんこで押したような真面目な顔でアナウンサーは続けた。
「なお、公報廃止決定の細かい事柄については、明日の公報をご覧ください。それでは次のニュース…」
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