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6.狛さん視点
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えーと、初めましてでいいのかな。
僕は九重さんの同僚、教育係でもある狛柴誠一です。
彼女とは、職場で知り合った仲なんだけど、僕の彼じ……つっ、妻の光莉が元々オンラインでゲームをしていたみたいで、光莉とも仲が良かった。
はじめプレイングを見たときにはどこの猛者とやってるのかと思ったけど、隣で仕事をしているのを見て納得した。好きなことには凄まじく集中力を発揮するタイプだ。
普段のマイペースさを見ると意外だけど、彼女、仕事のミスはほとんどない。それで見た目も可愛いものだから男部署は盛り上がっていた。
だけど、恋愛なんて1mmも興味を持たず、仕事をして時々飲み会に参加してゲームをする。
しかし、どこかで彼氏の座を射止めるという夢を見ていた彼らの目論見は、ある事件をきっかけに崩れ去ったのだ。
それが、彼女が入社して半年くらいのこと。
九重さんは初めて請け負ったプレゼンの資料をどこかに置いてきてしまったらしい。彼女が毎日残業して作り上げた成果、チーム総出で探したが見つからない。
発表まで1時間、代案で行くしかないかと諦めていたとき、彼女のスマホがけたたましく鳴ったのだ。
『美里ちゃん、忘れ物。届けにきたよ。』
「はーるぅう!」
彼女の大きな声なんて初めて聞いた。
ロビーに駆ける彼女が心配でチーム総出でこっそり尾けたところ、ロビーには汗だくでUSBと封筒を持った青年がいた。
童顔ではあるがひどく大人びた彼は、九重さんを見つけるとすぐに破顔した。九重さんは身振り手振りで何かを伝えると彼に抱きついた。彼は苦笑いしながら慣れた様子で九重さんを撫でると資料を渡してひらひらと手を振りながら帰っていった。
「九重さん、資料は?」
「ありました! 家に置いてってたみたいで……ご迷惑おかけしました。」
僕が尋ねると、彼女はにこにこと笑いながら資料とUSBを掲げた。
そんな彼女に同僚の1人が恐る恐る尋ねた。
「ちなみにさっきの彼は……?」
「幼馴染です!」
「あ、なら家に取りに行ってくれたんだね。親御さんいて良かったね。」
九重さんはその言葉に不思議そうに首を傾げた。
「私、一人暮らしですけど……。」
「えっ、じゃあ何で部屋に入れるの?」
「何でって、合鍵以外に何が……?」
さも当然のように言う彼女に僕たちは固まった。
誰も聞けない、そんな空気の中、僕はつい好奇心が湧き上がり尋ねてしまった。
「えっと、彼氏ではなく?」
「幼馴染です!」
「同棲とかは……?」
「してないですよ? ただ部屋が隣なだけです。」
この時点で僕はもしかしたら藪の中の蛇を突いてしまったのかもしれない。なんとなく嫌な予感がしていた。
だけど、彼女らの関係は亀のあゆみより遅かった。
いや、進んでさえいなかった。
なのに、突如彼女の中の感情は芽吹いた。
その話は、九重さんのゲーム仲間であり同僚であり友人である光莉から初めて聞いた。
僕は家で聞いてつい、コーヒーを咽せた。
お構いなしに光莉は目を輝かせながらうっとりしていた。
「いいよねぇ、幼馴染の恋。私絶対両片想いだと思う!」
「九重さんは明言しているからいいとして、向こう……えっと八草くんだっけ? そう言ってたの?」
「全っ然、そんな話聞いたことない!」
可愛い……じゃなくて。あまり決めつけても良くないだろう。僕は話題を変えるために口を開いた。
「そもそもどんな人なの?」
「優しい人、だよ。」
光莉は会ったことはないが、話したことはあるらしい。
というのも、光莉が九重さんとやるオンラインゲームを彼とその友人もやっていたため、音声だけ繋いで一緒にやったことがあるらしい。
はじめは優しいが少し軽薄な印象があったそうだ。しかし、いざプレイをしてみると彼は堅実なサポートタイプで、ミスプレイを笑いつつも絶対にフォローしてくれるらしい。ただそれを一切悟らせず、光莉以外を惑わせ遊んでいたそうだ。
荷物を届けにきた時の彼の印象も相まって、人懐っこい、可愛らしい人物なんだろうなと勝手に思っていた。
だけど、その印象は先日のオンライン料理教室で覆った。
光莉に届いたある連絡がきっかけとなった。
どうやら光莉と九重さん、あと経理部の雑賀さんで八草くんへのアプローチ作戦を考えたそうで、その1つに料理があるそうだ。
「で、僕が教える、と。」
「えへへ、私より誠一くんの方が教えるのも料理も上手だし。」
確かに僕の方が料理をする機会は多いけど。でも、話してもいない同僚に恋愛がバレてるっていいのか?
ーーなんて心配は杞憂に終わり、彼女ははーいと呑気に手を挙げていた。
料理自体は、聞いていたよりも順調に進んでいた。途中の包丁の持ち方はひやひやしたけど。
ただ僕は料理よりも、タブレットの先に映る彼女の部屋が気になった。だって彼女が今テーブルに並べてるのだって、揃いの茶碗やカップだろう?
あまり女の子の部屋をじろじろ見るもんでもないけど、所々に男性の存在を感じる何かがある。
好奇心は猫をも殺す。気になった僕は再び聞いてしまう。
「あの、九重さん。」
『何でしょうか?』
「その、とっても言いにくいんだけどさ、君たちって同棲してるの?」
『同棲? してないですよ~。何を勘違いしてるのか……。』
「いやだって、その茶碗って明らかに客用じゃないよね?」
『晴は幼馴染ですよ? そんなのあって当たり前じゃないですか。』
あれ、僕がおかしいのか?
僕が眉間を揉んでいると、目を輝かせた光莉が肩を叩く。
「私たちもお揃いのお茶碗欲しいね!」
「……今度買いに行こうか。」
もう余計なことは考えるまい。
僕が思考放棄をしていると、画面の向こうから小さな悲鳴が聞こえた。どうやら僕たちの話に注意が向いていた九重さんが指を切ってしまったらしい。
大丈夫かと心配していると、泣きっ面に蜂、高いところにあった救急箱が周りの荷物を巻き込んで彼女の頭上から降ってきた。
「大丈夫?!」
『物音と悲鳴聞こえたと思ったら、何してんのさ!』
おや、どこかで聞き覚えのある声?
画面を注視していると、部屋に男の人が入ってきた。画角に入ると彼はこちらに気づいたらしく視線を送ってきた。
そう、まるで敵意を剥き出しにするような鋭い視線だ。
思わず僕は画面を切りそうになった。
だが、九重さんに申し訳ない。無言で見つめていると、彼は九重さんの正面にしゃがみ込むと顔を近づけキスをした、ように見えた。
すると、いつのまにか横で無言で見ていた光莉は何も言わずに通信を切り、そしてにんまりと笑った。
「えー! どういう経緯か分からないけどチューしてたよね! 作戦成功だね!」
「……うん。」
きゃあきゃあ言う僕は未だ彼の冷たい視線が忘れられなかった。
たぶん、八草くんは九重さんのことが好きだ。
そして今、僕は彼に敢えて見せつけられたのだと。
翌日、話を聞いてみると2人はキスなんてしてなかった。何なら付き合ってもなかった。
ついでに九重さん伝の謝罪を聞く限り、八草くんはわざとキスしているような状況を作り出していたことがほぼ確信となる。
とてもでないが、ただの優しい人間ではない。計算高く、冷静、あときっと腹黒い部分のある人物だ。
存外、話してみると光莉から聞いていた人物とは全く違う人間なのではないか、そんなことを考えながら退勤しようとすると、ロビーでばったりと渦中の人物と出会う。
通り過ぎようか迷ったけど、ばっちりと目が合った。
彼はとても自然に笑みを浮かべると会釈してきたため、僕は彼に声をかけることにした。
「こんにちは、えっと、八草くんで合ってるよね。」
「はい。昨日はご迷惑おかけしました。気づいてますよね?」
何が、を言及しないあたり慎重派らしい。
「知ってるよ。君が僕を警戒してわざとあの角度を見せたこと。」
「はは、狛柴さん鋭いですねー。」
僕が率直に言うと、彼は痛くも痒くもないと言わんばかりに笑った。ただ、謝罪の言葉は本物だったらしく、少しだけ困ったように作っていない表情をこぼした。
「もう気づいていると思うんですけど、睨みつけてすみませんでした。」
「……野暮かもしれないけど、僕が彼女にアプローチする不届者だと思った?」
「はっきり言うとその通りですね! ただ、少し焦って狛柴さんだって分からなかったです。」
ははは、と反省はあまりしていないらしい彼は軽く言う。
「彼女のこと好きなんだ?」
「すっげー切り込むんですね。まぁ、おっしゃる通りですけど。」
ちなみに、誠一は気になったら納得するまでとことん追及するタイプであるが、あまり自覚はなくやや無神経なところもある。
僕の言葉が確信をついていたのか、彼はソファに寄りかかると開き直ったように言う。
「こそこそ何かやってるかと思ったら、男性と通話しながら普段やらない料理なんかやってるんですもん、勘違いもしますよ。」
「……告白しないの?」
「したことありますけど、その週末スキー旅行に付き合ってもらいました。最悪ですよね。」
「……。」
乾いた声で呟く彼に心底同情した。
八草くんの攻略が難しいなんて騒いでたけど、自分でハードルを上げてるだけじゃないか。
「何か協力できることがあったら言ってね。」
「ちゃんと謝ってみるもんですねー! なら、オレがまたあんなことやらないように済むよう職場での虫除けお願いしまーす!」
ヘラヘラと笑う彼は、軽い声音で連絡先交換しましょー、なんてスマホを出してくる。
「そういえば君はチェスとか将棋とかもやる?」
「苦手ではないですよ。相手しましょうか?」
「本当? 君腹黒……頭の中の回転早そうだからやってみたいな。」
「隠せてないんだけど!」
光莉から聞いていた性格とは違うけど、やっぱり人懐っこい印象や気を許した者に見せる優しさはあるらしい。
そして、両片想いという予想はドンピシャ。早くどちらかが気づけばいいのに。
そんな雑談していると、同じ部署の同僚を引き連れて九重さんが僕たちに気づいたらしい。言葉を交わしていると、明らかに八草くんの纏う空気が変わった。
というのも、化粧を変えた九重さんに、同僚達がわかりやすくデレていたからだ。
八草くんは作り笑顔を貼り付けると九重さんに言葉をかけた。
「この前、オレが駅で女の人に絡まれたの怒っといて自分は侍らせてんだ? ズルいなぁ。」
「何言ってるの? たまたま退勤経路が一緒なだけ。お疲れ様でした~。」
彼女はムッとすると、同僚に会釈し距離をとるように促した。
ちょっと可哀想だけど、この2人の絆には勝てないよ。
退散する彼らに少しだけ同情しながら見送った。
敵が去ったと認めた八草くんは、本題に入る。九重さんを不思議そうに見上げながら尋ねた。
「まぁそれはそうとして。美里ちゃん、朝そんな化粧だったっけ?」
「や、まぁ実は光莉さんにやってもらったの。」
「何でまた? 今日何かあったっけ?」
おや、彼は自分のためにやってくれたということに気づいていない?
もしや、かなり片想い歴が長く鈍いタイプなのか?
それを聞いた九重さんはどこか得意げに胸を張って言った。
「ふふ、聞いて驚いて。今日は晴とご飯に行くから気合を入れてきたの。」
そこは照れながら言う、とかでないと伝わらないと思うんだけどなぁ。
八草くんは目を丸くしたけど、何か悪いことを思いついたようにすぐに目を細めた。
「なら、お店も気合入れたってこと?」
「なっ、それは……!」
「予約してないんでしょ。」
「……。」
完全に忘れてたらしい九重さんはみるみる顔を青くした。
仕事では絶対に見せない詰めの甘さだな。
僕は前に光莉と言ったことのあるレストランの画面を2人に見せた。
「そんなに豪華、ってわけではないけどお洒落なレストランなら知ってるよ。隠れ家的なところだから予約なしでもいけるよ。」
「えー、いいんですか?! ありがとうございます!」
「うう……ありがとうございます。」
僕がレストランのURLを送ってあげると、2人はそこに決めたらしく腰を上げた。
「さてさて、行こうか美里ちゃん。」
「うん。お疲れ様でした。」
「さよーならー。」
「気をつけてね。」
気づけば八草くんは九重さんの手を引いている。
その笑顔ははじめに見せたような作り笑顔ではなく、途中から見せてくれたような表情。
近くて遠い関係、そんなフレーズはフィクションの世界のものだと思っていたけど2人のためにあるような言葉なのかもしれない。
僕はそんなことを思いながら楽しそうな2人を見送るのだった。
僕は九重さんの同僚、教育係でもある狛柴誠一です。
彼女とは、職場で知り合った仲なんだけど、僕の彼じ……つっ、妻の光莉が元々オンラインでゲームをしていたみたいで、光莉とも仲が良かった。
はじめプレイングを見たときにはどこの猛者とやってるのかと思ったけど、隣で仕事をしているのを見て納得した。好きなことには凄まじく集中力を発揮するタイプだ。
普段のマイペースさを見ると意外だけど、彼女、仕事のミスはほとんどない。それで見た目も可愛いものだから男部署は盛り上がっていた。
だけど、恋愛なんて1mmも興味を持たず、仕事をして時々飲み会に参加してゲームをする。
しかし、どこかで彼氏の座を射止めるという夢を見ていた彼らの目論見は、ある事件をきっかけに崩れ去ったのだ。
それが、彼女が入社して半年くらいのこと。
九重さんは初めて請け負ったプレゼンの資料をどこかに置いてきてしまったらしい。彼女が毎日残業して作り上げた成果、チーム総出で探したが見つからない。
発表まで1時間、代案で行くしかないかと諦めていたとき、彼女のスマホがけたたましく鳴ったのだ。
『美里ちゃん、忘れ物。届けにきたよ。』
「はーるぅう!」
彼女の大きな声なんて初めて聞いた。
ロビーに駆ける彼女が心配でチーム総出でこっそり尾けたところ、ロビーには汗だくでUSBと封筒を持った青年がいた。
童顔ではあるがひどく大人びた彼は、九重さんを見つけるとすぐに破顔した。九重さんは身振り手振りで何かを伝えると彼に抱きついた。彼は苦笑いしながら慣れた様子で九重さんを撫でると資料を渡してひらひらと手を振りながら帰っていった。
「九重さん、資料は?」
「ありました! 家に置いてってたみたいで……ご迷惑おかけしました。」
僕が尋ねると、彼女はにこにこと笑いながら資料とUSBを掲げた。
そんな彼女に同僚の1人が恐る恐る尋ねた。
「ちなみにさっきの彼は……?」
「幼馴染です!」
「あ、なら家に取りに行ってくれたんだね。親御さんいて良かったね。」
九重さんはその言葉に不思議そうに首を傾げた。
「私、一人暮らしですけど……。」
「えっ、じゃあ何で部屋に入れるの?」
「何でって、合鍵以外に何が……?」
さも当然のように言う彼女に僕たちは固まった。
誰も聞けない、そんな空気の中、僕はつい好奇心が湧き上がり尋ねてしまった。
「えっと、彼氏ではなく?」
「幼馴染です!」
「同棲とかは……?」
「してないですよ? ただ部屋が隣なだけです。」
この時点で僕はもしかしたら藪の中の蛇を突いてしまったのかもしれない。なんとなく嫌な予感がしていた。
だけど、彼女らの関係は亀のあゆみより遅かった。
いや、進んでさえいなかった。
なのに、突如彼女の中の感情は芽吹いた。
その話は、九重さんのゲーム仲間であり同僚であり友人である光莉から初めて聞いた。
僕は家で聞いてつい、コーヒーを咽せた。
お構いなしに光莉は目を輝かせながらうっとりしていた。
「いいよねぇ、幼馴染の恋。私絶対両片想いだと思う!」
「九重さんは明言しているからいいとして、向こう……えっと八草くんだっけ? そう言ってたの?」
「全っ然、そんな話聞いたことない!」
可愛い……じゃなくて。あまり決めつけても良くないだろう。僕は話題を変えるために口を開いた。
「そもそもどんな人なの?」
「優しい人、だよ。」
光莉は会ったことはないが、話したことはあるらしい。
というのも、光莉が九重さんとやるオンラインゲームを彼とその友人もやっていたため、音声だけ繋いで一緒にやったことがあるらしい。
はじめは優しいが少し軽薄な印象があったそうだ。しかし、いざプレイをしてみると彼は堅実なサポートタイプで、ミスプレイを笑いつつも絶対にフォローしてくれるらしい。ただそれを一切悟らせず、光莉以外を惑わせ遊んでいたそうだ。
荷物を届けにきた時の彼の印象も相まって、人懐っこい、可愛らしい人物なんだろうなと勝手に思っていた。
だけど、その印象は先日のオンライン料理教室で覆った。
光莉に届いたある連絡がきっかけとなった。
どうやら光莉と九重さん、あと経理部の雑賀さんで八草くんへのアプローチ作戦を考えたそうで、その1つに料理があるそうだ。
「で、僕が教える、と。」
「えへへ、私より誠一くんの方が教えるのも料理も上手だし。」
確かに僕の方が料理をする機会は多いけど。でも、話してもいない同僚に恋愛がバレてるっていいのか?
ーーなんて心配は杞憂に終わり、彼女ははーいと呑気に手を挙げていた。
料理自体は、聞いていたよりも順調に進んでいた。途中の包丁の持ち方はひやひやしたけど。
ただ僕は料理よりも、タブレットの先に映る彼女の部屋が気になった。だって彼女が今テーブルに並べてるのだって、揃いの茶碗やカップだろう?
あまり女の子の部屋をじろじろ見るもんでもないけど、所々に男性の存在を感じる何かがある。
好奇心は猫をも殺す。気になった僕は再び聞いてしまう。
「あの、九重さん。」
『何でしょうか?』
「その、とっても言いにくいんだけどさ、君たちって同棲してるの?」
『同棲? してないですよ~。何を勘違いしてるのか……。』
「いやだって、その茶碗って明らかに客用じゃないよね?」
『晴は幼馴染ですよ? そんなのあって当たり前じゃないですか。』
あれ、僕がおかしいのか?
僕が眉間を揉んでいると、目を輝かせた光莉が肩を叩く。
「私たちもお揃いのお茶碗欲しいね!」
「……今度買いに行こうか。」
もう余計なことは考えるまい。
僕が思考放棄をしていると、画面の向こうから小さな悲鳴が聞こえた。どうやら僕たちの話に注意が向いていた九重さんが指を切ってしまったらしい。
大丈夫かと心配していると、泣きっ面に蜂、高いところにあった救急箱が周りの荷物を巻き込んで彼女の頭上から降ってきた。
「大丈夫?!」
『物音と悲鳴聞こえたと思ったら、何してんのさ!』
おや、どこかで聞き覚えのある声?
画面を注視していると、部屋に男の人が入ってきた。画角に入ると彼はこちらに気づいたらしく視線を送ってきた。
そう、まるで敵意を剥き出しにするような鋭い視線だ。
思わず僕は画面を切りそうになった。
だが、九重さんに申し訳ない。無言で見つめていると、彼は九重さんの正面にしゃがみ込むと顔を近づけキスをした、ように見えた。
すると、いつのまにか横で無言で見ていた光莉は何も言わずに通信を切り、そしてにんまりと笑った。
「えー! どういう経緯か分からないけどチューしてたよね! 作戦成功だね!」
「……うん。」
きゃあきゃあ言う僕は未だ彼の冷たい視線が忘れられなかった。
たぶん、八草くんは九重さんのことが好きだ。
そして今、僕は彼に敢えて見せつけられたのだと。
翌日、話を聞いてみると2人はキスなんてしてなかった。何なら付き合ってもなかった。
ついでに九重さん伝の謝罪を聞く限り、八草くんはわざとキスしているような状況を作り出していたことがほぼ確信となる。
とてもでないが、ただの優しい人間ではない。計算高く、冷静、あときっと腹黒い部分のある人物だ。
存外、話してみると光莉から聞いていた人物とは全く違う人間なのではないか、そんなことを考えながら退勤しようとすると、ロビーでばったりと渦中の人物と出会う。
通り過ぎようか迷ったけど、ばっちりと目が合った。
彼はとても自然に笑みを浮かべると会釈してきたため、僕は彼に声をかけることにした。
「こんにちは、えっと、八草くんで合ってるよね。」
「はい。昨日はご迷惑おかけしました。気づいてますよね?」
何が、を言及しないあたり慎重派らしい。
「知ってるよ。君が僕を警戒してわざとあの角度を見せたこと。」
「はは、狛柴さん鋭いですねー。」
僕が率直に言うと、彼は痛くも痒くもないと言わんばかりに笑った。ただ、謝罪の言葉は本物だったらしく、少しだけ困ったように作っていない表情をこぼした。
「もう気づいていると思うんですけど、睨みつけてすみませんでした。」
「……野暮かもしれないけど、僕が彼女にアプローチする不届者だと思った?」
「はっきり言うとその通りですね! ただ、少し焦って狛柴さんだって分からなかったです。」
ははは、と反省はあまりしていないらしい彼は軽く言う。
「彼女のこと好きなんだ?」
「すっげー切り込むんですね。まぁ、おっしゃる通りですけど。」
ちなみに、誠一は気になったら納得するまでとことん追及するタイプであるが、あまり自覚はなくやや無神経なところもある。
僕の言葉が確信をついていたのか、彼はソファに寄りかかると開き直ったように言う。
「こそこそ何かやってるかと思ったら、男性と通話しながら普段やらない料理なんかやってるんですもん、勘違いもしますよ。」
「……告白しないの?」
「したことありますけど、その週末スキー旅行に付き合ってもらいました。最悪ですよね。」
「……。」
乾いた声で呟く彼に心底同情した。
八草くんの攻略が難しいなんて騒いでたけど、自分でハードルを上げてるだけじゃないか。
「何か協力できることがあったら言ってね。」
「ちゃんと謝ってみるもんですねー! なら、オレがまたあんなことやらないように済むよう職場での虫除けお願いしまーす!」
ヘラヘラと笑う彼は、軽い声音で連絡先交換しましょー、なんてスマホを出してくる。
「そういえば君はチェスとか将棋とかもやる?」
「苦手ではないですよ。相手しましょうか?」
「本当? 君腹黒……頭の中の回転早そうだからやってみたいな。」
「隠せてないんだけど!」
光莉から聞いていた性格とは違うけど、やっぱり人懐っこい印象や気を許した者に見せる優しさはあるらしい。
そして、両片想いという予想はドンピシャ。早くどちらかが気づけばいいのに。
そんな雑談していると、同じ部署の同僚を引き連れて九重さんが僕たちに気づいたらしい。言葉を交わしていると、明らかに八草くんの纏う空気が変わった。
というのも、化粧を変えた九重さんに、同僚達がわかりやすくデレていたからだ。
八草くんは作り笑顔を貼り付けると九重さんに言葉をかけた。
「この前、オレが駅で女の人に絡まれたの怒っといて自分は侍らせてんだ? ズルいなぁ。」
「何言ってるの? たまたま退勤経路が一緒なだけ。お疲れ様でした~。」
彼女はムッとすると、同僚に会釈し距離をとるように促した。
ちょっと可哀想だけど、この2人の絆には勝てないよ。
退散する彼らに少しだけ同情しながら見送った。
敵が去ったと認めた八草くんは、本題に入る。九重さんを不思議そうに見上げながら尋ねた。
「まぁそれはそうとして。美里ちゃん、朝そんな化粧だったっけ?」
「や、まぁ実は光莉さんにやってもらったの。」
「何でまた? 今日何かあったっけ?」
おや、彼は自分のためにやってくれたということに気づいていない?
もしや、かなり片想い歴が長く鈍いタイプなのか?
それを聞いた九重さんはどこか得意げに胸を張って言った。
「ふふ、聞いて驚いて。今日は晴とご飯に行くから気合を入れてきたの。」
そこは照れながら言う、とかでないと伝わらないと思うんだけどなぁ。
八草くんは目を丸くしたけど、何か悪いことを思いついたようにすぐに目を細めた。
「なら、お店も気合入れたってこと?」
「なっ、それは……!」
「予約してないんでしょ。」
「……。」
完全に忘れてたらしい九重さんはみるみる顔を青くした。
仕事では絶対に見せない詰めの甘さだな。
僕は前に光莉と言ったことのあるレストランの画面を2人に見せた。
「そんなに豪華、ってわけではないけどお洒落なレストランなら知ってるよ。隠れ家的なところだから予約なしでもいけるよ。」
「えー、いいんですか?! ありがとうございます!」
「うう……ありがとうございます。」
僕がレストランのURLを送ってあげると、2人はそこに決めたらしく腰を上げた。
「さてさて、行こうか美里ちゃん。」
「うん。お疲れ様でした。」
「さよーならー。」
「気をつけてね。」
気づけば八草くんは九重さんの手を引いている。
その笑顔ははじめに見せたような作り笑顔ではなく、途中から見せてくれたような表情。
近くて遠い関係、そんなフレーズはフィクションの世界のものだと思っていたけど2人のためにあるような言葉なのかもしれない。
僕はそんなことを思いながら楽しそうな2人を見送るのだった。
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