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5.作戦③:化粧の魔法

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「えーと、おめでとう?」
「朝から何を言ってるんですか。」

 週明けに職場に出ると、なぜか気まずそうに隣の席の狛さんにそう言われた。
 何のことだろう、と首を傾げていると、なぜか彼は照れたように小声で答えてくれた。

「だって、君達、タブレット通信が繋がったままキスしてたじゃないか。」
「……はい?」

 いやいやいや、してない!
 私が必死に首を横に振ると、狛さんは不思議そうにしていたが、私の額を見ると何か納得したように頷いた。

「ちょうど僕たちの角度からだと、八草くんが君のおでこを見ている姿がキスしているように見えたから。ごめんね、通信も切っちゃったんだ。」
「だから、切れてたんですね。」

 朝から思わぬ言葉を聞いて私は頭を抱えた。
 狛さんがそう思っている、ということは妻である光莉さんも同じ勘違いをしているということだ。

「あ、そういえば晴が狛さんに謝っといて、って。」
「……その謝罪は受け取っておくよ。」

 晴は狛さんに何かしたのかな? それとも通信を切っちゃったことを気にしてたのかな? 答えが出なそうな疑問に私が思考を巡らせていると、隣の狛さんは気にしないように声をかけてきた。


 そして、案の定、昼休みになると目をキラキラさせた光莉さんがやってきた。
 狛さんにした説明をそっくりそのまますると、えー! と残念そうに頬を膨らませた。そして、料理の結果は五分五分だったと経緯を説明すると光莉さんはにまにましていた。

「何でそんなにこにこしてるの?」
「だってだって。一緒に料理したいって相当ポイント高いと思うよ?」
「失敗しないように、って言ってたよ。」
「……それだけじゃないと思うけど。」

 ちなみに光莉さんが呟いた言葉は私の耳には届いていない。
 ツッコミ役の百合さんも今日に限って不在だ。
 こういう時の彼女はアレだ、スルーが1番。
 私はパックジュースを啜りながら内心でため息をついた。

「じゃあ、勢いついてきたところで3つ目の試みだね!」
「……化粧、ってやつ?」
「そう! 私がここで美里ちゃんの化粧をするから、金曜のご飯会で外食に行く! すなわちデートだよ!」
「今までとたいして変わらないような……。」
「気の持ちようだよ!」

 そんなものなのか?
 彼女があまりにも自信満々で言うものだからそういうことにしておこう。



 約束の金曜日。
 無事外食の約束は取り付けることが出来た。
 その日は、晴が早く出られるということで私の会社まで来てもらうことになった。光莉さんは1人でガッツポーズしてたけど。

 昼食をさっさと終わらせると、私たちは足早に化粧室に向かう。
 一度洗顔して肌を整える。光莉さん、普段ゲームシナリオや小説書きばかりしているのにどこから湧いてくるんだその女子力。
 化粧水やら乳液やらを使い、準備を終えると丁寧に下地からファンデーションまで整える。

「結構まつ毛長いね……これでマスカラするとケバくなっちゃうかな。やっぱりナチュラルだよね。」

 武器を選択する時のように険しい顔で何やらブツブツと1人で思案している。
 私はもはやどうとでもなれと諦めていた。
 昼休みギリギリに準備が整い、慌ててお互いの仕事場に戻る。

「間に合っ……はぁ、」
「遅かったね。準備は……。」

 隣の席の狛さんは私と目が合うと、言葉を失った。
 え、もしかして相当変になってる?
 珍しく走る私の姿を見て他の同僚も揶揄い混じりにこちらに視線をやったが、皆同様に口を閉ざしてしまう。

「あの、狛さん。私の顔変ですか?」
「……むしろ逆だよ。似合ってると思うよ。」
「……そうですか。」
「頑張ってね、今日のデート。」
「デッ……!」

 この夫婦は揃いも揃ってなんてことを言うんだ。
 顔が熱くなるのを感じつつ必死に仰ぐ。
 この時、周りの人がなんて言っているかなど、私の耳には入らなかった。


 さて、業務後。
 狛さんはもう帰ったみたい。相変わらずの定時の男っぷり。
 メッセージアプリを見ると、『もう着いたよ。』と端的な言葉が届いていた。緩んでしまう口元を結びつつ、出口に向かおうとすると、同僚から呼び止められた。

「九重さん、今日どうしたの?」
「そーそー、可愛くなっちゃって! もしかしてデート?」
「ほんっと野暮ですね。」

 面倒くさい人々だ。
 一部の者の揶揄いは時折距離感を測り違えたものがあるから厄介だ。
 帰路に着くと、なぜかその人達も帰るからさらに面倒。あ、でも退勤のための出入口は共通だから仕方ないか。

 私が可能な限り早足でロビーに行くと、スマホを片手に楽しげに狛さんと話している晴の姿が目に入る。
 視野の広い彼はすぐに私に気づいたみたい。
 彼が手をひらひらと振ると、一瞬後ろの人たちの歩みが止まった。私はそれをチャンスと取り、走って晴の元に向かった。

「何で狛さんいるんです?」
「ちょうど彼に会えたから。先日の挨拶も兼ねて。」
「そーそー。それより君も大概だねぇ。」
「何が?」

 狛さんは薄々勘付いているのか苦笑いするばかり。
 一方で晴は、私の後ろをついてきた人たちを見つめながら胡散臭い笑みを見せる。

「この前、オレが駅で女の人に絡まれたの怒っといて自分は侍らせてんだ? ズルいなぁ。」
「何言ってるの? たまたま退勤経路が一緒なだけ。お疲れ様でした~。」

 あ、お疲れ、と辿々しく答えると同僚達はすごすごと帰っていった。
 その様子を見て何もしていない晴は笑うだけだ。

「まぁそれはそうとして。美里ちゃん、朝そんな化粧だったっけ?」
「や、まぁ実は光莉さんにやってもらったの。」
「何でまた? 今日何かあったっけ?」

 心当たりがないと彼は首を傾げる。
 やれやれ、肝心なところで鈍感なんだから。


「ふふ、聞いて驚いて。今日は晴とご飯に行くから気合を入れてきたの。」


 言ってやった。
 私はどや、と胸を張って見せた。ほらほら、晴も虚をつかれて目を丸くしている。

「なら、お店も気合入れたってこと?」
「なっ、それは……!」
「予約してないんでしょ。」
「……。」

 完全に忘れてた!
 晴の口角がみるみる上がっていく。やってやったと勝ち誇った笑みだ。
 たぶん、私が敗北を喫したのを理解したんだろう。狛さんが苦笑いしながらスマホを見せてくれた。

「そんなに豪華、ってわけではないけどお洒落なレストランなら知ってるよ。隠れ家的なところだから予約なしでもいけるよ。」
「えー、いいんですか?! ありがとうございます!」
「うう……ありがとうございます。」

 本当に詰めが甘い。
 私は狛さんからレストランのURLを送ってもらう。
 それをじっと見ているとスマホを持つ手の逆の空いた手が晴に掬われた。

「さてさて、行こうか美里ちゃん。」
「うん。お疲れ様でした。」
「さよーならー。」
「気をつけてね。」

 私たちが歩き出すと狛さんもまた逆の方に進み出した。
 光莉さんがいる家に帰るんだろう。
 いいな、私もそんな家に帰る日が来るといいんだけど。



 狛さんが教えてくれた店は絶品で、雰囲気もいいのが無頓着な私でも分かった。

「絶対さっきの店、狛さんはデートで使ったと思う。」
「もしくは下調べで候補になったやつだよねー。分かる。」

 帰り道、私たちは下世話な話をしながら帰っていた。
 いつもと変わらない金曜日。あ、でも1つだけ分かったことがある。
 例えオシャレな店に行ったとしても、私たちは変わらない。いつもの戯れに、何てことのないスキンシップ。
 どうやらこの化粧の意図だって伝わってない。なら、こんな面倒なことする必要なんてないじゃん。

 そんなことを考えていると、ふと晴が歩みを止めてこちらをじっと見つめていることに気づく。
 不貞腐れてたってこの胸は弾むんだから勝手なものだ。

「……晴? どうしたの、止まって。」
「……その、この前の料理のこともだけど今日の化粧もどうしたの?」

 何で改めて何度も聞くんだ。ただの羞恥プレイでないか。
 私は頬を膨らませながら答えた。

「この前のは、いつも晴が作ってくれてて時々は作りたいって思ったからだし。今日の化粧だって晴と出かけるから。……って言っても光莉さんの入れ知恵だけど。」
「ふーん。」

 ふーん、って淡白すぎる。

 いつもなら、どうせそんなことだと思っただとかそんな背伸びしなくていいのになんてお小言を貰うのだが。
 彼の顔を覗き込んでみると、街灯のせいだけとは思えない、血色のいい顔が目の前に映る。
 交わった視線に、晴は慌てて視線を逸らす。

「……照れてる?」
「照れ……、というか、普通だよ普通。」
「何が普通?」

 純粋に意味がわからなかった私が聞くと、晴は乱雑に髪を掻き、ため息混じりに言った。


「自分のために料理作りたいとか化粧気合入れたとか言われて喜ばないわけないじゃん。」
「は……。」


 想像してなかった言葉に私は口をあんぐりと開けた。
 気まずそうにした晴は投げやりに帰るよ、なんて言ってきた。相変わらず私の手を引く晴の手はいつもより温いような気がする。
 彼は大きく息を吐くと、嬉しそうな顔をこちらに向けながら言い放った。

「またそーいうのすることあったら言ってよ。今度は2人でキメて行こ! オレがいい店探しとくからさ!」
「約束だよ?」
「泥舟に乗ったつもりで期待しててよ!」
「沈むじゃん!」

 例え着飾っても私たちはこんな会話をしているのだろう。
 彼の顔に映った感情は何を示していたか。私にははっきりとは分からなかったけど、とりあえず光莉さんの作戦は成功のようだ。
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