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おまけ1 三菱の苦悩・川西の決断
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せっかく火星、土星というモンスターエンジンが出来たのに零式陸攻の話ばかり。きっと皆さんは、こんな疑問をお持ちだと思います。
「雷電はどうした!」、「強風は?紫電は?紫電改はどうなった?」、「れ、烈風は?」
そこで少しだけ、ほんの少しだけ、それらの機体の顛末について触れてみます。
■雷電:三菱の苦悩
1940年(昭和十五年)、十四試局地戦闘機の要求仕様をみせられた三菱の技術者達は心の中で叫んだ。
「こんなの無理だろ!!」
なぜなら、その要求書で指定されていた発動機は火星エンジンだったからである。そう、あの火星である。
もちろん堀越技師をはじめ三菱の技師達は自社の新型エンジンを熟知していた。陸攻を担当する本庄技師が火星を使えるようになって祭りの様に浮かれはしゃいでいた様子も目の当たりにしている。
確かに火星は優秀なエンジンだ。それは認める。だがこれを戦闘機に使うとなれば別だった。
とにかく火星は大きく重い。なにしろ零戦の栄エンジンより直径で20センチ以上大きく、重量も300キロ以上重いのだ。こんなものをどうやって戦闘機に積めというのか。
「DBが使えれば良かったのに……」
設計主務を務める堀越は事あるごとに恨み節を口にしつつ、とにかく火星を積んだ戦闘機の設計案をまとめあげた。
それは空技廠から示された紡錘形理論を適用した特異な形状の機体だった。胴体の40パーセントの位置に最大幅を持たせるため、エンジンには延長軸が追加され機首が絞り込まれている。空気抵抗を少しでも減らすため薄べったい風防が胴体の上に貼り付いている。
だが堀越技師の血の滲むような努力にもかかわらず、エンジン直径の大きさはどうにもならなかった。
完成した機体の、とにかく丸くて太ましいその姿を見たものは皆『たまご』を連想した。このためいつしか雷電は『たまご』と呼ばれるようになった。
試作機は圧倒的なエンジン出力により要求性能をなんとか満たしたものの、超絶に悪い前方視界とプロペラの共振問題で開発が遅延し、量産は1943年にずれ込む事となる。
その頃にはちょうど紫電の量産も始まったため、雷電はほとんど生産される事もなく実戦にもわずかしか参加しなかった。
現在、静岡の某プラモデルメーカーから発売されているデフォルメ飛行機『エッグひこーき』シリーズには、雷電もラインナップされている。しかし……
「これスケールモデルだろ」
キットを手にした客は、必ずこう呟くのがお約束となっている。
■強風と紫雲
川西の開き直り
1940年(昭和十五年)、十五試水上戦闘機の要求仕様を見せられた川西の技術者達は心の中で叫んだ。
「こんなの無理だろ!!」
なぜなら、その要求書で指定されていた発動機は火星エンジンだったからである。そう、あの火星である。
もちろん菊原技師をはじめ川西の技師達はそのエンジンを熟知していた。なぜなら彼らは前年の十四試高速水上偵察機(後の紫雲)で既に火星エンジンを使っていたからである。
火星はとにかく巨大なエンジンだった。トルクも半端ない強さのため紫雲は二重反転プロペラを装備する羽目になっている。これがないと水上で引っくり返る恐れがあり、まともに離水できないのだ。
(当初は半引き込み式フロートやフロート切り離し機構などのイロモノ装備も検討されたが、火星21型の出力が十分高かったため採用見送りとなっている)
その上、空技廠からは紡錘形などという怪しげな理論も伝えられている。
ここで川西の技術者は思った。
「もういいや。紡錘形なんてきっぱり忘れよう。紫雲を単座にすればいいじゃん」
紫雲の機体形状は非常に単純である。巨大なエンジンを納める機首から機尾まで素直なラインで結ばれている。彼らはこの胴体を元に戦闘機を作ることにした。
強度的にも問題はない。もともと偵察機は敵戦闘機との交戦も想定しているため戦闘機と遜色ない強度を持っている。
だがさすがに主翼は新設計となった。
機銃の搭載が必要な事もあるが、そもそも偵察機としても戦闘機としても高速を狙うなら翼幅14メートル、翼面積30平方メートルという大きさは意味不明すぎた。
当時主翼を設計した担当者も「なんでこんな主翼にしたのかよく覚えていない」などと意味不明の供述をしている。
川西の技術者らは主翼を翼幅12メートルに再設計した後は、とにかく二重反転プロペラの熟成に『だけ』注力して機体を仕上げていった。
その結果出来上がったのは二種類の機体だった。外見上は風防が大きいか小さいかの違いしかない。主翼も内蔵する武装が違うだけでほとんど同じである。
「これ、もしかしなくても同じだよね?て言うか水偵の方は木型から形かわってるよね?」
海軍の審査では当然のように技官から突っ込まれたが
「いえ、全くの偶然です。不思議ですね」
川西の技術者は手抜きをしたなどとは絶対に認めなかったという。
強風と紫雲は、ともに要求された速度性能を若干満たせなかったものの無事に正式採用された。
心配された二重反転プロペラも川西がとにかくそれだけに注力した甲斐もあって不具合も無かった。このお陰で両機の操縦性は、強大なトルクを持つエンジンを搭載しているにもかかわらず非常に素直だったという。
現在、静岡の某プラモデルメーカーから発売されている強風と紫雲のキットは、どちらの機種にも組める大変お得なキットとなっている。
■紫電と紫電改
川西の手抜き
強風と紫雲の計画を勝手に一つにしてしまった結果、手すきになった川西航空機は水上機以外の機種も作ろうと思いつく。そこへ三菱が十四試局戦で難渋している話を聞きつけ、これに割り込もうと考えた。
だが川西の技術者らは、強風と紫雲で『ズル』をすることを覚えてしまっていた。人間、一度堕落するとなかなか元に戻れないものである。
「強風からフロート取って脚付ければいいんじゃね?」(鼻ほじ)
と全く単純に考え、まさにその通りの機体を作り上げた。元が低翼配置の紫雲であるため脚の追加は何の問題もない。プロペラも二重反転のままである。
一応、事前に海軍からは
「発動機は誉にすれば?もっと細くなるよ」
とは言われていたが、川西はこれを無視した。
「だって胴体を再設計するの面倒くさいじゃん」(鼻ほじ)
とんでもない理由である。
海軍は言いたいことが山ほどあったが、三菱の十四試局戦の目途がまったく立たないため、仕方なくこの機体を紫電一一型として採用した。悔しい事にそれなりに性能がいいのが腹が立つ。
その後、三菱が土星エンジンを開発したことを聞きつけた川西は、紫電の性能向上を計画した。
一応、事前に海軍に相談した時には
「発動機は今度こそ誉にすれば?もっと細くなるよ」
とは言われていたが、ふたたび川西はこれを無視した。むしろ逆に土星エンジンにあわせて胴体も再設計したため更に太くなっている。巨大なオイルクーラーは機首の下に置くスペースが無いため主翼の付け根に左右に分けて設置された。
これによりエンジンカウリング部の段差もなくなり胴体はより洗練された形となった。ただしその全長は11メートルに達し、日本の戦闘機としては前例のない巨大な機体となってしまった(一応、新規格の艦載機サイズには収まっています:川西談)。
こうして、あまり手間をかけることなく改良した機体は、紫電二二型(紫電改)として採用された。
やっぱり海軍は言いたいことが山ほどあったが、今度は(大きさ以外は)本当に非の付け所がないため何も言えなかった。実際、紫電改はF6Fに対して完全に優位に戦うことが出来たという。
巨大なエンジンに素直な直線の胴体ラインという紫電改のシルエットは、まったくの偶然ながら英国ホーカー社のシーフューリーとそっくりだった。またシルエットだけでなくサイズと性能も非常に似通っていた。
シルエットクイズをするとマジで当てるのが困難なほどである。玄人さんによれば見分けるポイントは尾輪と風防の窓枠の数だと言う。
戦後、駄菓子屋で売られているスチロール製のおもちゃ飛行機や安い小さなプラモデルでは、紫電改とシーフューリーは同じ金型が使われるのが定番だった。
現在、米国ネバダ州リノで開催されているエアレースで、紫電改は今でもF8F、P-51、シーフューリーなどと速度を競っている。だが、シーフューリーとあまりにシルエットが似ているため現地の実況で度々混乱を招き、解説者泣かせの機体と言われている。
■烈風:三菱の絶望
紫電と紫電改の成功を横目で見ながら、三菱は怒っていた。
「あんなもの艦戦じゃない!俺が本当の艦戦をみせてやる!」
だが、海軍から指定された誉エンジンは計画どおりの出力が出ず、過大な翼面荷重要求は機体の性能を押し下げる。開発は遅々として進まない。
それでも、どうにか発動機を自社のMK9(ハ43)に変える事を認めてもらい、やっとこさ完成した試作機はまったく凡庸な性能しか出なかった。紫電改の足元にも及ばない。
そして哀れ十七試艦上戦闘機「烈風」は採用が見送られてしまった。
可哀想なことに烈風は評価も人気も低い。プラモデルキットの種類も少なく、雑誌で『駄作機』が特集される時は必ず常連のように紹介されるという酷い扱いが続いている。
海軍に振り回された結果ではあるが、誠に不憫な戦闘機である。
【後書き】
実はハセガワの『たまごひこーき』シリーズには雷電が無いんですよね本当に。なぜでしょうか?
史実の紫電は火星から誉に変えたせいで胴体が変な形になって苦労しました。この世界では火星が十分以上に強力なので誉は使いません。ついでに紡錘形理論を川西はあっさり諦めました。
そして生まれた紫電改はほとんどシーフューリーとなりましたw
歴史・時代小説大賞の参加記念として、もう一話おまけを追加いたします。
「雷電はどうした!」、「強風は?紫電は?紫電改はどうなった?」、「れ、烈風は?」
そこで少しだけ、ほんの少しだけ、それらの機体の顛末について触れてみます。
■雷電:三菱の苦悩
1940年(昭和十五年)、十四試局地戦闘機の要求仕様をみせられた三菱の技術者達は心の中で叫んだ。
「こんなの無理だろ!!」
なぜなら、その要求書で指定されていた発動機は火星エンジンだったからである。そう、あの火星である。
もちろん堀越技師をはじめ三菱の技師達は自社の新型エンジンを熟知していた。陸攻を担当する本庄技師が火星を使えるようになって祭りの様に浮かれはしゃいでいた様子も目の当たりにしている。
確かに火星は優秀なエンジンだ。それは認める。だがこれを戦闘機に使うとなれば別だった。
とにかく火星は大きく重い。なにしろ零戦の栄エンジンより直径で20センチ以上大きく、重量も300キロ以上重いのだ。こんなものをどうやって戦闘機に積めというのか。
「DBが使えれば良かったのに……」
設計主務を務める堀越は事あるごとに恨み節を口にしつつ、とにかく火星を積んだ戦闘機の設計案をまとめあげた。
それは空技廠から示された紡錘形理論を適用した特異な形状の機体だった。胴体の40パーセントの位置に最大幅を持たせるため、エンジンには延長軸が追加され機首が絞り込まれている。空気抵抗を少しでも減らすため薄べったい風防が胴体の上に貼り付いている。
だが堀越技師の血の滲むような努力にもかかわらず、エンジン直径の大きさはどうにもならなかった。
完成した機体の、とにかく丸くて太ましいその姿を見たものは皆『たまご』を連想した。このためいつしか雷電は『たまご』と呼ばれるようになった。
試作機は圧倒的なエンジン出力により要求性能をなんとか満たしたものの、超絶に悪い前方視界とプロペラの共振問題で開発が遅延し、量産は1943年にずれ込む事となる。
その頃にはちょうど紫電の量産も始まったため、雷電はほとんど生産される事もなく実戦にもわずかしか参加しなかった。
現在、静岡の某プラモデルメーカーから発売されているデフォルメ飛行機『エッグひこーき』シリーズには、雷電もラインナップされている。しかし……
「これスケールモデルだろ」
キットを手にした客は、必ずこう呟くのがお約束となっている。
■強風と紫雲
川西の開き直り
1940年(昭和十五年)、十五試水上戦闘機の要求仕様を見せられた川西の技術者達は心の中で叫んだ。
「こんなの無理だろ!!」
なぜなら、その要求書で指定されていた発動機は火星エンジンだったからである。そう、あの火星である。
もちろん菊原技師をはじめ川西の技師達はそのエンジンを熟知していた。なぜなら彼らは前年の十四試高速水上偵察機(後の紫雲)で既に火星エンジンを使っていたからである。
火星はとにかく巨大なエンジンだった。トルクも半端ない強さのため紫雲は二重反転プロペラを装備する羽目になっている。これがないと水上で引っくり返る恐れがあり、まともに離水できないのだ。
(当初は半引き込み式フロートやフロート切り離し機構などのイロモノ装備も検討されたが、火星21型の出力が十分高かったため採用見送りとなっている)
その上、空技廠からは紡錘形などという怪しげな理論も伝えられている。
ここで川西の技術者は思った。
「もういいや。紡錘形なんてきっぱり忘れよう。紫雲を単座にすればいいじゃん」
紫雲の機体形状は非常に単純である。巨大なエンジンを納める機首から機尾まで素直なラインで結ばれている。彼らはこの胴体を元に戦闘機を作ることにした。
強度的にも問題はない。もともと偵察機は敵戦闘機との交戦も想定しているため戦闘機と遜色ない強度を持っている。
だがさすがに主翼は新設計となった。
機銃の搭載が必要な事もあるが、そもそも偵察機としても戦闘機としても高速を狙うなら翼幅14メートル、翼面積30平方メートルという大きさは意味不明すぎた。
当時主翼を設計した担当者も「なんでこんな主翼にしたのかよく覚えていない」などと意味不明の供述をしている。
川西の技術者らは主翼を翼幅12メートルに再設計した後は、とにかく二重反転プロペラの熟成に『だけ』注力して機体を仕上げていった。
その結果出来上がったのは二種類の機体だった。外見上は風防が大きいか小さいかの違いしかない。主翼も内蔵する武装が違うだけでほとんど同じである。
「これ、もしかしなくても同じだよね?て言うか水偵の方は木型から形かわってるよね?」
海軍の審査では当然のように技官から突っ込まれたが
「いえ、全くの偶然です。不思議ですね」
川西の技術者は手抜きをしたなどとは絶対に認めなかったという。
強風と紫雲は、ともに要求された速度性能を若干満たせなかったものの無事に正式採用された。
心配された二重反転プロペラも川西がとにかくそれだけに注力した甲斐もあって不具合も無かった。このお陰で両機の操縦性は、強大なトルクを持つエンジンを搭載しているにもかかわらず非常に素直だったという。
現在、静岡の某プラモデルメーカーから発売されている強風と紫雲のキットは、どちらの機種にも組める大変お得なキットとなっている。
■紫電と紫電改
川西の手抜き
強風と紫雲の計画を勝手に一つにしてしまった結果、手すきになった川西航空機は水上機以外の機種も作ろうと思いつく。そこへ三菱が十四試局戦で難渋している話を聞きつけ、これに割り込もうと考えた。
だが川西の技術者らは、強風と紫雲で『ズル』をすることを覚えてしまっていた。人間、一度堕落するとなかなか元に戻れないものである。
「強風からフロート取って脚付ければいいんじゃね?」(鼻ほじ)
と全く単純に考え、まさにその通りの機体を作り上げた。元が低翼配置の紫雲であるため脚の追加は何の問題もない。プロペラも二重反転のままである。
一応、事前に海軍からは
「発動機は誉にすれば?もっと細くなるよ」
とは言われていたが、川西はこれを無視した。
「だって胴体を再設計するの面倒くさいじゃん」(鼻ほじ)
とんでもない理由である。
海軍は言いたいことが山ほどあったが、三菱の十四試局戦の目途がまったく立たないため、仕方なくこの機体を紫電一一型として採用した。悔しい事にそれなりに性能がいいのが腹が立つ。
その後、三菱が土星エンジンを開発したことを聞きつけた川西は、紫電の性能向上を計画した。
一応、事前に海軍に相談した時には
「発動機は今度こそ誉にすれば?もっと細くなるよ」
とは言われていたが、ふたたび川西はこれを無視した。むしろ逆に土星エンジンにあわせて胴体も再設計したため更に太くなっている。巨大なオイルクーラーは機首の下に置くスペースが無いため主翼の付け根に左右に分けて設置された。
これによりエンジンカウリング部の段差もなくなり胴体はより洗練された形となった。ただしその全長は11メートルに達し、日本の戦闘機としては前例のない巨大な機体となってしまった(一応、新規格の艦載機サイズには収まっています:川西談)。
こうして、あまり手間をかけることなく改良した機体は、紫電二二型(紫電改)として採用された。
やっぱり海軍は言いたいことが山ほどあったが、今度は(大きさ以外は)本当に非の付け所がないため何も言えなかった。実際、紫電改はF6Fに対して完全に優位に戦うことが出来たという。
巨大なエンジンに素直な直線の胴体ラインという紫電改のシルエットは、まったくの偶然ながら英国ホーカー社のシーフューリーとそっくりだった。またシルエットだけでなくサイズと性能も非常に似通っていた。
シルエットクイズをするとマジで当てるのが困難なほどである。玄人さんによれば見分けるポイントは尾輪と風防の窓枠の数だと言う。
戦後、駄菓子屋で売られているスチロール製のおもちゃ飛行機や安い小さなプラモデルでは、紫電改とシーフューリーは同じ金型が使われるのが定番だった。
現在、米国ネバダ州リノで開催されているエアレースで、紫電改は今でもF8F、P-51、シーフューリーなどと速度を競っている。だが、シーフューリーとあまりにシルエットが似ているため現地の実況で度々混乱を招き、解説者泣かせの機体と言われている。
■烈風:三菱の絶望
紫電と紫電改の成功を横目で見ながら、三菱は怒っていた。
「あんなもの艦戦じゃない!俺が本当の艦戦をみせてやる!」
だが、海軍から指定された誉エンジンは計画どおりの出力が出ず、過大な翼面荷重要求は機体の性能を押し下げる。開発は遅々として進まない。
それでも、どうにか発動機を自社のMK9(ハ43)に変える事を認めてもらい、やっとこさ完成した試作機はまったく凡庸な性能しか出なかった。紫電改の足元にも及ばない。
そして哀れ十七試艦上戦闘機「烈風」は採用が見送られてしまった。
可哀想なことに烈風は評価も人気も低い。プラモデルキットの種類も少なく、雑誌で『駄作機』が特集される時は必ず常連のように紹介されるという酷い扱いが続いている。
海軍に振り回された結果ではあるが、誠に不憫な戦闘機である。
【後書き】
実はハセガワの『たまごひこーき』シリーズには雷電が無いんですよね本当に。なぜでしょうか?
史実の紫電は火星から誉に変えたせいで胴体が変な形になって苦労しました。この世界では火星が十分以上に強力なので誉は使いません。ついでに紡錘形理論を川西はあっさり諦めました。
そして生まれた紫電改はほとんどシーフューリーとなりましたw
歴史・時代小説大賞の参加記念として、もう一話おまけを追加いたします。
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