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第六話 すべり軸受

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■1937年(昭和十二年)7月
 米国 プラット&ホイットニー本社

 深尾の米国滞在は3か月に及んでいた。

 その間、彼は何度もP&W社を訪れている。そして今月ようやく日本に帰国することになり最後の挨拶に訪れていた。

 すでに必要な交渉や契約も終えており、挨拶の後はいつも様に技術談義と雑談をしていた。

「我が社の金星の方は無事に海軍に採用されたようです。経営が厳しいので売れてくれると嬉しいのですが……陸軍は見向きもしてくれません。まぁ怒らせた自分が悪いんですが、困っています」

 淹れたてのコーヒーを飲みながら深尾が雑談の話題を切り出す。

 三菱のA8c、金星40型は海軍の審査を先月無事に通過し正式採用されていた。すでに海軍の九六式陸攻や新型艦爆(九九式艦爆)への搭載も決定しており三菱発動機部門はようやく経営危機を脱する事が出来そうだった。だが当然ながら陸軍には見向きもされていない。

「どこの国も陸軍と海軍は仲が悪いと相場が決まってますからね。我が国の陸軍も空冷エンジンをあまり買ってくれなくて困っています」

 二人は互いに愚痴をこぼして笑いあう。



「先日見せて頂いたR-2800、確か名前はダブルワスプでしたか。相当な出力になりそうですね。排気量からみて少なくとも1500、ゆくゆくは2000馬力くらいですか」

「まあ、そんなものですね。今度はなんとか売れてくれると会社としても助かるんですが……」

 排気量からおおよその出力は分かる事なのでウォードも軽く答える。相変わらず航空業界の状況は厳しく、P&W社としてはR-2800に社運をかけていた。



「そういえば捩れ振動はあの対策でなんとかなるとして……それだけの出力だとトルク変動も相当なものになりませんか?」

 深尾は雑談がてら少しだけ技術について切り込んでみた。

 星型エンジンの点火順は1気筒おきのためトルクの変動が基本的に大きい。さらに前後列の主コンロッドは重量バランスから逆位相に組むのが常識であるため、結果的に前後列のトルクの山が重なりトルクの変動が更に大きくなってしまう問題が有った。

「ああ、その点については腹案があります。もし仮に問題が起きれば主コンロッドを前後同位相にすることで対応しようと思っています」

「え?それではクランクシャフトの軸受が保たないでしょう?」

 大した問題でもないというウォードの答えに深尾は驚いた。確かに同位相にすればトルクの変動は小さくなる。だが主コンロッドが同じ位置に付くということは、前後二つのコンロッドからクランクシャフトに同時に力が加わる、つまり軸受にかかる面圧が倍になる事を意味する。

 面圧を下げるだけなら軸の幅か直径を大きくすればよい。だがそれはエンジン部品の大型化につながり、また軸の円周部の速度も増すため潤滑切れも起きやすくなる。



 一般的に面圧が大きな部位の軸受にはボールベアリングではなく半円形の金属板で軸を上下から挟み込む『すべり軸受』が使用される。

 1920年代は錫をベースにしたホワイトメタルが使用されていたが、エンジン出力が増し軸の面圧も増加した昨今では『ケルメット』と呼ばれる銅鉛合金が主流となっている。

 ケルメットは日本でも1933年から生産されている。ちなみにケルメットとは日本国内での通称であり、海外では単に銅鉛ベース合金と呼ばれている。

 だが最近ではケルメットでも高出力エンジンに対応できなくなりつつあった。増大した面圧と捩れによる、かじり・割れ・焼き付きの発生である。実際この軸受の限界が現状のエンジン出力の制限になりつつある状況であった。



「たしかに銅鉛ベース合金では難しいでしょうね。ですが不具合の原因は耐熱性と強度の不足です。だったらより熱伝導性と強度のあるベース金属ですべり軸受を作ればいい。今の所、我が社ではその方向で研究しています。多少高価になってもね」

 どうやら流石にウォードもそれ以上の情報はくれない様だった。それにまだP&W社でも研究段階にあるらしい。

 熱伝導性に優れた金属と言えば、深尾に思いつくのは『銀』であった。銀ならば強度もケルメットより高い。ウォードが「高価」という言葉を使った事もそれを裏付けている。

 雑談を続けつつ、深尾は帰国したらすぐに銀をベースにしたすべり軸受の開発を依頼しようと心に決めていた。



 深尾が盧溝橋事件と日中戦争の勃発を知ったのは、P&W社を辞した直後であった。

 これを境に日米関係は急速に悪化し、三菱とP&W社の蜜月も残念ながら終わりを告げる事となる。



■1937年(昭和十二年)8月
 東京

 帰国後、深尾は銀ベースすべり軸受の実現に向けてすぐに動き出した。

 この8月にはP&Wの工場を参考に設計された新しいエンジン工場が名古屋市東北部の大幸で着工したが、その鍬入れを済ますや否や深尾は東京に飛んでいた。

 相手は日本ケルメット社やアジアケルメット社など関東に集中している軍事用ケルメット軸受の専門会社らであった。

「銀……ですか?それはなんとまた贅沢な……」

 深尾の話を聞いたアジアケルメットの玉崎技師が驚きの声を上げた。他の人間らも同様の面持ちである。

「米国では既に銀ベースの軸受を開発している。我が国も遅れる訳にはいかない」

 深尾はP&W社での会話から類推できる情報を掻い摘んで語った。

「銀で出来ないことはないでしょうが……ケルメットですら3年前にやっと量産を開始したばかりです。ケルメットでは駄目なのですか?」

 玉崎が食い下がる。

「ケルメットでは駄目だ。エンジンの出力がどんどん上がってきている。今は大丈夫だがウチの次のエンジンでは多分駄目だろう。だから何とか銀すべり軸受を開発してもらいたい」

 深尾は頭を下げた。

 先日制式化された金星40型ですら軸受の耐久性が怪しくなっている。おそらく次のA8d(後の金星50型)やA10(同、火星)では間違いなく軸受が逝くだろう。ましてやP&W社が言っていた主コンロッドの同位相配置など絶対に不可能である。

 この新しい軸受が無ければ、これから先の高出力エンジンの耐久性は悲惨なものになる。そう深尾は確信していた。

「まあ、開発費用を三菱さんが持ってくれると言うならば我が社がやってみましょう。銀だけでは馴染み性が悪いから鉛か銅を混ぜるか、メッキするか……研究してみましょう」

 結局、集まった会社の中で玉崎のアジアケルメット1社だけが開発に同意してくれた。



 アジアケルメット社では玉崎が中心となって銀すべり軸受の開発を進めた。

 玉崎は銀鉛合金を鋼製のライニングに鋳込む形式で開発をスタートした。合金比率を色々と変えながら試行錯誤を進め、翌年の4月に開発に成功する。

 ちなみに同時期にP&W社も似た形式で銀すべり軸受を開発しR-2800ダブルワスプエンジンに実装している。アジアケルメット製との違いはインジウムを添加している点だけであり、他はほとんど同じだった。



 この銀すべり軸受はすぐに開発中のA8d/A10の両エンジンに適用され良好な結果を得た。

 そして軍の指導でアジアケルメット社以外でも生産されるようになり、三菱だけでなく中島など他社の高出力エンジンでも使用されるようになった。

 こうして日本の航空エンジンは、軸受に関しては米国と変わらない信頼性を得る事が出来たのだった。



【後書き】

史実では、捩れ振動対策のない日本のエンジンはクランクシャフトの変形により特に中央のすべり軸受が損傷・焼き付きを起こす不具合が多発しました。特に三菱のエンジンで多かった様です。

日本も1942年頃から軍主導で銀すべり軸受の研究をはじめましたが結局モノになりませんでした。本作では銀すべり軸受を早期にゲットできたので何とか高出力エンジンを作れる基礎が出揃いました。

2段2速過給機?フルカン継手?排気タービン?ハイオク燃料?そんなもの知りません。出来ないものは出来ないのです。潔く諦めましょう。

逆にここまで挙げた大ボア、燃料噴射装置、振動対策、精密工作機械、銀すべり軸受であれば当時の日本でも何とかなります(ほとんど貰い物ですが)。バルブ等の改良は史実通りです。

実は中間冷却器(インタークーラー)だけは、どうして日本が手を付けなかったのか分からないんですよね……出来ない訳はないし1段過給でも有効なんですが。重量も空気抵抗も増えるので2段でなければ不要と考えたのかもしれません。

以上の技術を使って、いよいよ本命の火星エンジンを開発します。

作者のモチベーションアップになりますので、よろしければ感想をお願いいたします。
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