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第七章 富田祐斗
第七十五話
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数秒間、水を打ったように静かな時間が流れた。
「ゲームセットです」
美晃が落ち着き払った声で宣言し、その声が起爆剤となって拍手が起こった。普段の練習終了時刻はとっくに過ぎていて、コートを使用しているのは俺と副島先輩だけだった。
「実果」
俺は拳を突き上げてガッツポーズして見せる。実果も同じようにして小さな手をかざした。泣き笑いの表情が愛らしいと思った。
呆然と立っていた副島先輩が、こちらを睨みつけながら歩み寄ってくる。俺もネットにもう一歩近づき、下から手を差し出す。副島先輩がただ触れるだけの握手をしながら、
「なんでだよ」
とささやいた。
「勝ちたかったんですよ」
俺が答えると、
「俺だって勝ちたかったよ」
副島先輩はそう答えた。
俺と副島先輩は肩を並べ、三上先生へと報告に行く。
「二十一―十九、十八―二十一、二十二―二十で富田が勝ちました」
勝者がそう報告することになっている。
「富田、」
「それと、もう一つ先生に報告があります」
三上先生が何か言いかけたのを遮って俺はそう言った。三上先生の眉がぴくりとつり上がる。
「俺、部活辞めます」
三上先生が大きく目を見開いた。しかし、言葉はすぐに出てこない。
「職員室に行ってきます」
俺はくるりと振り返り、体育館の扉に向かって駆け出した。
副島先輩に勝利して辞める時、それは、俺が団体戦に出場する権利を握ったまま辞める時だから、もっと悔しい気持ちになると予想していた。けれども、終わってみれば、そんなことはどうでもよかった。この試合を制したことに、俺は無上の喜びを感じていた。かつてない満足が身体を支配していた。試合が終わった瞬間からずっと、走り出したくて身体がうずうずしていた。勝ったという気持ちが心の底から湧き上がる、いままのどんな勝利とも違った勝利だった。
俺は体育館の扉を開け放ち、陽の沈んだ校庭へと歩みだす。体育館前の、地面よりも数段高くなった空間。そこにはいたのは、特進科のクラスメイトたち。暗さに目が慣れてくると、輪郭だけでなく顔もはっきりと見えてくる。
彼らは歓声をあげて俺を取り囲んだ。本当にクラス全員いるんじゃないかと思えるくらい、二重三重に顔の輪ができている。
「ごめんね、本当はもっと少人数で、というか、わたし一人で来るつもりだったんだけど」
歓声がやんで、輪の中から進み出てきたのは高濱だった。両手を後ろに回している。
「富田くん、いままでありがとう」
高濱がゆっくりと両手を前に差し出す。高濱の手には花束が握られていて、白にうっすら桃色が入った花弁が印象的だったけれど、俺には花の名前なんて分からない。
「受け取ってよ」
高濱が花束を差し出したまま催促する。俺は困惑しながらも花束を受け取った。
小さな音を立てて、背後の扉が開く、振り返ると、俺のカバンまで背負っている美晃と、その横に実果が立っている。
「それからね」
高濱の声が聞こえて、俺は正面を向いた。高濱の視線は真剣そのものだ。
「目つぶってくれる?」
俺はおそらく露骨に顔をしかめたのだろう、クラスメイト達がしきりに頷いて高濱の言葉に従うよう促してきた。もう一度振り返り、美晃と実果の様子を確認してもクラスメイトたちと同じ反応だった。二人ともいたって真剣な面持ち。
俺は仕方なく瞳を閉じた。
「手出して」
俺は手に持っていた花束をわきに挟み、両手の手のひらを上に向ける。
冷たい感触があった。長方形で、どちらかというとサラサラした感触。
「目開けていいよ」
俺は目を開け、手のひらの上に視線を落とす。白い封筒がそこにあった。真ん中に「修学旅行一緒に行こう!」と書かれていて、周りには寄せ書きのように色とりどりのペンでコメントが添えられていた。
「みんな集まっちゃったから書いてたんだ。これからもよろしく」
高濱は微笑んだ。純粋な微笑みというよりは、何か気まずさをごまかす時のような、苦笑に近い表情。
「これ何?」
俺は聞いた。
「……修学旅行代。富田くんが積み立ててないって聞いて」
高濱が緊張しているのが手に取るようにわかる。声はかすかに震え、身体の強張りまで伝わってきた。
でも、俺の身体はそれ以上に震えていたと思う。そう、はらわたが煮えくり返っていた。これが夢だと信じたかった。薄々予想していたけれど、やはり俺の修学旅行代も払っていなかった母親と、そのことを調べようとしたクラスメイトたちに怒りを感じていた。
こんなお情けはいらない。こういうことをされるのが一番の屈辱であることを、どうしてこの人たちは理解できないんだろう。
俺は白い封筒を強く握った。握りつぶそうとして、札束の意外な頑強性に少し驚く。封筒に皴が入る。皴が盛り上がっているところに書かれた文字に、俺の視線は吸い寄せられた。「ごめんな」とそこには書いてあった。そっけない黒の細いペン。妙に達筆なのは美晃の字に違いない。
ごめんな、の四文字はみるみる歪んで、俺は右手で目じりを拭った。涙はその程度では止まらず、みるみるうちに零れてくる。人前で泣いたのは、記憶にある限り初めてだった。
俺は振り返ろうとして、どうしても振り返ることはできなかった。この場で一番最低なのは、明らかに自分だった。お金を渡した方が喜ばれるのか、それとも、そんな情けはかけない方が喜ぶのか、そんな判断を友達に強要している自分が一番悪い人間なのだ。
「祐斗、ごめん」
歩の声。俺が顔を上げると、歩が頭を下げている。ドラマで見るような角度で、なにもかも現実感がなかった。
こんなお金、突き返してやる。その気持ちは少しずつ萎えていった。もう手遅れなのだ。美晃や歩にこんな決断をさせた。副島先輩のバドミントン人生だって無茶苦茶にした。その理由は、俺が金を欲しているから、副島先輩の誘惑を断れなかったのは、副島先輩を泥沼に引きずり込んだのは自分なのだ。
この期に及んでこれを断り、満足させられるのは自分のプライドだけだろう。握っていた手にこもる力が自然と緩んでいく。
じゃあ、これを受け取って満足させられるのは? 薄暗い部室で副島先輩が見せた札束、そして、俺がこれから帰らなければならない場所が思い浮かぶ。自分の小さなプライドのために、ここでもう一度妹を裏切ってしまうところだった。
「ありがとう」
俺は深く、深く礼をした。心の中で十秒数えて顔を上げ、ゆっくりと振り返る。
「実果、今日はありがとう。一緒に帰ろっか」
こくりと頷く実果。俺は美晃から荷物を受け取って、実果が差し出してきた手を握った。クラスメイト達の群れは二つに割れてそこに道ができる。俺と実果は、ゆっくりとその道を進んだ。
「ゲームセットです」
美晃が落ち着き払った声で宣言し、その声が起爆剤となって拍手が起こった。普段の練習終了時刻はとっくに過ぎていて、コートを使用しているのは俺と副島先輩だけだった。
「実果」
俺は拳を突き上げてガッツポーズして見せる。実果も同じようにして小さな手をかざした。泣き笑いの表情が愛らしいと思った。
呆然と立っていた副島先輩が、こちらを睨みつけながら歩み寄ってくる。俺もネットにもう一歩近づき、下から手を差し出す。副島先輩がただ触れるだけの握手をしながら、
「なんでだよ」
とささやいた。
「勝ちたかったんですよ」
俺が答えると、
「俺だって勝ちたかったよ」
副島先輩はそう答えた。
俺と副島先輩は肩を並べ、三上先生へと報告に行く。
「二十一―十九、十八―二十一、二十二―二十で富田が勝ちました」
勝者がそう報告することになっている。
「富田、」
「それと、もう一つ先生に報告があります」
三上先生が何か言いかけたのを遮って俺はそう言った。三上先生の眉がぴくりとつり上がる。
「俺、部活辞めます」
三上先生が大きく目を見開いた。しかし、言葉はすぐに出てこない。
「職員室に行ってきます」
俺はくるりと振り返り、体育館の扉に向かって駆け出した。
副島先輩に勝利して辞める時、それは、俺が団体戦に出場する権利を握ったまま辞める時だから、もっと悔しい気持ちになると予想していた。けれども、終わってみれば、そんなことはどうでもよかった。この試合を制したことに、俺は無上の喜びを感じていた。かつてない満足が身体を支配していた。試合が終わった瞬間からずっと、走り出したくて身体がうずうずしていた。勝ったという気持ちが心の底から湧き上がる、いままのどんな勝利とも違った勝利だった。
俺は体育館の扉を開け放ち、陽の沈んだ校庭へと歩みだす。体育館前の、地面よりも数段高くなった空間。そこにはいたのは、特進科のクラスメイトたち。暗さに目が慣れてくると、輪郭だけでなく顔もはっきりと見えてくる。
彼らは歓声をあげて俺を取り囲んだ。本当にクラス全員いるんじゃないかと思えるくらい、二重三重に顔の輪ができている。
「ごめんね、本当はもっと少人数で、というか、わたし一人で来るつもりだったんだけど」
歓声がやんで、輪の中から進み出てきたのは高濱だった。両手を後ろに回している。
「富田くん、いままでありがとう」
高濱がゆっくりと両手を前に差し出す。高濱の手には花束が握られていて、白にうっすら桃色が入った花弁が印象的だったけれど、俺には花の名前なんて分からない。
「受け取ってよ」
高濱が花束を差し出したまま催促する。俺は困惑しながらも花束を受け取った。
小さな音を立てて、背後の扉が開く、振り返ると、俺のカバンまで背負っている美晃と、その横に実果が立っている。
「それからね」
高濱の声が聞こえて、俺は正面を向いた。高濱の視線は真剣そのものだ。
「目つぶってくれる?」
俺はおそらく露骨に顔をしかめたのだろう、クラスメイト達がしきりに頷いて高濱の言葉に従うよう促してきた。もう一度振り返り、美晃と実果の様子を確認してもクラスメイトたちと同じ反応だった。二人ともいたって真剣な面持ち。
俺は仕方なく瞳を閉じた。
「手出して」
俺は手に持っていた花束をわきに挟み、両手の手のひらを上に向ける。
冷たい感触があった。長方形で、どちらかというとサラサラした感触。
「目開けていいよ」
俺は目を開け、手のひらの上に視線を落とす。白い封筒がそこにあった。真ん中に「修学旅行一緒に行こう!」と書かれていて、周りには寄せ書きのように色とりどりのペンでコメントが添えられていた。
「みんな集まっちゃったから書いてたんだ。これからもよろしく」
高濱は微笑んだ。純粋な微笑みというよりは、何か気まずさをごまかす時のような、苦笑に近い表情。
「これ何?」
俺は聞いた。
「……修学旅行代。富田くんが積み立ててないって聞いて」
高濱が緊張しているのが手に取るようにわかる。声はかすかに震え、身体の強張りまで伝わってきた。
でも、俺の身体はそれ以上に震えていたと思う。そう、はらわたが煮えくり返っていた。これが夢だと信じたかった。薄々予想していたけれど、やはり俺の修学旅行代も払っていなかった母親と、そのことを調べようとしたクラスメイトたちに怒りを感じていた。
こんなお情けはいらない。こういうことをされるのが一番の屈辱であることを、どうしてこの人たちは理解できないんだろう。
俺は白い封筒を強く握った。握りつぶそうとして、札束の意外な頑強性に少し驚く。封筒に皴が入る。皴が盛り上がっているところに書かれた文字に、俺の視線は吸い寄せられた。「ごめんな」とそこには書いてあった。そっけない黒の細いペン。妙に達筆なのは美晃の字に違いない。
ごめんな、の四文字はみるみる歪んで、俺は右手で目じりを拭った。涙はその程度では止まらず、みるみるうちに零れてくる。人前で泣いたのは、記憶にある限り初めてだった。
俺は振り返ろうとして、どうしても振り返ることはできなかった。この場で一番最低なのは、明らかに自分だった。お金を渡した方が喜ばれるのか、それとも、そんな情けはかけない方が喜ぶのか、そんな判断を友達に強要している自分が一番悪い人間なのだ。
「祐斗、ごめん」
歩の声。俺が顔を上げると、歩が頭を下げている。ドラマで見るような角度で、なにもかも現実感がなかった。
こんなお金、突き返してやる。その気持ちは少しずつ萎えていった。もう手遅れなのだ。美晃や歩にこんな決断をさせた。副島先輩のバドミントン人生だって無茶苦茶にした。その理由は、俺が金を欲しているから、副島先輩の誘惑を断れなかったのは、副島先輩を泥沼に引きずり込んだのは自分なのだ。
この期に及んでこれを断り、満足させられるのは自分のプライドだけだろう。握っていた手にこもる力が自然と緩んでいく。
じゃあ、これを受け取って満足させられるのは? 薄暗い部室で副島先輩が見せた札束、そして、俺がこれから帰らなければならない場所が思い浮かぶ。自分の小さなプライドのために、ここでもう一度妹を裏切ってしまうところだった。
「ありがとう」
俺は深く、深く礼をした。心の中で十秒数えて顔を上げ、ゆっくりと振り返る。
「実果、今日はありがとう。一緒に帰ろっか」
こくりと頷く実果。俺は美晃から荷物を受け取って、実果が差し出してきた手を握った。クラスメイト達の群れは二つに割れてそこに道ができる。俺と実果は、ゆっくりとその道を進んだ。
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